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異世界神の黒き花嫁  作者: 未鳴 漣
第三章 クラーナ
115/153

終 話 「異邦への航路」

 気分は最悪だった。息はできるものの呼吸は苦しく、目の前は真っ暗で、耳の奥では先ほどからずっと地鳴りのような音が聞こえていた。土のにおいが鼻につき、湿り気を含んだ空気が肌に張りついている。


 あの日も同じようなにおいが一面に立ちこめていた。


 血のつながった両親が目の前で土砂に飲まれ、俺は母がとっさに突き飛ばした妹を引き寄せてガタガタと震えていた。


 悲鳴は聞こえなかった。


 聞こえたのは妹が泣き叫ぶ声だけだった。


 俺はといえば、泥に流されていった両親の後を追おうとする妹を抱きしめていた。彼女の爪が頬をひっかくのもかまわず、残された大切なものをみすみす失ってしまわないように、必死だった。


 父母から託されたこの子だけは守らなければいけない。


 自らの死を覚悟した母の壮絶な表情が、そうしなければならないと語りかける。片足を落石に潰され逃げることを諦めた父の瞳が、そうするべきだと語りかける。


 だから俺は、何があっても妹を守っていくと誓った。今も心の中に生きている両親に誓ったのだ。


 しかし()はもう、薄情なことに親の顔も思い出せない。その存在がいたことは、私がこの世に生きていることからも明らかであったが、その人間性については分からなかった。自分とどのような関係を築いていたのか……仲が良かったのか、それともろくに挨拶もしない冷め切った仲だったのか、その欠片さえ判然としない。


 しかもそれは、忘れてしまったとか覚えていないとか、かつてそこにあったものが思い出せないという感覚ではなかった。


 「家族」に関する情報が完全に、一切の痕跡も残さず消去されてしまっている。思い出せないと頭を悩ませる以前の問題だ。そこには初めから何もないのだから。


 ()にはもう、妹しかいないのだ。


 俺たち兄妹を引き取ってくれた心優しい養父……彼は私に激しい怒りを向けた。血は繋がらなくとも愛しい我が子を奪い取っていった魔女を憎んだ。


 私は彼に、できない約束をした。あの子たちを、無事にお帰しすると。


 お父様。彼女を憎まないで。


 私を許して。


 愚かな俺を許さないで。


 あの子だけは守るよ。


 あの子たちだけは守ります。


 だから……。


 そう叫んで手を伸ばす私の首を、誰とも分からない少年が後ろから絞め上げる。彼もまた俺と同じように叫んでいた。


 死んでしまえ。


 憎らしい。


 恨めしい。


 大切なものを根こそぎ奪っていった諸悪の根元。この世の醜悪をかき集めて腐らせたとしても、お前のようにはならないだろう。


 消えてしまえ。


 消えてしまえ──。


「……」


 ソラは舞台の幕を上げるようにして瞼を開き、夢の中から浮上する。


 気分は相変わらず最悪だった。口の中はカラカラに乾いて吐き気がするし、体もあちこちが痛くて、特に左腕などは切り落とされて先がなくなったかのような激痛だった。彼女は()()()()()()上半身を起こし、辺りを見回す。


 薄暗い室内はゆったりと左右に揺れていて、それはともすると揺りかごの中にいるように心地よい感覚だった。ソラは一度大きなあくびをし、続けて上体を反らして背筋を伸ばす。ベッドの傍らには互いに身を寄せて眠るジーノとエースがおり、ソラはそんな二人を見て小さく笑みを浮かべた。


 しかし、その微笑ましい光景をぶち壊す声が外から聞こえてきた。


 男のような少女のような声は、おはようと言って部屋の天井を開け、ソラの襟首を摘んだ。彼あるいは彼女は白い皿の上にソラを放り投げる。ころころと転がったソラは四つん這いになって視線を上げた。


 白い歯だけが浮かぶ黒塗りの巨大な顔が、こちらをじっと見ていた。目はないのに、見ていると分かるのも変な話だが、ソレは確かにソラを見ていた。


 その巨人が誰なのかは分からない。


 取り皿の上に乗せられた小人となったソラは状況が把握できず、何度も瞬きをする。その都度、目の前にいる人型の何かは白髪の少女と黒髪の男の姿に入れ替わった。


 ソレらはニンマリと唇に弧を描き、「見ぃつけた」。突如、片手に持っていたフォークの先端をソラの左手に突き立て、ひっかけたまま宙に持ち上げた。不思議と痛みはない──いや、元から居座っていた左腕の痛みにかき消されて、刺された痛みは感じなかった。


 とは言え、痛いはずだということは分かる。


 ソラはひぃひぃと泣き、ただ腕がちぎれていくのを見ているしかなかった。傷口から吹き出した血は黒い灰となって四散し、灰が生まれるということはつまり火が燃えているということで、ソラは黒い炎に身を焼かれ、灰皿の上に落ちて痛みにのたうち回った。


 これは酷い夢だ。


 起きたつもりの自分はまだ夢の中に居たのだ。


 寝ても覚めても悪夢なら、夢と現実のどちらがマシなのだろう……吐き気を押さえ込むようにして唾を飲み、ソラは改めて瞼を開く。


「……起きて、私」


 今度こそ現実であることを願ってソラが最初に見たのは、昨日知ったばかりの板張りの天井だった。染み一つない、縦に筋の入った若い色の木肌……ソラは空気を胸一杯に吸い込み、鼻孔に満ちる樹木の香りの中にわずかな潮のにおいを感じ取った。


 左の壁に目をやり、人の頭より一回り大きいくらいの四角い窓から真っ青な空を見上げる。木枠に縁取られたその景色は長い周期でわずかに揺れていた。耳を澄ませると、遠くから波の音や風を切って飛ぶ海鳥の鳴き声が聞こえた。


 ここは、船の中。


 異国へと向かう。


 ソラはそれを思い出し、人の気配がする右側に視線を振った。目に入ったのは金色の髪を持つ少女だった。


「……ジーノちゃん。おはよう」


 自分の声が耳の中で響くこの感じ。これこそが現実だと噛みしめながら、ソラはジーノに微笑みかける。


 ジーノはソラがはっきりと言葉を口にするのを聞いて、心底安心したように胸を撫でた。


「おはようございます、ソラ様。お体の調子はどうですか?」


「まだ……ちょっと熱っぽい気がする。けど、最悪だったときに比べたら元気……かな」


「そうですか。まだあまり動き回ったりはしない方がいいかもしれませんね」


「ジーノちゃんは……元気? だいぶギリギリまで踏ん張ってくれてたし……魔力の消耗も、酷かったんじゃない?」


「十分に休ませていただきましたし、もういつも通り元気いっぱいですよ」


 ソラは右の肘をつき、いつぞや一日気を失っていた時と同じく砂袋のようになった体をゆっくりと起こした。ベッドから足を下ろして腰掛ける形になり、ジーノと対面する。


 ソラは彼女の気遣う視線をかわして自分の左腕に目を向けた。


 夢で思った……先がなくなったかのような、ではない。実際、そこには何もなかった。体感でほんの数時間前──実際には五日ほど前まではそこにあったはずの腕が、今はない。二十七年生きてきて、まさか腕を失うような事態に陥ろうとは考えてもみなかった。


 ソラは残っている方の手で顔を覆い、長く息を吐く。何度目を覚ましても、起き抜けに欠損を見た衝撃が和らぐことはない。左上腕のほぼ真ん中から下を切り取られている……だというのに、まだ神経がつながっている様な感覚があるのが耐えようもなく苦痛だった。


 彼女は数秒だけ低く唸って、気味の悪い感覚を意味のない音に乗せて発散する。


「はぁ……。あ……そういや、エースくんは?」


「兄貴の方なら厨房に籠もってるぜ」


 答えたのはジーノではなく、少年の声だった。セナだ。彼は室内の入り口近くにいて、ソラに視線を向けず、抑揚のない口調で話した。


 彼はソラが商都クラーナの外の天幕で目覚めてからこの船が停泊する港まで移動する間、そんな風に素っ気ない態度だった。相手に対する興味がまるでない、といった感じだ。これまでずっと、何かにつけてはソラを睨み憎悪を露わにしてきた様子と比べると、明らかに不自然だった。無論、彼にも気分があるだろうから、態度にムラがあるのは自然なことであるが、それがここ数日の常になりつつあるのは自然なことではなかった。


 そんなセナの変わりようは、ソラの胸に妙なざわめきを引き起こしていた。彼女はわずかに眉をひそめ、少年に視線だけをやって聞き返す。


「厨房? 何でまた?」


「知らねぇよ」


 セナは明後日の方向を向いて短くそう言う。


「この船、ユエさんが手配した特別な船だって聞いたけど。それなら料理人さんも乗ってるんじゃない? 何でわざわざエースくんが料理しなきゃならないの?」


「だから、知らねぇっての」


「……」


 どこか上擦って、遠慮でもしているかのように聞こえる彼の声色に、ソラは顔をしかめる。そのやり取りに、これまで黙っていたユエが言葉を挟む。


「何でそう皆さん、ツンツンしはるんです?」


「別に。ツンツンはしてません……」


「ま、何でもいいですけど。エースはんはソラはんのお口に入るもんは自分で作りたいとかで、ちょっと前から厨房に籠もっとるんですわ」


「そう、ですか……」


 エースのそれは何者かに対する警戒の表れだった。思えば、この船に乗るまでもずっと何かを見張っているかのように見えた。いったい誰に不信を抱いているのか? 考えるまでもない。


 あからさまに態度が変わったセナである。


 加えて、ソラが違和感を感じるのはユエに対してもだった。腕を失って気持ちが置いてけぼりを食っているソラは、今の状況を一人外野から眺めているような気分で、それだから誰よりも冷静に周囲の様子を把握することができた。


 ジーノの隣にやってきて、ソラの体調を気にかけてくる和服の女──絵に描いたように美しい笑みを浮かべる淑女の姿を見て、ソラは座る場所をベッドの奥の方にずらして彼女から遠ざかった。信頼していたであろう身内に裏切られた割には、随分と落ち着いて見える。動揺を内に秘めて気丈に振る舞っているとも受け取れるが、少しも気落ちしているように見えない「完璧さ」は異様だった。


「あの、ユエさん……。ツヅミさんが裏切ったって話、本当……なんです?」


「ええ……。恥ずかしながら理由は見当もつかんのですけど、宿借りの側についたことは確かです」


 彼女はその話題に触れて初めて、身内の背信を恥じる表情を浮かべて顔を背けた。それは先ほどの笑みに続き絵に描いたような羞恥の姿で、しかし出会って日の浅いソラにはそれが彼女本来の仕草なのか、はたまたそうでないのかは判断できかねた。


 ソラは急に痛み始めた頭を押さえ、今度はジーノに目を向けて、頼りにしていた大人の名前を口にする。


「ケイ先生は……?」


「先生はロカルシュさんの手当に向かわれて、その間に私たちが東ノ国へ移動することになってしまったので、現地で落ち合う約束をしました」


「ああ。そう、だったね……。えっと、割とぼんやり聞いてたから、改めて確認したいんだけど……」


 ソラは米神を押さえて、頭痛を逃がしながら言う。


 左腕の痛みが酷く、それどころか体のあちこちが痛んでどうにも考えがまとまらない。ソラはどっと押し寄せた疲れに冷や汗を浮かべ、ベッドの縁まで下がっていって壁に背中を寄りかからせた。


「アー。そしたら……そう。これから東ノ国へ、行くんでしたっけ?」


「ええ、ソラはんの義手をお作りするために」


「義手……私の腕。小騎士様はそんなことのために、王都行きを……後回しに?」


 ソラはセナに視線を移し、彼に問う。


「……そうだ」


 セナはやはりソラの顔を見ない。ほんのわずかに罪悪感をにじませる表情でうつむく少年を、ソラは見つめた。ユエはその視界に入り込んで、笑みを絶やさず言葉を続けた。


「いややわソラはん。そんなことちゃいますよ。体の一部を失うんは自分でも気づかんとこで心の負担になっとるもんです。軽減できる手段があるなら、そうした方がええ。当事者のアンタなら、よう分かりますやろ?」


 ソラには彼女の言葉が、セナの態度を取り繕っているように聞こえる。それはソラの思考が痛みに追いつめられているせいだろうか? 何だかもう、誰も彼も、何を考えているのか分からない。


「……ショックで自分から死にやしないか、心配だってことですか? まぁ、それは分かりますよ。でも、だったら手足を縛って、猿ぐつわでも噛ませて、引きずっていけばいいだけの──」


「セナはんも人の子や。しばらく一緒にいるうちに情がわいたんと違います?」


「……」


 その名前呼びさえも唐突すぎるように感じてしまう。


 しばらくの間、沈黙が流れる。


 時間が経過するごとに部屋の空気が重苦しくなっていく。ジーノなどは襟を止めるボタンを一つはずして首元をくつろげていた。


「……俺は少し外に出てる。魔女と同じ部屋の空気吸って気分が悪いったらねぇぜ」


 セナもまたこの雰囲気に絶えられなかったのか、取って付けたような嫌悪を口にして部屋を出ていった。


 そんな中でもにこやかにしているのがユエだった。


「ソラはん、元気ないですなぁ? 何か不安でも?」


「こっちに来てから、不安じゃなかったことなんて。少しもありませんよ」


「そうやの……ああ、そういえばケイはんと離れてしもたけど、足のお薬は足りてます?」


「薬……?」


「前に足が悪いのかてお聞きしたとき、アンタはん言うてましたやろ。ケイはんからお薬が処方されとるて」


「……そうでしたね」


「ええ。それで、何だったらうちの方で似たようなお薬を出すこともできますけど。どないします?」


 その軽快な言は文字通りフワフワと浮いていて、ソラの頭の上を滑っていくようであった。いい加減、ソラは頭痛が酷くなってきた気がしてこめかみを押さえ、そうかと思えば目頭を摘み、鼻面から口元までを手で撫でて静かに息を吐いた。


 そして、ジーノに顔を向ける。


「ジーノちゃん。悪いけど……エースくんの様子を見てきてもらえる? 実を言うと、お腹空きすぎちゃってさ……先にちょっと、つまみたいんだよね」


「そうなのですか? ですが食欲が戻ったのはいい傾向ですね。少しお待ちください」


「アッ、でも……急かしてるわけじゃないから。エースくんには、ご飯作るのゆっくりでいいからって……伝えてね」


「はい。分かりました」


 ジーノは若干軽くなった雰囲気に安堵し、笑顔を浮かべてソラの頼みに頷き部屋を出ていった。その後ろ姿がドアの向こうに消えたのを見て、ソラはユエに視線を戻す。


 しばらく無言の見つめ合いだった。


 睨み合いだったかもしれない。


 魔法を使ったわけでもないのに室内の気温が下がり、心地よいはずの潮騒はただの雑音となり、窓枠の景色も色彩を失う。口の中に何か苦い味が広がり、飲む込む唾も枯れていく。


「……あかんなぁ。ソラはんはどうやら、具合悪い方が頭冴えてくるお人のようで」


 ユエが先に、降参だと言わんばかりに両手を上げた。


「うちはアンタはんに恨まれるべきやからね。誤魔化すんはやめにしときますわ」


 彼女はそう呟き、ソラの失った左腕を見ながら言う。


「エースはん」


「……」


「アンタにとって腕を差し出しても守りたい大切な子なんやねぇ。普通はでけへんよ?」


「……とっさに体が動いたんです。何であんなことができたのか……自分でもよく分かりません」


「ジーノはんのこともよう気にかけてるし、二人のことが大切なんやね」


「ええ……」


 (スラン)から奪ってしまった愛し子。大切でないわけがない。ソラはユエの言葉に深く頷いた。


「なぁ、ソラはん。崇子様をお迎えするんはうちらの一族にとって悲願なんや。いや、うちらだけやない。この世界にとってしても、重要なことなんです」


「……」


「この大願、もしも邪魔しようて考える輩がいるんなら……うちは一族総出になってでも排除させてもらうつもりです」


 ソラはユエが何を言わんとしてそんなことを口にするのか分からなかった。彼女は怪訝な表情を作り、眉間にしわを寄せてユエを見る。


 ユエは懐から扇子を取り出して開くと、口元を隠して目を細めた。


「あのご兄妹のことは、無事に故郷へお帰ししなあかんのやろ?」


「何で、貴方がそれを……!?」


「寝言で何やブツブツと。うちも聞くつもりはなかったんやけど、聞こえてしもたもんは仕方ありまへん」


「……」


「ソラはん。頼れる大人(ケイはん)がおらん今、アンタ一人であの子らの責任持たんとなんやし、しっかりせなあきまへんぇ?」


 彼女は脅しに等しい言葉を、あくまでソラを気遣う口調で言う。


 ソラは得体の知れない脅威にさらされ、ベッドに倒れ込んだ。度重なる心労に精神が悲鳴を上げ、体のコントロールを失ったのだ。耳に響く雑音が大きくなり、景色は彩度を落として白黒になる。


「無理させたようやね。堪忍やで」


「あ……貴方は、何を考えてるんですか……」


「それは追々。とにかく覚えておいてほしいんは、アンタはんはうちのお家に──延いてはこの世界にとって大切なお人やいうことです。丁重に扱わせてもらいますよって、安心してください」


 扇子を閉じたユエは裏が見えない表の顔で柔和な表情を作り、心からの慈愛を持って目の前の存在を見つめた。その先にある世界の──否、己が家の救済を願って、彼女は崇子たるソラを見つめていた。






 ほぼ同時刻。


 そこはまた別の船の上。


 ナナシはつい五日ほど前に負傷した太股の傷から既に回復しており、まるで何事もなかったかのように甲板の手すりに肘を置き、遠くにあるという異国を見つめていた。ジョンも手すりに寄りかかり、一緒に潮風を受けている。


「にしてもツヅミ、お前すげぇな。検問とかぜんぜん問題になんなかったし」


「何事にも抜け道はありますからね」


「でも、みなとでみのがしてくれた、きしのひと。といつめられたら、しゃべっちゃったりしない?」


「彼は我が国の工作員です。死んでも吐きませんよ」


「うわぁ……何か怖ぇな」


「つづみん。ななしをこわがらせるの、だめよ」


「これは失礼しました」


 ジョンはナナシを庇うようにしてツヅミとの間に立ち、威嚇の意味を込めて歯を剥いて顔にしわを寄せた。ナナシはそんな彼女の頭を優しく撫で、地平線に向かって穏やかな顔を向ける。


 するとジョンも同じ方向を向き、ぴょんぴょんと飛び跳ねてナナシに景色を見せるよう求めた。手すりの高さと彼女の目線はほぼ同じで、飛びついて身を乗り出せば自ら眺めることも可能なはずだったが、腕に「ある物」を抱えていたジョンはそれができなかった。


 ナナシはジョンを片腕で抱き上げ、彼女に問う。


「なぁ、ジョン」


「なにかな?」


「その腕さ、いったい何に使うの?」


「んーとね。ななしに、まじょさんのちから、さずけてあげようかと!」


「僕に? 魔女の力?」


 傍目には親子もしくは兄妹が仲睦まじく会話をしているように見えたが、二人の間にあるのは凍らせた女の細腕であった。ツヅミはその光景に顔をしかめながら、ジョンに声をかける。


「盛り上がっているところ申し訳ないのですが、ジョンさんに一つご忠告が」


「なに? かしら?」


 ナナシの腕の中で振り返ったジョンの耳に口を寄せ、ツヅミは囁く。


「……それを食べさせても、魔力は移植できませんよ」


 それを聞いたジョンは反射的にナナシに抱きついてツヅミから離れ、目を大きく見開いた。


「え? ええ~? つづみん、ぼくがやろうとおもってること、なんでしってるの?」


「フラン博士の論文の内容は存じておりますので」


「んん~。でも、できないっていわれて、はいそうですかって、すぐになっとくいかない。いしょくできないっていう、こんきょは?」


「魔力は血の巡りに乗り体を循環しますが、その拠り所は身体的な生命活動ではない。もっと精神に寄っているんですよ」


「そーす、もとむ! しょうこ!」


「そぉす? が何かは分かりませんが、東ノ国に着きましたら、こちらの符術に関する研究論文をお見せしますよ。寄港している間に手に入るよう手配しておきます」


 ツヅミは甲板に出ている船員の一人を呼び、到着予定の港に連絡を入れて文書を用意させるよう指示する。その様子を眺めながら、ナナシは首を傾げる。


「ていうか、僕らのオトーサンがアイツだったって、ツヅミは知ってたのか?」


「ええ。旅の道中でそのような話を聞きましたから」


「へぇ~、なんでもしってるんだね。すっごー。あっ! もしかしてあのおやしきにも、こうさくいんさん、いたりしたのかなぁ?」


「……ご想像にお任せします」


 ツヅミは二人から一歩離れ、左右対象で完璧な笑顔を浮かべてそう言った。


「ふーん? ま、仮にいたとしてもあそこで僕──違った、ジョンに何もしてくれなかったんだから、死んじゃっても仕方ないね」


「……」


「そしたらつづみん。これあずかっててー。すぐにいしょくできないなら、もっててもしかたないし」


「……分かりました」


 ジョンはソラの腕でツヅミにおいでおいでをする。ツヅミは少し待つように言い、船室から白い布と符術の術式が書かれた帯を持って戻ってきた。彼は布に受け取った腕を丁寧に包んだ後、符術の帯を巻き付けて冷気で封じた。


「では、お預かりします」


 彼は厳重に封印された腕を抱え、その場を離れる。その背中にナナシが話しかける。


「つーかツヅミさんよォ。いい加減、お前の目的を教えてくんない? 僕さ、焦らされるの好きじゃねーの」


「ぽいんとかせぎ、めんどくさくさ」


 それを聞いたツヅミはピタリと歩みを止め、しばらく返答を考え込んだ後、体ごと二人を振り返って言った。


「この世界はいずれ終わる。だったら──、この手で壊してしまっても同じことではないかと。私はそう思いましてね」


 雲の切れ間から差した日差しを背負う彼の顔は逆光でよく見えなかった。だがナナシとジョンはその返事を聞いて、何とも言いようのない胸の高鳴りを感じていた。


「へぇ~! 世界を壊す、ね。いちいち鬼退治していくよりはそっちの方が効率いいかも」


「おや。貴方がたの大切な〈僕たち〉を破滅に巻き込んでしまうことになりますが、よろしいのですか?」


「人間どうせいつか死ぬし。みんな平等に死ぬんならいいんじゃね? あ。でも僕たちが死ぬときは苦しまないようにしてあげたいなぁ」


「まったく……破綻していますね」


「お前に言われたくないっつーの」


「……おっしゃるとおりで」


 ツヅミは今度こそ、その場を後にする。


 彼の背後で宿借りの二人は互いを見つめ合って、クスクスと笑い出した。子どもが戯れに、虫の足を引きちぎるように。


 残酷に。


 しかし楽しそうに。


 それは次第に大きくなり、雲一つない青空の下で雷鳴のように響き渡った。

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