第9話 「ハッピーエンドの定義 1/5」
翌朝、ソラを起こすためにジーノが客間を開けると、寝台の布団が餅のように膨らんでいた。布団の端からは縦になった枕がはみ出ていて、本来そこに乗っているべき頭はどこにも見あたらない。昨日の冷え込みはここ最近に比べれば弱まったように思ったが、真夏の格好をして現れたソラはこの寒さに慣れていないのだろう。無意識のうちに布団を頭まで被ってしまったようだ。
「ソラ様、起きて下さいまし。朝食のご用意ができています」
布団をめくって起こそうとすると、
「まって……あと、ごふん……」
寝起きのためかしゃがれ声で返事をしたソラは布団の隙間から手を出して何かを探し──ているかと思えば、急に起き上がり叫んだ。
「仕事ッ!? 遅刻する!」
顔を真っ青にしたソラはジーノを押しのけてベッドを飛び降りる。ジーノは慌ててその腕を掴み、寝ぼけ眼で夢の中を駆け抜けていく彼女を現実に引き戻そうとした。
「ソ、ソラ様? 大丈夫ですか?」
「え? ちょ、なに? 誰……?」
ジーノに抱き寄せられたソラは、困惑する金髪碧眼の美少女を見つめて、「おかしい。起きたはずなのにまだ夢を見てるぞ」。などと考えていると、急ぐあまり布団の中に置いてきた意識がだんだんと頭に戻ってきて、彼女はどうにか昨日の出来事を思い出した。
「──っと、ごめんジーノちゃん。おはよう」
「はい。おはようございます」
ジーノは覚醒してくれたソラから一歩離れ、少し首を傾げた風にして笑う。そのあどけなく愛らしい仕草に朝から癒され、つられてソラも口元を緩める。異世界召喚という一大イベントの後とは思えないほど脳天気な顔である。
「起こしに来てくれたんだよね。これから朝ご飯?」
「はい」
「ん。昨日お夕食をいただいたのと同じ部屋かな?」
「そうです。今日のお着替えを置いておきますので、お召し替えなさってください」
「分かりました~」
ソラが了解すると、ジーノは慎ましくお辞儀をして部屋を出て行った。
一人になったソラは誰も見ていないのをいいことに大口を開けて欠伸を一つ漏らす。続けて腕を天井高く伸ばして背中を反らせ、背筋を通り抜けた寒気に身震いした。
「ハァ、仕事は辞めたじゃん。未だに間違えるとか社畜が染み着いてんな……」
悲しくて涙が出そうだった。
とにかく、朝食に呼ばれたのだし、早いところ支度をすませなければならない。ソラは顔を洗うために一度外に出て洗面所へ向かい、用事を済ませて戻って来るとジーノから借りた服に着替えた。それが終わった後はベッドを整えて、ついでに何本か抜けていた髪の毛をゴミ箱に捨てた。
部屋を一通り見回して、案内された時と同じ状態になったことを確認する。
「よし! ご飯!」
ソラはぐぅと鳴った腹を押さえて部屋を出た。各部屋をつなぐ廊下を通って居間に行くと、スランは席に座って新聞のようなものを読んでおり、ジーノとエースもあとは椅子に座るだけという状況だった。
「おはようございます。遅くなってすみません」
「おはようございます、ソラ様。よくお眠りになれましたか?」
スランが紙面を畳み、椅子から立ち上がってソラを迎える。
「よく眠れすぎて、つい寝ぼけちゃったくらいです」
「それはよかった。では、みんなそろったことですし……朝食にしようか」
スランはソラが席に着いたのを追って腰を下ろし、兄妹に笑顔を向けて着席を促す。
「では。いただこう」
「いただきまーす」
ソラはスランの声に続いて手を合わせ、箸を持ち上げる。
粒が立ったツヤツヤの白米はそれだけで美味しい。魚の干物にしろ、彩り鮮やかな野菜にしろ、何であれソラは満面の笑みを浮かべて食べた。
箸が口と卓上とを行ったり来たりする間には、これから少し雪が弱まるという話が出た。ソラは口をモグモグと動かしながら外を見る。空は昨日から引き続いて灰色だ。絶え間なく雪が降り、窓枠には氷粒が張り付いて凍っている。
「……これだけ雪深いと、雪除けとか大変そうですね」
ソラはスランの方を見て言う。
「除けてもすぐに積もってしまいますからね。おまけにこの年になると腰にも響いて……もうずっとエース頼みなんですよ」
「お父様に腰を痛められては大変ですからね」
「ええ、本当に。いつぞやのようになってしまっては大変ですから」
父の言葉にそっと表情を緩めたエースに対し、ジーノは過去の出来事を思い出しながら呆れたようにしてそう言った。ソラは彼女が言う「いつぞや」の大変なことが何なのか気になり、つい話の先を聞いてしまう。
「スランさんが腰を痛めて、何かあったんです?」
「あ……、その。それは──」
「聞いて下さいまし、ソラ様」
ごまかそうとするスランを遮り、ジーノはプリプリと怒ってソラに苦い思い出を語り始める。
「あれはちょうど村で風邪が流行っていた時期でして、元気なのは先に治った子どもたちくらいのもので、ほとんどの大人が寝込んでしまっていたのです」
そんな状況でも雪は降り積もった。自然と雪をかく人手が足りなくなり、幸運にも罹患していなかったスランが手伝いに出ることになった。ちなみにエースは患者の症状の把握と薬の調合、ジーノはその看病に追われていたらしい。
スランは当時を克明に思い出したのか、居心地が悪そうに明後日の方向を見上げた。
「ま、まぁ……あのとき私は元気だったし、頼まれたら応えるさ。何て言ったってこの村の祠祭だしね。出ないわけにはいかなかったんだよ……」
「そうですね、それはいいのです。いいのですが……お昼過ぎに村の人が駆け込んできてお父様が腰を痛めたとおっしゃるので、きっと無理をしたのだろうと心配してお兄様と二人で見に行ったら……」
何のことはない。合間に子どもたちと雪合戦をしていたら転んで腰を打ったという話だった。
「お兄様は患者さんを診てお薬を作るだけでも大変ですのに、そこにお父様の腰の具合まで合わさって朝から晩まで大忙し。私も祠祭職を代行しながら看病を手伝いました。あんなことは二度と御免です」
ツンとした仕草でそっぽを向いたジーノの横では、エースがどこか遠目をして記憶を振り返っていた。
「他にも食事を作ったり、汚れ物を洗濯したり、子守をしたり。果てには馬のお産も重なって、あれは本当に大変だったね。うん、大変だった……」
村が全滅するかと思ったと言い、兄妹は揃って深く長いため息をつく。スランはそれはもう気まずそうにして、娘の厳しい視線に見つからないよう小さくなっていた。
「いやはや、これはやぶ蛇だったなぁ……」
「私も雪除けの話からこんなことになるとは思いませんでした……何だか申し訳ないです」
「いえ、あの時の私がまるで役に立たなかったのは事実なので。ハハハ……」
おそらく、腰を痛めたのが除雪作業中であればここまでひどくは言われなかっただろう。しかしながらスランは、たかが風邪とはいえ割と深刻な流行状態の中、子どもの相手をしている最中に怪我をしたのがいけなかった。
何ともフォローのしようがないが、しょんぼりとするスランの姿がかわいそうで、ソラは必死に他の話題を探して彼から矛先を逸らそうとした。
「アー。と、ということはですよ……ジーノちゃんとエースくんはこの村の救世主なわけだ。すごいね! 今まで一つも病気したことないって聞いたし、そうなるとやっぱり村の人からあやかったりされるんじゃない?」
苦し紛れの転換ではあるが、少なからず賞賛を含む言葉にジーノは気をよくしてうっすらと笑みを浮かべた。
「確かに皆さん、よくお兄様の煎じた薬をほしがったり、私も看病を頼まれたりすることがありますから。そういうことなのだと思います」
深く頷くジーノに対し、エースはきょとんとした顔で首を傾げ、このとき初めて得心がいったとでも言うように手の平を打った。
「ああ、あれってそういうことだったのか」
「お兄様、お気づきじゃなかったのですか?」
「師匠がいるのに何でみんな俺にばかり薬を頼むのかなって、不思議に思ってたんだ。そういう心理があったんだね……」
「お兄様は相変わらず……おっとりしているというか、しすぎているというか……」
「まぁまぁ、私も二人を迎えてからは大きな病気も怪我もしていないし、それを考えるとソラ様の言うとおり、本当に御利益があるのかもしれないよ」
「ですよね。病気しないって地味に聞こえるかもだけど、私からしたらうらやましいくらいだし」
その言葉にソラは自らの経験を重ね、実感を込めて何度も頷く。
一方で、エースは少し困ったような表情を浮かべて言った。
「いいことばかりでもないんですよ。俺なんて病人を診るのに体の調子が悪いっていう感覚がよく分からなくて……。師匠にはそうでなくても察しが悪いのを肝に銘じておけと言われてますし」
「さっきも話に出たけど、エースくんにはお師さんがいるの?」
「はい。俺に魔術を教えてくれた先生です」
「魔術……ってのは、種も仕掛けもある魔法みたいなものだってジーノちゃんから聞きましたが?」
「この国では主に薬学のことを言いますね」
「薬学かぁ。ひょっとして、エースくんってお医者さんの卵? 昨日も私の頭の怪我とか心配してくれたし。何かすごいな~!」
「そ……そんなことは、ない。ですよ……」
面と向かって褒められると照れくさいのか、それにしては顔色を暗くして彼はうつむいた。何か気を悪くするような話題に触れてしまっただろうかと、ソラは彼の向かいでソワソワしてスランに助けを求める。
スランはエースの頭を優しく撫で、何事もなかったように話を続けた。
「ケイはエースに剣術も教えていましてね。あれは医者であり薬師でもあり、ほかにも世界を旅する冒険家としての顔も持ち合わせているんですよ」
「お医者さんで薬師さんで、しかも冒険家なんですか! 何とも超人的ですね」
何でも、護身用に体得した剣術は達人の域に達していると言う。ソラは白衣をまとった筋骨隆々の戦う医者を想像しようとして……まったくその姿が思い浮かばなかった。そうしてソラが必死に妄想を膨らませる他方で、ジーノが人差し指を立ててふと思い浮かんだ出来事を口にした。
「あっ! でも、お兄様は子どもの頃に一度だけ体調を崩されたことがありましたよね」
「そういえば、そんなこともあったね」
「ほほう。どんなことがあったのかお聞きしてもよろしい?」
スランの一件で余計な口を挟むと火種が誰かに飛び火することは分かっていたが、それでもソラは聞くのをやめられなかった。生まれてこの方、風邪も引いたことがないエースが体調を崩したのはなぜか。その疑問に答えを得ないではいられない。
こうして交流を深めることこそ自身の生存率を上げるために必要なのだと、尤もらしい建前で野次馬根性を覆い隠し、ソラは身を乗り出す。彼女の問いかけにはジーノが答えてくれた。
「夏のある日、私たちは村の祭りで振る舞う食事を作っていたのですが」
「うんうん」
「気温のせいで一部の食材が悪くなっていたらしく、それを食べてしまった方々が寝込むことになったのです」
「それ集団食中毒……」
「村のほとんどが数日寝たきりになってしまって。ハァ……あの時も大変でした……」
「えーっと、話の筋から察するに、エースくんはそこで体調を崩したってことなのかな?」
ソラはエースを振り向き、聞く。
「そうです。と言っても、少し気持ち悪いかな、というくらいでしたが」
「マジか」
エースは食事を進めながら事もなく言った。だが、ソラは目をまん丸に見開いて信じられないものを見る目でエースを見やった。
「ちょっと気持ち悪い? 村の人みんな寝込んだのにキミはそれで済んだの?」
「はい」
エースはさも当然のことのように頷く。ソラは次いでジーノの方に顔を向け、
「えっと、ジーノちゃんはどうだったの?」
「私は平気でしたよ。割とパクパク食べたはずなのですけど」
「マージーかー」
ソラはジーノが持つ驚異の胃袋に戦々恐々といった表情であった。自分だったらそれら感染者の中で一番の重症に陥る自信がある……ソラはいつぞやに経験した胃の苦しみを追体験して眉間にしわを刻む。
その隣では、当時を振り返るスランが明るい声で懐かしんでいた。
「あの時も看病してくれる二人がいなかったら、この村は全滅していたかもしれないねぇ」
「いやいやいやスランさん!? それそんな朗らかに言うことじゃないですって。というか皆さん迂闊すぎやしません? 過去二回も村で全滅しかかるとか普通ないでしょう」
「ハハハ。今となっては笑い話ですよ」
「そ、それでいいのかなぁ……?」
そんなことを言っているから同じようなことを繰り返すのではないか? スランに対して「隙のないしっかりとした大人」というイメージを持っていたソラは、その形がガラガラと崩れていくのを感じていた。
道理でパンデミックのさなかに子どもと遊んで腰を痛めるわけである。
この家の雰囲気に流されてぼんやりしていると、いつか思いもよらない落とし穴に落ちそうだ。
ソラは大根の味噌汁に口を付け、
「アッツ……ッ!!」
つまりこんなことになりかねないので、これからは気を引き締めて行こうと決意するのだった。




