風邪と天才魔術師1
衣替えもすっかり終え、朝晩の冷え込みも骨に染みるようになってきた秋の終わりだった。
黄金に染まったプラタナスの葉は地面に幾層も重なり、その上をリスが走っている。冬の到来に備えてハーブには藁がかけられ、庭にはすっかり葉が枯れてしまったものもあった。
他にも冬が来る前に、秋に買い込んだ果実でジャムや砂糖漬けをたっぷり作った。瓶詰めにしたジャムはキッチンの戸棚の下。秋の初めにソークから貰った洋なしは甘いコンポートにして保存食だ。
リネットの冬の楽しみのひとつは、秋で作っておいた甘い果実のジャムや砂糖漬けを、薪がよく燃える暖炉の前で食べることだった。今から冬が楽しみである。
しかし、冬支度を張り切りすぎたせいか、リネットは体調を崩していた。
「ううー、さむい……でたく、ない」
水鳥の羽毛から作られたふかふかの蒲団を被り、亀のように丸くなってベッドの上で唸る。軽いのに温かい蒲団だったが、リネットはさらに毛布を身体に巻きつけていた。枕に顔を押し当てながら、熱い息を吐く。
「ああ、でも、今日は研究所に行かないといけないし、ええと、確かクリームの撹拌作業だったわよね……?」
ショウの提案で作ることになった今冬最大の目玉品、保湿クリーム。これに美容成分を混ぜ込むことで、美白を追求する女性の心を鷲掴み、研究費の増額を図るらしい。カガクとは日常生活を便利にするもの、というのが最近のリネットの見解だ。
「はぁ……」
身体は熱いのに芯は冷えている。先ほどから体の震えが止まらない。それでも意を決して蒲団から這いずりでると、リネットはベッドサイドに置いてあった一枚の紙を手に取る。その紙は正方形で、手の平ほどの大きさだ。表には魔術陣が転写されており、裏には使用についての注意書きがある。
リネットは指先に魔力を込めて魔術陣に触れた。
「解呪フレア」
指先から微量の魔力が魔術陣に放たれ、魔術陣が淡く光って発動した。赤みを帯びた光はやがて収束し、その代わりに紙に温もりがともっていく。やがてほかほかと放熱する紙をハンカチに包む。それを懐に、リネットはようやくキッチンへ行く。
寝室のドアを開くとすぐにキッチン兼ダイニングとなっている。夜は暖炉に火をいれていないので、随分と冷え込んでいた。ぶるりと身を震わせながら戸棚を覗くと、通りが二つ向こうのパン屋で購入しているパンがないことに気がつく。
(しまったわ……そういえば昨日が買い出しの日だったのに……忘れてた)
朝食のメニューは大体決まっている。馴染みの店の食べ慣れたパンに、目玉焼きかふわふわのスクランブルエッグ、それかゆで卵を潰してサンドにするのが常である。たまにカリカリに焼いたベーコンやゆでたソーセージ、サラダを付けることだってあった。
他に食べ物はないかと戸棚を漁る。残っている食材はたまごに小麦粉、果実のジャムがたっぷり。けれど、リネットにはそれらを調理する気力がなかった。このまま朝食を抜いても普段なら問題はないかもしれない。しかし、今はただでさえ体調不良。食べなければ体力を消耗するばかりで、薬を飲むためにも胃に何かをいれるべきだ。
「とりあえず、何か作ったほうがいいわよね……」
ふらりとする身体をどうにか支えながら、リネットは調理台の前に立つ。
そこへ、唐突に呼び鈴がなった。可愛らしいリスのベルがりんりんと来客を告げる。いつもは気にならない音だったが、今は頭に響いてリネットは思わず呻き声を漏らした。ローブを着込んでいつものように顔を隠すと、のろのろとキッチンを出て階下に繋がる階段へと移動する。そして、壁に身体を預けながらゆっくりと一段ずつ降りて、ようやくりんりんとけたたましい音を立てる、玄関先へとたどり着いた。
心なしか寒気と頭痛が酷くなった気がする。
顔を顰めながらリネットが玄関の鍵を解錠し、ドアを開けるとそこには案の定、ソークが立っていた。
柔らかな髪は切り揃えられており、瞳は藤色に染まっている。本来の金色を隠しきった青年は、リネットを見た瞬間に、穏やかな顔に怪訝な表情を浮かべた。
「おはようございます、魔女様。あの、今日は染め粉と新しいコンタクトレンズを貰いに来たんですが……」
「うん、染め粉に、コンタクトレンズね……ちょっと待って、準備するから」
「は、はい」
ソークはリネットの張りのない声に戸惑いを覚えたが、何も言い出せず、店内のいつもの椅子に座った。
リネットはというと、覚束ない足取りでカウンターの向こう側に周り作業場に入ろうとする。そのとき、足が縺れてリネットはドアに縋りつく形で床に倒れこんでしまった。
「魔女様!」
すかさずソークがカウンターを越えて、床に倒れ込むリネットを抱き起こす。そして、息を呑む音をリネットは聞いた。伸びた手の平がリネットの額に押し当てられ、その冷たさに首が竦む。ひゃっと声が漏れる。それは自分でも信じられないくらい、弱々しく小さいものだった。
「熱がありますよ魔女様。もしかして、風邪ですか?」
「んー、そうかもしれない?」
「いいえ、そうですよ! だって、こんなに熱いじゃないですか!」
思わず強い声をあげるソークに、リネットはくらりと上体が傾いだ。それをソークがしっかりと受け止めた拍子に、フードが外れてリネットの顔が外気に触れる。
頬と目元は熱のために赤くなっており、濃い青の瞳は涙のおかげで真っ青な宝石を水に浸したように濡れていた。僅かに開いた唇からは苦しそうな呼吸音。
ソークの眉間にシワが刻まれるのをリネットは初めて見た。
「休んでください。といっても……わたしが起こしたせいですよね。申し訳ありません……立てますか?」
「んん、大丈夫よ」
ただそうは言ってもソークの腕を借りてゆっくりと立ち上がらなければ、今にも膝から力抜けて崩れ落ちそうだった。頼りないリネットの様子に、ソークの表情はますます険しくなっていく。
「染め粉もコンタクトレンズもすぐに用意するわ。どうせ、今日は研究所に行かないといけないんだもの」
「……研究所? そう言えば魔女様は研究所で働いていると仰っていましたね……」
「そうよ、王宮魔術研究所でね。言わなかったっけ?」
「そ、そこって国一番の魔術師が集うって場所じゃないんですか!?」
「そうらしいわね……まぁ、協力員ってところなんだけど。それで、今日は出勤しなきゃいけないの……ソークの方をまず終わらせるわ」
そう言ってリネットは再び作業場へ入ろうとしたが、前に進む前に身体の力が抜けてしまった
あ、倒れる……!
ぎゅっと目を瞑って身体を強ばらせる。思うように動かない身体では、まともな受け身でさえ取れそうにない。覚悟して痛みを待つ。しかし、リネットは力強い腕に支えられ、床に倒れずに済んだ。ふわりと石鹸の匂いが鼻をくすぐり、しっかりした手の平がリネットの肩に回る。
「全く大丈夫じゃないですよ……こんなに危なっかしいのに」
「ソ、ソーク?」
「魔女様、今日は休むべきです」
「え? ちょっと待って! わああ!?」
身体を引き寄せられたかと思うと、屈んだソークはリネットの膝裏に腕を差し込み、軽々と抱き上げてしまった。急なことに慌てて、ソークの胸元に縋りつくように身を寄せる。どこを掴めばいいのかわからず、両手は胸の前で固く組み合わせた。
戸惑ったリネットの様子が伝わったのか、頭のすぐ上から声が降ってくる。
「大丈夫です。魔女様を落としません。もし、不安でしたらシャツにでも何でも掴まってください。ええと、じゃあ、二階が自宅ですよね? 上がってもいいですか?」
シャツに掴まってもいいと言われても、リネットには無理な話だった。今まで男性に抱きかかえられたことなんかない。こんなに密着したのも初めてで、熱かった身体がさらに熱を孕んで、体温が上昇するのを感じる。
「できればベッドまでお運びしたいのですが、いいでしょうか?」
きゅっと指を組んだままこくりと頷く。
外れてしまったフードを深く被りたくてしょうがなかった。一枚の布切れでもあれば、リネットは余裕を取り繕うことができたのに。まともにソークの顔を見ることができないまま、リネットは階上まで運ばれ、ふかふかの羽毛蒲団の中にやんわりと降ろされた。
つっかけた靴とローブを脱ぐのを、ソークが手伝う。リネットは風邪による熱とソークとの急接近で頭がすっかりのぼせており、ローブの下がネグリジェということをすっかり失念していた。
滑らかで光沢のある純白のコットン生地は、リネットの柔らかな曲線に絡んでいる。ピンク色のサテンのリボンで胸下が絞られており、胸元には繊細なレースがあしらわれていた。首筋とレースの胸元から覗く肌色は熱のために蒸気しており、肌理の細かい肌はしっとりとした質感を放つ。
無防備にもネグリジェ姿をソークの前に晒したリネットは、彼がはっと息を飲んで指先を止めたことに気づかない。もそもそと毛布に包まり掛け布団の中へ潜り込む。ソークが頬を赤らめながら空へ視線を彷徨わせていたとは想像だにしなかった。
「ソーク」
「は、はい!? なんでしょうか!」
「えっと、ローブはそこのハンガーに掛けておいてくれる? そして、申し訳ないけど、やっぱり休まないといけないみたい……ごめんなさい」
ベッドに横になるとすぐに意識が揺らぐ。どうやら身体は休息を欲しているらしい。
起きたら、染め粉とコンタクトレンズ、渡すからね……
ちょっと一眠りしよう。
そう決めてリネットはぐずぐずと溶けるように眠りへ沈んだ。
* * *
「あら、リネット。おはよう」
聞くだけでほっとする温かい声。ぼんやりと目を開くが、霞がかかってよく見えない。とろとろとした眠りがリネットを再び包み込む。頭の奥に熱がこもっているのか、意識がどこかはっきりしない。
「気分はどうかしら? 苦しいところはない?」
声に促されるように目を擦ると、懐かしい顔が飛び込んできた。リネットと同じ、濃いブルーの瞳をした女の人だ。すっと通った鼻の頭にはそばかすが微かに浮いている。そのそばかすが小さいときは大嫌いだったけど、今はあたしの一番チャーミングなところねと笑っていたのを思いだす。
「アンナママ」
知らず知らずのうちに呼びかけてしまった。しかも、「アンナママ」だなんて、随分と小さいときの呼び方だった。
アンナは優しくリネットの髪を梳き、柔らかな手の平で額を覆う。熱を測っているのだ。リネットが少しでも体調を崩すとアンナはこうやって熱を測っていた。気分が悪い時でもアンナの手の平を身体に感じると、リネットはそれだけでひどく安心してしまう。
「まだ熱が高いわねぇ。もう、びしょ濡れになって遅くまで遊ぶからよ。おかげでゾーイも心配しているわよ」
ゾーイ。
そう聞いてリネットは慌てて身体を起こした。
「ゾーイは? どこ?」
名前を呼んだのが聞こえたのか、部屋の外、ドア越しにかりかりと床をひっかく音がした。くぅんくぅんと甘えた鳴き声が聞こえる。それを聞くとリネットは居ても立ってもいられない。起きたばかりだというのに、アンナを見上げて「もう元気になったからゾーイを部屋に入れてもいい?」とねだった。
「あなたはもう……! しかたないわね。十五分だけよ。その後はちゃんとお薬を飲んで寝ること。いいわね?」
「はーい!」
「返事だけは元気なんだけどねぇ。まぁ、いいわ」
アンナが部屋のドアを開くと待ってましたといわんばかりに、金色が飛び込んでベッドにいるリネットの元へやってくる。手を伸ばして金色の毛皮がつやつやと輝く大型犬をリネットは抱きしめた。
ふわふわした尻尾がちぎれるほどの勢いで振られ、すんすんと心配そうな鼻息が顔にかかる。くすくすと笑い声を上げながら、リネットはゾーイを撫で回す。穏やかな顔つきをしたゾーイはつぶらな瞳でリネットを見上げ、薄い舌で頬を何度も舐めた。
「くすぐったいわ! もう、お前は風邪を引かなかったのね?」
そう言って頭から背中にかけて大きく撫でてやる。
今日は学校が午前中で終わったので、お昼を食べてゾーイと旧市街の泉で遊んでいたのだ。壁に囲まれた路地を通り、古いアパルトマンのアーチを潜ると、小さな広場にでる。その中央に、生活用水としても使う泉が湧く。地下から汲み上げられた水は小さな噴水になる。ここは旧市街の中でもちょっとした憩いの場となっていた。
ゾーイは広場で、パンくずをつつく鳩を追いかけるのが好きだった。いつもはおっとりとリネットの横を歩いているのに、鳩を追う時ばかりは素早く駆けていく。その様子を見送り、リネットはレリーフの施された泉の縁に立って、脇に抱えた簡易なボートをそっと浮かべる。
子どもたちの間で流行っている舟遊びだ。しばらくすると近所の子どもたちがそれぞれボートを持って集まってきた。そして、ボートで競争をし、時には泉に片足を突っ込み、果てになるとボートは放り出して水のかけっこになってびしょ濡れになるのだった。
リネットも水の掛け合いに飛び込み、そして帰る中で身体を冷やして熱を出してしまったことを思いだす。
「そろそろ寒くなってきたから、気をつけなさいってちゃんと言ったでしょう?」
「はぁい。ごめんなさい、ママ。でも、ゾーイが風邪を引かなくて良かったわ。ねぇ、ゾーイ」
「あなたは本当にゾーイが好きねぇ」
呆れたようにアンナが言う。しかし、その表情には娘への心配が浮かんでおり、リネットは少しだけ嬉しくなったと同時に、今度から風邪を引かないようにしなくちゃと子ども心に思う。
そんなリネットとアンナ、そしてゾーイの様子が伝わったのか、ひょいっと男が顔を出した。
「お、リネット。ちょうど良かった。ホットミルクが出来たところだよ。飲むかい?」
「パパ!」
また懐かしい顔を見て身体が弾むように反応する。パパと呼んだ男性、レイモンは丸メガネを掛けており、ひょうきんな顔をしている。決してハンサムではないけれど、人懐っこいその表情はいつもリネットと母親を和ませてくれた。
父親はマグカップに注がれたホットミルクを渡されて、両手で受け取る。ちゃんとリネットが飲みやすいように温度はぬるめだった。ベッドの脇ではゾークがきちんとお座りをして、家族三人を見守っていた。
見慣れている光景なのに、三人と一匹が揃ったのは遠い昔のようだ。
そこでリネットはようやく違和感を覚えた。
( どうして懐かしいだなんて……ああ、そっか。そうだわ、これは夢なのね)
現在のリネットは両親と暮らしていた家で一人で生活している。
二年前、両親は国を見て回りたいと言って、セルトアから出る辻馬車に乗って旅立った。ときどき届く絵葉書をリネットは心待ちにしているのだ。
レイモンが作ってくれた甘いホットミルクを飲んだリネットは、夢なのにちゃんと味がすることを不思議に思いながら、優しく色づく夢に微笑む。とても心が穏やかで満ち満ちていくのがわかった。
「ゾーイ、おいで。お前、いい子だねぇ」
ベッドの脇にいるゾーイを呼んだ。ふりふりと楽しそうに尻尾をふり、好奇心いっぱいの瞳がひたむきにリネットに注がれる。
この賢い犬はリネットが一歳のときにやってきた。それからずっと一緒に育っている仲のいい姉であり、妹であり、大事な友だちだった。けれど、ゾーイはもう十一歳という高齢で、ときどき動くのを億劫そうにしている。
(そうだった。冬を越して、春が来たと思ったら、ゾーイは眠ったままになってしまったんだわ)
もう四年も前のことだ。リネットはゾーイが眠るように息を引き取った朝、三日三晩泣き通した。離れるのが嫌で、泣いて名前を呼べばもう一度、賢そうな瞳でリネットをじっと見つめそうで。
「ゾーイ。大好きよ。あたしの一番の友だち」
目が覚めたら腕の温もりは霞の向こうに消え去ってしまうだろう。リネットはゾーイを抱きしめた。