魔女と金の瞳1
セルトアのメインストリートの先には王宮魔術研究所がある。セルトアの中で一番高く敷地の広い建物は頑丈な作りになっており、研究所に出入りするための唯一の門は警備隊によって守られていた。
ぐるりと敷地を囲む高い壁の向こう側に、ドーム型の赤い屋根が三つ連なる。白い壁にはいくつもの窓が並び、朝方まで光が灯っている窓辺も多い。
王宮魔術研究所では、王宮が指定した部門ごとに、選りすぐりの魔術師達がチームを組んで研究にあたっている。現在は二十の部門が設けられており、国賓として他国の魔術師を招くこともある。
研究所は魔術師達の憧れの場所であり、そこで研究職を得られるということは魔術師として優秀な証で名誉なことだ。
そのエリートが集まる王宮魔術研究所の中を、リネットは堂々と歩いていた。
老若男女問わず魔術師が行き交う中、リネットは誰に声をかけるでもなく、まっすぐに配属されている研究所に向かっていた。
いつも目深に被っている灰色のローブのフードは降ろしている。高い位置でポニーテールにした髪が左右に揺れ、細い顎はやや上向きで空を睨みつけている。かつかつと荒い靴音が大理石の廊下と見上げるほど高い天井に反響する。
誰が見ても明らかにリネットは不機嫌だったが、その彼女に声をかけた魔術師がいた。
「あら、セルトアの魔女さんじゃないの。今日は出勤日? 研究がうまく進まない部門はかわいそうよねぇ? 同情しちゃうわぁ」
甘ったるい声に薔薇の香りを身にまとい、ぴったりと身体に張り付くような丈の短いワンピースを着こなす女魔術師を一瞥する。自慢のバストはたっぷりとして張りがあり、胸元がはちきれそうだ。歩く度に揺れるおしりのラインを強調したワンピースは鮮やかなレッドで、唇の色と同じだった。
女魔術師はリネットの格好を見て鼻で笑う。
リネットは膝まである着古したローブを羽織っており、化粧気のない顔にはくっきりとしたクマが浮かんでいたからだ。魔術師にはありがちな格好だが、女性はもう少し身なりに気を遣うのが普通である。
(面倒臭いやつに会ったわ……)
どうして広い魔術研究所の中で彼女と鉢合わせする頻度が高いのか。リネットには理解できない。待ちぶせされているのではと疑ったこともあった。また、リネットが気に食わないらしい彼女が、いちいち突っかかってくる理由もわからなかった。
(あたしが嫌いなら無視でもすればいいのに)
リネットは街の外れでしがない魔術道具の店を開いているが、ときどき魔術研究所の手伝いとして呼び出される。ここ一週間は手伝いとして入っている部署から招集があり、店は閉めて魔術研究所に詰めていた。
手伝いとはいえ魔術研究所での仕事はほぼ缶詰状態。ようやく明け方に帰宅して仮眠を取り、魔術研究所に戻ってきた矢先にこれである。
寝不足でいつも通り稼働しない頭で、リネットは彼女を無視することを決めた。何もなかったように歩き出せば、後ろから「んなっ!」と猫が驚いたような声が聞こえる。いや、気のせいか。
「ちょっと! セルトアの魔女! 待ちなさいよ!」
「ああ、今日は午前中で帰ってやるわ。絶対よ、もうあいつに付き合ってらんねーわ」
「聞いているの? あたくしが話しかけているのよ!」
「うわっと……!」
ぐいっと強く腕を引っ張られよろめくと、背中にぽふんと柔らかくて弾力のあるものがあたった。見なくてもわかる。大きな胸だ。
リネットは深々と息を吐いて、腕を引っ張った持ち主を見上げた。
「クレア・クレイドル……面倒なんだけど、何の用かしら」
「別に用はないわ! それよりも面倒ってどういうこと? リ、リリリリ」
「りりり? 何それ」
「……っ、あなたに関係ないわ!」
顔を真っ赤にした女魔術師クレアに、リネットはまたかと呟きながらあくびを噛み殺した。こうやって話をふっかけるのだが、リネットが本題を尋ねるといつも「あなたに関係ないけど」「別に何もないわ」と言われ、しまいにクレアは怒りながら去っていく。
(そんなにあたしのことが気に食わないのかしら……そりゃ、あたしはお手伝いさんみたいな非常勤だし、正式な魔術師とは言えないものね。名門出のお嬢様が目障りだと思うのも仕方ないか)
クレイドル家は優秀な魔術師を輩出していることで有名だ。その名高い一族の長女に、庶民育ちのリネットは基本的に言い返さない。先ほどのようにうっかり本音が漏れるときもあるが、今のところクレアに咎められたことがないのは幸いだった。いや、口やかましく騒ぎたてはするのだけど。
リネットより背の高いクレアを見上げると、淡いヘーゼル色の瞳がきゅっと細くなる。
「リ……あなた、ポニーテールの位置がずれているわ。しかも、クマまで出来てみっともないじゃない。その、血流を良くして目元をマッサージするべきよ! 温かいタオルを目に当てることもしないなんて……信じられない! 淑女のたしなみよ! ではね。せいぜい頑張ればよろしいのよっ」
一方的にまくしたて、クレアは大理石の廊下を渡って、第一研究所の扉をくぐってしまった。結局、彼女が何をしたかったのかリネットにはわからずじまいである。
とりあえず、温かいタオルを目元に当てろと言われているのはわかった。けれど、それだけのために呼び止めたというのなら、彼女は毎度のことながら暇人だ。それとも、リネットの容姿が見られないから、こうして文句をつけにくるのだろうか。
確かに、体つきは平均的で細くもなければ太くもない。顔は目が少しばかり大きくて幼く見える。
(ああ、それとも服装。そういえば、クレアが何か言っていたことがあったわね……)
毎回、顔を合わせるたびに話を聞くのに、よく覚えていないのは研究で忙しくて些細な情報は追いやられるからだ。
「……それよりも、さっさと行かなくちゃ」
再び足を進める。リネットが開いた扉には第二十研究所と銘打たれており、一番新しく創設された部門。
壁の棚には鮮やかな粉末が瓶詰めにされており、また透明な液体がタンク一杯に保存されている。また用途不明の大型機械がいくつも並び、研究員は安全のためにゴーグルを着用して目を保護していた。魔術というよりは工場のような雰囲気を持つ第二十研究所は、カガクを再現するために作られたのだ。
といっても、リネットはカガクがどんなものか手探り状態である。ただ所長である魔術師の男が求める理想を形にする作業をしているに過ぎない。
「遅いぞ魔女。出勤予定より二十秒遅い。そして研究費で購入した紅茶の茶葉を知らないか?」
ゴーグルを装着したリネットにぞんざいに言い放ったのは、同じ背丈の男だった。体つきは成人男性としては未熟で、鍛えてはいるというが頼りなさがある。どこかのっぺりとした顔つきで、一重の厚ぼったいまぶたのおかげで眠そうだ。肌の色はリネットと違い滑らかな象牙色で、独特の質感を持っていた。また固い黒髪を短く切っており、同様に爪も短く切っている。
この男が第二十研究所の所長、ショウ・ミナセだ。
「十時間も残業させた所長が言えたことじゃないわ。あと茶葉は知らない」
「まだ根に持っているのか。魔女は執念深いと聞くが、真実だったというわけだ。そうか……もしかして俺が飲みきったか」
「まだじゃないわよ。ついさっき、今日の明け方の話でしょ」
「ところで、魔女。五分前にな、三ヶ月前に申請した案件が通った」
「それを先に言って欲しい……あれ、申請?」
三ヶ月前に申請した案件。思い当たるものが多すぎて眉を寄せたリネットに、ショウはとんとんとゴーグルを叩く。その動作で何枚ものプラスチックとやらを輪切りにしたことを思い出した。
「というわけで、案件が通ったので俺は忙しくなる。お前は不要だ。一週間後にまた来い」
「すっごく腹立たしい!」
「そう言われても、お前は物を切ったり混ぜたりすりつぶしたりする才能しかないのだから、ここに居てもしょうがないだろう」
「確かに魔術師らしく火のひとつも起こせないけど。じゃあ、これ、貰っていい?」
リネットが浅い箱を指さすとショウは頷く。箱は透明な溶液で満たされており、数センチ単位の仕切りが施されている。仕切りで出来た小部屋には魚の鱗のようなものが一枚ずつ入っていた。リネットは小さな容器をいくつか棚から取り出して、中を溶液で満たすと鱗を慎重に取り出す。鱗の中心は藤色に染められていた。
「これ、他の色も作るの?」
「販売ルートを確保したらな。それまで、魔女のところで扱えばいいだろう」
「では、遠慮なく。所長ってこういうときだけは融通がきくわよね」
「……お前のうっかりぽろりは直したほうがいいと思うが」
眠たそうな顔のショウにリネットは肩をすくめてみせた。褒めたのにそうとは受け取って貰えなかったようである。せっかく出勤したというのに五分も立たないうちに研究所をあとにしたリネットは、眠気のためおぼつかない足取りでメインストリートを歩く。
夏は終わり、秋が訪れようとしていた。二階建ての町並みをゆうに見下ろすプラタナスは、うっすらと黄色く色づいている葉が出ている。二頭立ての乗合馬車が通りすぎるのを横目に、メインストリートを脇にそれる。路地に入ると冷えた風がリネットの首筋をなでた。ポニーテールにしている分、項をかする風に肌寒さを覚える。もう秋なのだ。
「うっかりしている間に冬になるわね……衣替えの準備をしたほうがいいかもしれない」
とりあえず、家に帰ったらマフラーとストールを出そう。
そんなことを考えながら路地を北上し、旧市街への入り口に差し掛かると、聞き慣れた調子で名前を呼ばれた。
「リネットちゃん」
「サヴィーナ姉さん!」
そこにはエプロンにふくよかな体つきをした女性が立っていた。リネットは弾けるように姉さんと呼んで慕う人物に抱きついた。
サヴィーナはリネットより六つ上の二十三歳で、旧市街でカフェを開いている。どこかおっとりしたサヴィーナのカフェはこじんまりとしてはいるが、いつでもお客が絶えず繁盛していた。サヴィーナのカフェは山盛りのパスタや肉厚のベーコンやまるまるとしたソーセージをじっくり焼き上げる。そのため男性に人気だ。
ティータイムになるとスイーツセットがお手頃価格で提供されるので、女性客もよく見掛ける。けれどこのカフェの魅力は、何よりもサヴィーナの占いサービスだ。その日のちょっとした運勢を占って貰うのがカフェを訪れるお客さんの楽しみでもある。
迷信を嫌うセルトアだが手相などの統計学に基づくもの、占星術など理論があるものに関しては研究テーマとして認められている。そしてサヴィーナの占いは占星術と相手の顔を見て占うといったものだ。
どうやって占うのか聞いたことがあるが、サヴィーナは「秘密よ」と言って教えてくれなかった。
そんな姉と慕うサヴィーナはリネットを抱きとめると、その顔に浮かんでいるクマを見て顔をしかめる。
「リネットちゃん、ダメじゃないの。寝不足はお肌に悪いんだからね」
「……それ、ヴィルにもよく言われるわ。さすが姉と弟ね」
「ヴィルは美容に気を遣っているんだもの。あら、それにしてもリネットちゃんったら!」
リネットの年齡の割には幼い顔を覗きこんだサヴィーナは、ふふふと可愛らしく笑みを零し、リネットの頬をむにむにと摘んだ。
「今日はいいことがあるわよぉ!」
「いいこと? なにかしら……?」
「さぁ、そこまではわからないけれど。そうだわ、今度、お家にいらっしゃい。一緒に夕食を食べましょうね」
「もちろん!」
嬉しい誘いにリネットは自然と笑みを浮かべる。サヴィーナとの夕食の約束だけでリネットは充分に嬉しかった。もちろん、サヴィーナと夕食をとるとヴィルが漏れなくついてくるが。食卓でのヴィルは美容講座をおっぱじめるのでうるさい。
「でも、姉さんの占いは当たっているわね。研究所の案件が通ったのよ」
「あら、おめでとう! 目の下にクマを作ったかいがあったわねぇ」
いたずらっぽく笑ったサヴィーナは仕込みがあるからと、リネットの頬をもう一度むにむにしてから別れた。快活なサヴィーナに会ったあとは、どこか心が踊る。元気になった気がするのだ。
足取り軽く路地をさらに北上すれば、プラタナスの木とレモンイエローの扉が目印である家が見えた。
(畑にも藁をしかなきゃいけないわね)
植えているハーブはまだ青々と茂っているが、いい天気の日に摘み取って天日干ししなければならない。そんなことを考えて、リネットは見慣れないものに目を細めた。
レモンイエローの扉の前、ユミルラトという小さな看板が掛かったその下に何かがある。訝しげに近づけば何かは膝を抱えて丸くなった人間だということがわかった。キャスケットを目深にかぶって小さくなっているその人物。その側には上手に編まれたかごがあり、ひょうたん型の梨が入っている。
顔を見なくても一目で誰かがわかってしまった。リネットはローブについたフードを深く被って息を吸う。
「ソーク、何をしているの?」
爽やかな初夏の早朝、店先で泣きついた青年の名前を呼ぶ。するとリネットの声に反応して勢いよく振り返った。
彼――ソークは、案の定目元を赤く染めて泣いていた。すらりとした腕がリネットに伸びたかと思うと、手を引っ張られて腰を取られる。抵抗する間もなくソークの顔がお腹に押し付けられ、小さな声で「魔女様ぁ……!」と情けなく呼ばれてしまった。
腰に腕が回った時はリネットの心臓は跳ね上がったというのに、小さい子どもが縋るようにされては胸の高鳴りも簡単に収まる。
(今日はいいことがあるはずなのに……! あったけどさ!)
どうしてこの青年はまた泣いているのだろうか。
「髪がまだらになっちゃったの?」
「ちが、違うんです……っ! 目が、目がっ!」
「あ、目薬? いいのあるよ! やっぱり夏の日差しで目も疲れるのよねぇ。しかも、涼感性のある最新作!」
「違くて、その、ううっ、瞳が……っ!」
「瞳? 疾患ならあたしじゃなくてお医者様をおすすめするんだけどね。とりあえず、中に入ってくれる? あと離れて」
ぽんぽんとキャスケットを軽く叩くと、ソークは弾かれたようにリネットから離れた。あまりの勢いに尻もちをついた衝撃で、キャスケットが落ちてソークの顔が露になる。太めの眉は困ったように下がり、形のいい唇はわなわなと震えて言葉を紡げない。先ほどまで泣いて赤かった顔色は青くなっていた。
あたしったら、また失言でもしたのかしら? 覚えがないんだけど。不安になって眉を寄せると、ソークの口がぱくぱくと動いて、やっと声が出た。
「あ、う、うわあああ、すみませんすみませんっ!! 魔女様に触れてしまいました……っ! 汚い!」
「その言い草だとあたしが汚いみたいに聞こえるわ」
「はっ! ご、ご、ごめんなさい、馬車の前に飛び出してきますぅうう!!」
「すんごい迷惑行為! ちょっと待って! 待ちなさいよっ」
立ち上がったソークが走り去ろうとするのを、リネットはかろうじて捕まえることができた。
「こっちは動きづらいから離れてって言ったのであって、別に汚いなんて思ってないわよ! アンタ、あたしのことを何だと思ってるのよ!」
「だって、私の、涙が魔女様のローブに……!! ああっ、すみません、服を台無しにしてしまいましたよね……うっ、ううっ」
「もう……いいから店に入りなさいよ」
ぎゅっとソークの指先を握り込む。するとわかりやすく身体が固くなった。けれどここで気にすることじゃないと、店の中へ引っ張り込む。そして、椅子に無理やり座らせてぐちょぐちょになった顔を拭こうと思ったが、カウンターの台拭きしか見当たらなかった。
一応、毎日除菌して清潔にしている物だ。顔を拭いても問題はないだろうが、良い心地はしないだろう。
「ああもう、ごめんだけど、今回もあなたの涙を拭くハンカチがないわ」
「私なんかそこの台拭き……いいえ、モップで充分です……!」
「仕方ないなぁ。はい」
ローブの袖でごしごしとソークの顔を拭ってやると、強くこすり過ぎたのか頬が赤くなった。綺麗にしてやると口をぽかんと開けていたソークは、耳を真っ赤にさせて俯く。年上の青年にしてやるには少々行き過ぎた行為だったのかもしれない。
耳を染めて口をもごもごさせるソークの様子をローブ越しに見ながら、リネットはお茶の準備をすべく、二階に上がってお湯をわかす。柱時計を確認すると朝といっても差し支えない時間帯だ。
(農村育ちだから朝が早いのかしら……)
しかも、今日は研究所の仕事が突然のキャンセルになったから良かったものの、昨日だったら店を訪ねても一日中留守だった。
お湯が沸くまでの間にポットやカップを用意していると、階下から「魔女様」と呼ばれていることに気がつく。なぁに? と顔を出すとソークがかごを遠慮がちに突き出す。
「モンブランです……その、栗を手にれて……あと、洋なしもあります。魔女様のお気に召すかはわからない、んですけど! でも、よ、よかったら、うぇえっ!?」
モンブラン!
そう聞いてリネットは階段をすっ飛ばすように降りて、ソークの持つかごに飛びつく。一足早い秋の味覚に表情がふにゃりと崩れるのがわかった。
「ありがとう! ソークの作ったお菓子、大好きなの!」
「……っ! あ、あっ、はい……!」
「早速いただきましょう。待っていて、とびきりの紅茶を貰ったのよ」
明け方に帰宅したときに戸棚に放り込んだ紅茶を思い出し、リネットは跳ねるように階段をかけあがる。
その後姿をソークは不思議な気持ちで見ていた。セルトアの魔女と言われる彼女が、ソークの想像以上にフレンドリーで甘いものに目がないことが意外だった。やはり魔女は変わっているのかもしれない。シャルクの祝福を受けたと嫌われるソークに触れ、ソークの涙をふいて、ソークが作ったお菓子を喜んで食べるのだから。