ショウとマスカラ
「所長って眠そうな目をしているわよね」
そういって「まさか寝不足?」と心配しように顔を覗き込むのは、先日から研究所で働くことになった少女だった。彼女はエルマーの紹介で、リネットという。まんまるの目に真っ青な瞳が眩しい。そして当然のように二重。この世界では二重まぶたが標準装備だ。
「いや、俺は腫れぼったい一重まぶたなだけだ。眠くはない」
「それならいいけど。確かに所長は一重だものね、顔立ちも珍しいし」
「故郷ではみんなこんな顔だ」
堀の浅い醤油顔。中にはソース顔もいるが、外国人の彫りの深さには敵わない。元の世界ではノリやテープでまぶたを二重にしていたというのに、こちらは生まれながらにぱっちり目。これを聞いたら一部の女性は怒り出すだろうと、ショウはのんびりお茶を含む。
(まぁ、腫れぼったい一重まぶただろうが、俺にはどうでもいいし)
手元にある資料を捲りながら、サンドイッチを鷲掴みにして口に運ぶ。薄切りパンはバターが塗られており、しっとりしている。たっぷりのしゃきしゃきレタスは色も良く、ローストしたチキンが香ばしい。マスタードソースがチキンとパンに絡んで、ぴりっとしたアクセントになっている。
カフェテリアでの食事は驚くほど安く、その上ショウの舌も満足している。つい数年前、飽食時代を生きて、国内に居ながらあらゆる国の料理を食することが出来た。ちょっとした手違いで全く違う世界で暮らすことになったショウだが、味覚については世界間の違いがないことに安堵している。
「この資料って前回の?」
「そう、失敗したやつだ。まぁ、君の魔術陣の精度があれば難なく課題をクリアできるだろう」
「ハードルあげるのやめてよ……一昨日なんて、勝手に応援にきたエルマーが散々騒いだあげく、お茶を出したり話し相手になったりと大変だったんだから! できるなら泊まり込みはしたくないのよ!」
うんざりした顔でリネットはショウの対面へ座った。そして、テーブルに広げられた資料をのぞき込む。次に資料を適当に束ねると、空いているスペースにショウと同じサンドイッチプレートを置いた。
見られてはいけない資料ではないので、好きなようにさせる。リネットもそれがわかっているのだろう。もし極秘資料ならカフェテリアで広げたりはしない。
「ねぇ……この文様は何?」
「文様? ああ、これは名前だ。水瀬翔と書いている」
「所長の名前よね。へぇ、家に伝わる文字の一種なの?」
「まぁ、そんなものだ。漢字といって、俺の故郷の人間なら書ける」
面白いのね。
そう言ってリネットはサンドイッチに手を伸ばす。その隙に名前が書かれた資料をリネットから遠ざける。資料事態は極秘ではないが、戯れに書いたその文字は極秘事項だった。迂闊である。漢字などこの世界中を探したってどこにもない。
一部の人間にしか許されていない秘密の一端に触れたリネットだったが、彼女は気づいた様子はなかった。見たことのない文字より、サンドイッチに気を取られているらしい。食い意地がはっていて良かった。
「あら。おいしい」
「サンドイッチはな。ケーキセットはやめておけ。ぼそぼそして食えたもんじゃない」
「もう食べたわ……暴力的な甘さだった」
「徹夜組の頭には効くらしい」
「なるほどね。参考にする」
大きな口を開けてサンドイッチを頬張るリネットは、頬を膨らませてリスのようだった。ぱちぱちと瞬きしながら、青い瞳が資料の文字列をなぞる。そのまつげを見て、そういえばと遠くない記憶を振り返る。
ドラッグストアの化粧品コーナー、そこに並ぶ数々の化粧品メーカー。それぞれが必ずと言っても出している商品のひとつに、マスカラなるものがあったと。色は黒やブラウンが主流で、まつげを長くするもの、ボリュームアップを狙うもの、まつげを育てる美容液入りのもの。多種多様な商品が様々なキャッチフレーズと共に売りに出されていた。
その化粧品の定番と言えるマスカラを、この世界では見たことがない。
「なぁ、マスカラはないのか?」
「ますから? それってどういうもの?」
初めて聞いたといわんばかりに、きょとんとしたリネット。彼女にマスカラを詳しく説明すると、ゆるく頭を振って「聞いたことないわねぇ……長くするためにこう、繊維をつける人はいるけど。鳥の羽もね」とよくわからない美容の知識を教えて貰った。ショウの感覚では、鳥の羽を目尻につけるのは、仮装パーティーに行くときくらいだ。
それにしてもマスカラがないとは。作ったら売れるだろうか。新設したばかりの研究所だ。資金は潤沢とは言えない。
そういえば、エルマーがリネットの幼馴染は男女問わず人気のある若者だと言っていた。
「君はワセリンを持っているか?」
「え? なんですって」
「ワセリン。油の、手やひびわれに塗るやつだ」
唐突な質問にリネットは戸惑いながらも頷く。
「持っているけど。それがどうしたって言うの?」
「ワセリンに墨を混ぜて、細いコームでまつげに重ね塗りすると、まつげが黒々として目が大きく見える」
「……それ、なんで私に?」
「ぜひ、幼馴染に伝えてくれ」
「ただでさえ迫力ある美女なのに、ますます凄みが増すじゃない!」
あいつ、男なのよ! そりゃ女装が似合っているけども!
苛立ったリネットは大きな口でサンドイッチをかじる。もぐもぐと顎を動かす彼女に、ポットからお茶を注いでやった。別に懐柔の意はない。
「……ありがとう。で、マスカラの話を出したってことは、第二十で商品化するってこと? 売れるかどうか素地が知りたいのね?」
「話が早くて助かる。君の幼馴染は好きだろう、化粧」
「……いいわ、話してみる」
それから実験の話になり、リネットの魔術陣の精度をどこまで上げられるかへと話題は移る。彼女が言うには精密な働きを求めるなら、魔術陣に記す座標や数値、また図式も細かいものになる。故に大掛かりになるという。それなら一度、大きな魔術陣を組んで、縮小させようかという案が出た。
「この世界にコピーはあるのは知っているが、拡大縮小もあるのか?」
「……この世界?」
「言葉の綾だ。王宮魔術研究所に変換してくれ」
訝しげなにこちらを見るリネットに、片手を振ってごまかす。魔術が発達しているとはいえ、まさか異世界人ですとカミングアウトはできない。そこらへんは極秘事項ということで、王府の一部と研究所の幹部、そしてエルマーしか知らない。
「それで?」
「うん、そうね。魔術陣の転写に加えて縮小するってちょっと面倒だから、第一に行ってくるわ」
「なるほど。エルマーか……魔女は随分とエルマーと仲がいいんだな?」
「……あの人、仕事を始めたばかりのあたしが心配みたいで、お店の方にお茶をねだりにくるの」
「……それって一昨日もか?」
「ええ、そうね。迷惑な顔して出迎えちゃうけど、本当は感謝しているわ」
小さく頷いたリネットは知らないのだろう。その日、重要な会議があり、エルマーがなかなか顔を出さないため、その部下が奔走していたことを。ショウもその会議に参加しており、数時間の待ちぼうけを会議室で食らった。こういうとき、テトリスやらマリオやらの携帯ゲーム機が手元にあればいいのにと思う。
これからは町外れの魔術雑貨店も探すよう、それとなく言っておいてやろうと思った。うまいもんを食べるのでない限り、あの待ち時間には耐えられない。
それから数日後の朝だった。まだ成長中の小柄な少女が、成人済みの男性と第二十研究室にやってきたのは。その日は完徹していたため、脳の働きが悪く、人物の認証に随分と時間がかかった。目が霞む。こういうとき、スカッとする目薬が欲しいものだ。今度作ろう。
目頭を揉みほぐしながら、ショウは慌ただしい二人を迎える。少女はリネットで、男性はエルマーだった。朝から絡まれてここまでやって来たようだ。
「おお、ショウ! 見てくれ! マスカラなるものを魔女に教えて貰ったのだ!」
「冷たい目がこう……ぱっちりになっちゃって。冴えた美人になったのよ、すごいわね、マスカラって」
男のマスカラ……?
ショウはエルマーの顔を見やる。すると切れ長で怜悧な印象を与える目元が、ばさばさのまつげに彩られていた。妙に目力がある。くらっとした。疲れた脳に毒を流し込まれた気分だ。男のふさふさまつげなど、興味の欠片もない。かといって、女のまつげにもさほど関心は惹かれないが。
「エルマー、歩く天災と化しているぞ」
「うむ、僕は元から歩く天才なのだ。なんだ、ショウ。心底、気色が悪いという顔をしているが。マスカラの塗り方が違ったか? ダマにならんように慎重に重ねづけしたうえで、カールもさせてみたというのに」
「……マスカラの重ね塗り……お前はどこぞのギャルだ……」
頭が痛い。わざわざカールさせる意味もわからない。
徹夜明けの弊害ではない頭痛。なんで男にマスカラが流行っているんだ。リネットに視線を巡らせると、幼馴染にも好評でバルに出入りする一部の若者達の間で流行りつつあるとのことだ。
「男女問わずマスカラってやつ? 目が大きく見えるっていうから人気よ。特にヴィルの店はオペラ座の向かいでしょ? 小洒落た紳士に受けているんですって」
作ったら売れるんじゃない?
そう言って満足気に笑うリネットだったが、ショウが意図したこととズレていることは知らない。ショウは元から女性向けの化粧品という固定概念を持っていたのだが……まさかこの世界では男女問わずにウケるとは。しかも、目の前にはマスカラで目元を強調した三十路過ぎの男。
久しぶりにここは異世界であると実感したショウだった。




