魔女とお祭り2
老人に連れて来られたのは、メインストリートを一つ奥に入り、役所と広場の間の幅広い通りにあるオペラハウスの前のホテルだった。オペラハウスと役所近くのホテルとだけあって、セルトアで格式の高いホテルだ。そのホテルの最上階である五階に案内され、リネットは豪奢な内装に感嘆の声をあげた。
「この絨毯って織物で有名なキルトンのもの? こんな手の込んだ模様って織れるものなのね。しかもふかふかだわ」
ブーツの先が絨毯に沈み込む感覚に、リネットは土足で上がるのが申し訳なくなった。かといってブーツを脱ぐわけにもいかない。そんなリネットは絨毯に気を取られて気付かなかったが、その頭上にはシャンデリアが吊るされて、眩い輝きを落としていた。マホガニー製のテーブルにはレースのクロスが、その上には冬にも関わらず美しい花が活けられている。
それらをしげしげと物珍しそうに眺めるリネットに、馬車の御者である青年が思わずといった風に声をかける。
「セルトアの魔女様は肝が座っているようですね」
青年はどこか呆れた様子で、リネットは灰色のローブ越しにじっと青年を見つめた。素朴な印象の青年の顔にはそばかす。撫で付けられた髪はカラスの濡羽色だ。しっかりした体躯の持ち主で、身体にぴったりと合わせて作られたスーツは品が良い。
「それでこそ魔女というもの。私は魔術師や小娘に用があるわけではないからな」
老人は愉快そうに片方の眉をあげ、連れ去られたというのにあまりにも堂々としているリネットに笑いかける。歳相応のシワが刻まれた目尻は切れ長で、昔は美丈夫として女性に人気があったことだろう。どこか挑戦的な視線を受けて、リネットは余裕たっぷりに見えるように唇だけで弧を描いてみせる。
「残念ながら私はしがない魔術師の小娘よ。でもセルトアの魔女と呼ばれているのは事実ね。それで何の用なの?」
「まずは座って話を聞いてくれ。申し遅れたが私の名前はバーティスト・フレデリック。こいつは付き人のシェイドだ」
バーティストは一人がけのソファに座り、リネットに向かいのソファを勧めた。お言葉に甘えてリネットはソファに浅く腰掛ける。シェイドが紅茶を淹れてテーブルに出してくれたが、得体の知れない相手から出されたものを飲むほどリネットは不用心ではない。まずは相手の用件を聞くことが先だろう。
(実をいうとすごく怖いんだけどね……!)
なんせ相手は気分の悪い老人を装い、リネットの善意を利用したのだ。そして、隙を突いて馬車で拉致する連中だ。何を要求されるのか想像もつかない。
(セルトアを出なかったのは救いだわ。なんとか機会を見て逃げられたいいんだけど)
冷静になれと自身に言い聞かせながら、リネットはローブに潜ませた小さな石を握りしめる。ローブのポケットにはエルマーから貰ったばかりの魔術のアイテムが忍ばせてあった。エルマーいわく、犬や猫の首輪につけるものらしい。。これで迷い犬の張り紙も減ることだろうと自慢気であった。転用としては子どもに持たせるといいらしい。
(用途は詳しく教えてくれなかったけど、つまり迷子札ってことでしょ!? エルマーの魔術だもの。居場所くらいわかるようになっているわよね……? ただ私を犬猫と同じ扱いってのが気に食わないけど……!)
でも今は感謝だ。数日、連絡が途絶えれば嫌でも警備隊が捜索に乗り出すだろうし、エルマーが居場所を割り出してくれるはずだ。
内心の焦りを悟られぬように、リネットは背筋を伸ばして、自然に振る舞うように心がける。舐められたらおしまいだという緊張感が、身体を包んだ。
「私はアンラスからやって来た。夜ごとに歌と踊り、そして物語が紡ぎだされる芸術の都だ。シュガーホール、オペラハウス、劇場……もちろん美術館やサロンもある。下手な金細工や宝石よりも、歌姫の一小節のほうが価値のある街だ」
なるほどとリネットは納得した。セルトアは魔術研究所として栄え、アンラスは芸術の都として名を馳せる街だ。そのアンラス出身というバーティストは、セルトアでは見かけないようなお洒落なスーツに身を包んでいる。
「そこで私はとある劇場に足を運んでおるのだ。そこの劇場に雇われている……舞台女優、ジェシカ・カロリングのファンになってな。毎晩のように劇場に足を運んでは舞台の彼女の美しさにはまっていた。まるで沼に足を囚われたようで、しかし私の足は藻掻きながらも深みへと進むのだ。ああ、ジェシカの美しさときたらどんな詩人の言葉で持っても足りぬ!」
「なるほど。ジェシカさんは類まれなる美貌の持ち主なのね」
リネットは真面目な顔で相槌を打ったが、内心ではバーティストの話に小首を傾げていた。ジェシカの事を語るバーティストは次第に熱が入り、身振り手振りが大きくなる。さらには詩を朗読するようにジェシカを褒め称える。
なんだか一人芝居を見物している気分になって、リネットはそこでようやく冷めた紅茶に口をつけた。
「美貌だけではない! あの伸びやかで豊かな声量、彼女の見せる演技も仕草も素晴らしい……ジェシカの流す涙は宝石のように舞台で輝き、私はその宝石を拾い集める人夫にでもなりたいくらいだ」
「へぇ、そうなんだ」
適当な返事をするがバーティストは気にせず、舌が止まらないとでも言うようにジェシカについて喋り倒す。リネットは主人の後ろであくびを噛み殺すシェイドに目をやるが、いつまで続くかわからない話から助けてくれる様子はなかった。
それからバーティストが満足するまでジェシカと彼女の舞台の素晴らしさを語られ、リネットは何のために拉致され、ホテルに連れて来られたのかわからなくなっていた。
「そこで私はこの胸に宿る想いを手紙に綴ることにした。もちろん、一人のファンとして適切な距離を取りつつ、ファンレターと共に一輪の花を贈り続けたのだ。彼女は舞台女優。返信など期待していなかった」
「でしょうね」
紅茶をすべて飲み干してカップを戻すと、いつのまにかシェイドが二杯目を用意してついでくれた。お茶うけとしてマドレーヌも出される。
「しかし、奇跡が起きたのだ! ジェシカから手紙が届いたのだ!」
「まぁ! それは良かったわねぇ」
まだ話は終わらない。リネットはマドレーヌに手を出してもいいのか迷ったが、主人の後ろで控えているシェイドが、自分でもマドレーヌを食べだしたのでそれに習うことにした。マドレーヌはバターの芳醇な香りがして、しっとりと指に張り付く。これはうまいぞ、と本能が告げた。
リネットが期待してマドレーヌを割り、口に運ぶ間にもバーティストはジェシカとのやりとりを詩的な表現で語る。その半分が装飾されたふにゃふにゃした言葉だったので、リネットは半分も理解できない。
わかったのはバーティストがあまりにもジェシカに入れ揚げているということである。
(ジェシカを恋に落とす薬を寄越せなんて言わないわよね……)
そんな小説や舞台でしか登場しない薬をリネットが持っているはずがない。もし恋の薬が欲しいのなら、どうやって断ろうか。そこまで思考を巡らせていたら、唐突にバーティストが口を閉ざした。
熱に浮かされた顔が急速に年老いていく。その変わり様はどきりとさせるものがある。
「えっと、どうか?」
「……私はジェシカと手紙をやりとりするだけで幸せだったのだ。もう老いぼれだしな。多くは望むまい。しかし……ジェシカからこのような手紙が届いた」
「手紙?」
バーティストは懐から一通の白い封筒を取り出して、テーブルの上にそれを置いた。読んでもいいらしい。
リネットは恐る恐る手紙を取ると、丁寧にカットされた封筒の口から便箋を取り出した。ふわりと香水の華やかな匂いがする。それだけでジェシカという会ったことのない女優を想像できた。
きっとバーティストの言うとおり、美しい人なのだろう。
便箋は二枚あった。
流麗な綴り文字に目を通すと、内容はざっとこのようなものだ。
いつも手紙と素敵なお花をありがとう。あなたが今夜もいらっしゃって舞台を見てくれると思うと、私の胸は弾んでしまいます。よろしければお会いして、舞台についての感想を直接聞かせて頂ければと存じ上げます。
ジェシカ・カロリングより。
リネットは読み終えた手紙を丁寧に畳み、封筒に戻すとバーティストに返した。
「良かったじゃない」
あっさりと一言を告げる。しかし、あまりにもあっさりしすぎた言葉は、素っ気なくも聞こえる。何がおかしかったのかシェイドが口を押さえて笑いを堪えた。
「ああ、天にも昇る気持ちだった!」
それからまた手紙を読んだときの気持ちを滔々と語りだしたので長い。リネットは二杯目の紅茶に遠慮無く手を付ける。一緒に居てわかったのだが、老人は話を聞こうが聞くまいが関係なく喋るらしい。
(なんだかエルマーに似ているわ……彼は返答をしないと面倒くさいんだけど)
そろそろ本題に入って貰いたい頃合いである。なんせ、本日は冬至祭で、リネットのお店はまだ開店すらしていないのだから。ちらりとオペラハウスの屋根が見える窓に目を向ける。まだ午前中だが、この勢いだとお昼すぎまで用件を聞き出せないかもしれない。
もう一個くらいマドレーヌを頂いちゃおうかしら。
熱の籠るバーティストの声を右から左に聞き流して、目の前の焼き菓子に心奪われたときだった。
「そういうわけで、セルトアの魔女殿。私を若返らせて欲しい!」
「無理よ」
唐突な本題の入りだったが、考えるまでもなく切り捨てる。
「何故!? ああ、わかったぞ! 取引の内容をまだ言ってないからだな? 私はこのシェイドを魔女殿にやろう。焼くなり煮るなり好きにするがいい。できれば……良くしてやって欲しいのだが」
「旦那様!? 初耳でございますが!」
「お前に言ったらセルトアまで来なかっただろう」
「当然ですとも!」
マドレーヌを食べ終えて指をハンカチで丁寧に拭いていたシェイドが、突然のことに目を剥く。金でも宝石でもない。対価として躊躇わずに人を差し出すことに、リネットは眉を潜める。どうやら例の噂を鵜呑みにしたらしい。
魔女の力を借りるには、魔女が気にいる対価を支払わねばならない。それがあなたの命だろうと。
こんな物騒な噂である。
またこのパターン。しかも他人を差し出されたのは初である。これをゲスと人は呼ぶのだろうか……? リネットは頭が痛くなった。
しかし、ここは堪えて誤解を説かなければと二人に声をかける。だがバーティストとシェイドは大人げなく言い合いをしていた。こちらのことなんぞ目に入らないようだ。
「旦那様のお願いなんですから、旦那様のお命を支払うのが筋ってもんでございましょう!」
「ええい! 私の命を差し出したら食事に行けないだろうが!」
「でしたら変わりに出席いたします!」
「私が一番行きたいんだ!」
もう帰りたくなったリネットだった。若返りの薬? そんなもの、惚れ薬以上の夢物語だ。しかし、バーティストはわざわざセルトアまでリネットを頼りにやってきたのである。無碍にするのも忍びない。
「……もう一度言うけど、シェイドの命を貰っても、あなたを若くすることは出来ないわ」
「ほーらご覧なさい!」
「な、何故だ!?」
「だって私は魔法なんて使えないし、若返りの薬はお伽話だもの」
きっぱりとバーティストに現実を突きつける。ついでにセルトアの魔女が何でも望みを叶えることはただの噂であることも説明した。
するとバーティストは呆然とリネットを見つめていたが、顔を赤くさせて口元を強く引き結ぶ。そして、馬鹿にしているのかと絞りだすように呻いた。
「馬鹿にしているわけじゃないわ……本当に、出来ないのよ」
「何故? 老い先短いジジイの戯言だと? 口先で誤魔化せると思ったのか! ええい! 忌々しい……出せ! 薬を! ジェシカに相応しい男になるために!」
怒鳴り声にリネットは縮こまる。さきほどまで悠長に食べていたマドレーヌの味なんて吹っ飛んだ。それと同時に久しぶりだと思う。噂を聞いてやってきた者の中には、望みが叶わないと知るとリネットに当たり散らす。無能だと吐き捨てられた事もある。
無能なんて、リネットが一番わかっているのに。
わかっているからこそ、バーティストの望みを叶えてやることはできない。首を振り続けるリネットに何を思ったか、バーティストのぎらぎら光る目が鋭くなる。
「……強情なお嬢さんだ……シェイド」
「はい」
「……はい?」
名前を呼ばれたシェイドが主人の意向を汲み取って、リネットの側に立つ。そしてジャケットの袖口から細身のナイフを取り出した。
「手荒な真似はしたくない。どうか、ご協力できないだろうか」
「……無理よ。私にできないものは出来ない」
「ではなぜ! あんな噂が流れている!」
「こっちが知りたいわよ!」
声を荒げるバーティストを睨みつける。するとナイフが首筋に迫った。ちらりと青年を見上げれば、眉尻を下げて申し訳無さそうだ。
「……言っておくけど、拉致に脅しは立派な犯罪よ? その上、傷害?」
「ご心配なく。一介の使用人ごときの全ての罪は、旦那様が被りますんで」
純朴そうな顔立ちでこいつもゲスである。さぁ、ご協力を。そう言ってナイフの柄がリネットの首筋に当たった。ひやりとした金属の冷たさ。すぐに体温と同化してしまう。けれど、ちょっと首を回せば、銀色の刃が肌を滑るだろう。それは勘弁して貰いたい。
ごくりと自然に喉が鳴る。
「いや、シェイド。私は食事に行くから、お前の罪は被れんな」
「ええええ!? じゃ、こんなことしませーん。マドレーヌでも食べておきますよ」
現金なシェイドはナイフを仕舞うと、リネットから離れる。使用人として主人に対する敬いはないらしい。どこかおかしい主従二人に戸惑うも、相手がナイフを持っていることには変わりない。
背筋に流れる冷たい汗を悟らせぬよう、リネットは拳を軽く握った。
残念ながら、リネットをどんなに脅そうが、若返りの薬なんてない。魔術でさえ、生体に関する技術は未発展だ。しかし、それを説明したところで納得してくれるだろうか。何とか妥協できればいいのだが。
「でもまぁ……少しは協力することはできるわよ。少しはね」
「ほ、本当か?」
期待を込めた瞳を向けられて、リネットは微笑む。もちろん、顔が隠れているので相手には見えないが、雰囲気でわかったらしい。先ほどまで主人に売りに出されるという危機にあったシェイドも、興味深そうにリネットに視線を移す。
リネットは二人に向かって拳を作って、任せろと言わんばかりに大きく頷く。
「ええ! 若作りしましょ!」
ホテルに着いてから一番の静寂が訪れた瞬間だった。