呼ばれない名前2
クレア・クレイドルは本日も悩んでいた。優秀な魔術師を輩出するクレイドル家の三女として生まれたクレアは、自身も家名に恥じぬほどの魔力と知識を兼ね備えた魔術師であると自負している。生まれてこの方、不自由な目にあったことはなく、口にだす前に全てものが整っていた。
例えばタフタで作られたたっぷりと広がるドレス。贅沢にも小さな宝石が散りばめられたドレスをクレアは何着も持っている。しかし、人形に着せるようなドレスはクレアの趣味ではないということで、衣装棚の奥にしまわれて日の目を見ることはない。
例えば羊の革で装丁された魔術書。魔術とは緻密な魔術陣と自身の魔力で発動するものだ。そのための知識が記されている魔術書をクレアは幼いころより与えられており、家庭教師として王宮魔術師にも引けをとらぬ人物に魔術を教授されていた。
だから、クレアは王宮魔術研究所に入所が決まった際、当然の結果だと思っていた。研究所で華々しい成果を叩き出すことを信じて疑わなかった。
しかし、クレアは入って一月で、自分とは比べようのない天才がいることを知る。それがエルマー・ベンフィールドだった。十三歳から研究所で働いているという男は、クレアが一月かけて仕上げた魔術陣を三十分で構築し、その上段違いの性能を見せつけた。
「……実は才能がないのかしら。このあたくしが……?」
美貌もある。頭脳だって研究所に入ったくらいだ。良いに決まっている。それなのに、エルマーという男はクレアの努力を、キャンディーを舐めながら暇つぶしのようにあっさり覆す。
自身を喪失したクレアはだんだんと出勤することが嫌になり、いつ辞表を提出しようかとばかり考えるようになっていた。
丁度そのころだ。セルトアの魔女と呼ばれる女が、研究所に協力員として派遣されると聞いたのは。
ほんの少し興味がわいた。セルトアの魔女は魔術師が解決できない悩みでも、対価を払えば解決してくれるという。きっと、魔術師の高みに立つ孤高の存在なのだとクレアはまだ見ぬセルトアの魔女に憧れを抱く。憧れはすぐに崩れ去ってしまったが。
「ちょっとエルマー! あんたいい加減にしてよね! ヴィルにのど飴をあげたら、声が変わったんだけど!」
研究棟に入ってすぐに飛び込んできた少女の声。しかも、あの天才魔術師に「いい加減にしてよね!」である。ぎょっとしてそちらへ顔を向けると、魔術師達の注目を浴びる二人組がいた。
「うむ! 食べ物に魔術陣を仕込む実験をしていてな。七色ヴォイスキャンディーが試作品なのだ! うまくいったようで良かったではないか!」
「よくないわよ、おかげで完全に女声のオカマよ……!」
「それはいいのではないか……?」
「本人が喜んじゃって、パブでお兄さんに奢って貰おうってうきうきるんるんよ! ヴィルの毒牙にまたノーマルなお兄さんが!」
「う、うむ。まぁ、そこらへんは僕の関与する範囲ではないな」
エルマーに噛み付いているのは小柄な少女で、灰色のローブを纏っており顔はよく見えなかった。どこからともなくセルトアの魔女だと囁き声が聞こえる。
「あれが……セルトアの魔女?」
天才エルマーに臆せず物を言う少女の頭をエルマーが乱暴になでる。フードが落ちて波打つ髪が溢れ、丸い大きな瞳の可愛らしい顔が露になった。セルトアの魔女は至って普通の少女のように、頬を膨らませて怒っている。
そう、驚くほどに普通の少女だった。
それからクレアはセルトアの魔女にますます興味を持つようになった。理想とは違うとがっかりした部分もあったが、それ以上に天才魔術師に眦をつり上げて、口調を荒らげるあの度胸が気に入ったのだ。
そして、クレアはひとつだけ自分が持っていないものを自覚した。
何でも用意されて目の前に差し出されてきた。けれど、クレアは取り巻きはいても友達らしい友達はいない。
「……セルトアの魔女は、友達になってくれるかしら」
三女のクレアは早速すぐ上の姉に友達の作り方を聞いた。
まずは挨拶からしなさいな。その助言の通り、クレアはセルトアの魔女を見かけるたびに声をかけるようにしている。しかし、どうしても口から出るのは挨拶というよりも、皮肉と嫌味に聞こえかねないものであった。落ち込んだ。
次に結婚して家庭を築いている長女に尋ねてみた。
名前を呼べるようなったら距離が近づいた証拠よ。その通りだとクレアは思い、朝の挨拶のついでにセルトアの魔女の名前--リネットと呼ぼうと何度も試みる。しかし、いつも「リ」はでてくるが後が続かない。クレアはベッドで膝を抱えた。
落ち込んだ妹をみて、姉たちはひとつアドバイスをくれた。何か小さなプレゼントをしてみては? と。しかし、誕生日でもないのに急にプレゼントを贈ることもできず、クレアは悩み続けていたし、そもそもセルトアの魔女の誕生日すら知らない。
けれど、クレアに素晴らしい朗報が入った。
「そういえば、魔女が風邪で休んでいるらしくてな。僕はお見舞いに行ってこようと思うが、お前ら、何か差し出すものはないか」
有無を言わさず見舞いの品を要求するエルマーに、研究員たちはとりあえずそこら辺の風邪薬を渡したのだった。これはチャンスだとクレアは自宅から毛織物のブランケットを取ってきて、見舞いに浮かれるエルマーに渡す。
毛織物は姉たちの助言を踏まえて用意したプレゼント。もちろん、友達になりたい者に安物を渡すわけにはいかないと、アゴラの胸毛だけで作られた最高級の織物を用意した。保湿性、吸湿性、ともに優れた一品で、細かく織られた幾何学模様はベテランの職人が三月半もかけて仕上げる。
「ああ、気に入ってくれるかしら? もうちょっと華やかな織りにしたら良かったかしら? なんなら宝石をあしらったブローチも付けたほうが」
初めての贈り物。クレアはセルトアの魔女の反応が気になって、その日の夜は遅くまで寝付けなかった。
けれど、クレアの心配など一気に吹っ飛んだ。セルトアの魔女はブランケットが気に入ったらしく、よく腕に抱えている。少々、つっけんどんな言い方をしてしまったが、クレアからの見舞いの品ということで受け取って貰えたのだ!
お友達に一歩近づいたとクレアは喜んだ。
そして、今日。
「ねぇ、ちょっと聞いてもいいかしら?」
セルトアの魔女があいかわらず小ダサいローブで己の魅力を殺しながら、クレアに声をかけたのである。
「なぁに? あなたから声をかけるなんて珍しいじゃない? しかも聞きたいことですって?」
おはようと言うつもりが高飛車になってしまった。
「ええ、クレアは綺麗でしょ? ちょっとそのう……恋について聞きたいんだけど」
「……コイ? え、ええ、男性とのお付き合いのことかしら? そりゃ、私くらいになればあるけれど。当然でしょう?」
実はない。クレアは婚約者がいるので、男性と付き合う事は毛頭考えたことがなかった。婚約者とは数年来の付き合いで、気心が知れており、まったくの不満もなかったのだ。
しかし、口が勝手に見栄を張ってしまう。
「そうなの? よかった! じゃあ、ちょっと話を聞いてくれないかしら!」
「よくてよ。ええ、私の経験はあなたなんかに参考になるのかわからないけれど」
では、お昼休みに。
そう言ってセルトアの魔女は第二十研究室に行ってしまった。弾むような足取り。その背中を見送って、クレアはそっと唇を噛んだ。これは仲良くなるチャンス! けれど、そのチャンスを活かせる経験が絶対に不足している。
クレアはとりあえず研究棟を飛び出してメインストリートの書店に飛び込んで、恋の指南書をたくさん買い込み、第一研究室で読んだ。鬼気迫る様子で恋愛指南書を読み込むクレアを咎めるものは誰もいない。
* * *
リネットはクレアに初めての恋愛相談に乗って貰った。自信満々で己の美貌をよくわかっているクレアならば恋愛経験も豊富で、リネットの小さな悩みなどすぐに解決できるに違いない。まぁ、それを言ったのはエルマーだった。部下のことはある程度把握しているから、彼女に尋ねるのが一番だと胸を張られたのだ。
それならば、とリネットはいつもの嫌味を聞き流して、話し掛けたのだ。嫌われているので断られるかと思ったが、意外にもあっさりと了承してくれた。
他にサヴィーナやヴィルに話しても良かったけれど、隣家で身内同然のように育った二人に恋を打ち明けるよりも、気恥ずかしさが勝ってしまった。
クレアに相談したいことはソークに名前を呼ばれないということ。
「名前を呼んで貰えないし、尋ねられたこともないのよ。私は魔女と呼ばれて終わるのかしら」
思い返せば両親やヴィル、サヴィーナを始めとする旧市街の一部はリネットと呼ぶが、ショウもエルマーも魔女と言うのだ。まるで魔女という皮がリネットを覆い、誰も魔女に名前があることに気づかないようだった。
(ソークも魔女と呼ばれるあたしにだって、名前があるなんて思ってもいないのかもしれないわ。例えヴィルがリネットと呼んでくれていても。ソークの中ではあたしはあくまで「魔女様」なのよね……)
これは自己紹介を改めてすべきだろうか。リネットはもんもんと悩む。初めはお客と魔女の関係で良かったのに。いつの間にか、名前を呼んでもらいたいなんて。
ソークの名前は伏せて、悩みを打ち明けると、クレアは難しそうに眉を寄せた。そして、眦を吊り上げて、少々早い口調でまくし立てる。
「あたくしはちゃんとあなたの名前くらい知っていてよ! ただ、そうね。呼ぶ機会がないもの。魔女で事足りてしまうし……でも、ちゃんと名前は知っているのよ! それに灰色のローブじゃ、魔女と呼んでと自ら言っているようなものじゃないかしら?」
「そうよね……いつの間にか魔女スタイルが板についているのよね」
「大体灰色のローブってセンスがないわよ、女の子なんだし、装いに気を使うべきだわ? なおさら……恋をしているというのなら」
確かに年頃の少女が新調したとはいえ、袖が炭で黒ずんだ灰色のローブを纏うのはなんだか悲しい。リネットはクレアの言葉に素直に頷いた。
女の子らしい格好をして魔女のイメージを払拭しろというアドバイス。実に有益だと思った。リネットの魔女スタイルも見た目から入っている。接客商売上、人は外見で判断するものだと知っている。
(そうよ! 魔女がもう少し女の子らしくしたっていいわよね?)
リネットは拳をつくり大きく息を吸って決意する。魔女ではなく、一人の女の子としてのリネットをソークに印象付けるのだ。
「クレア、ありがとう! あたしの努力が足らなかったんだわ! あらあら? どうしたの?」
何故かクレアは落ち込んでいた。ぶつぶつと「もっと優しく……あたくしだって名前を……」と呟いている。
「クレア?」
「なんでもないわ、リ……りんごの季節ね、そろそろ」
「え、ええ、そうね。タルトやジャム、焼きリンゴにしてもいいわね」
いきなりりんごの話になった。もしかして、冬至祭の準備でクレアも疲れているのだろうか。せっかくの昼休みだ。休めるときには休まないと! ということで、リネットはクレアに「お仕事がんばってね」とエールを送り、第二十研究室へと戻ったのである。
それにしても、クレア・クレイドルは案外いい人なのかもしれない。
それからリネットは灰色のローブを脱いだ。けれど、どうしても着たくなってしまう。ソークは目を見てまっすぐ話すので、言葉を交わすたび、リネットは凪いだ湖のように穏やかな瞳に見つめられて、とくとくと心臓が速る。
「最近は顔をお隠しにならないんですね」
「ええ、もともとローブは着てなかったもの。でも、ヴィルを見るともう少し鼻が高かったらと思っちゃうわ」
「そうですか? 可愛くてチャーミングだと思います。なんだか、不思議な気持ちではありますが」
「不思議……? えっと! それは、私が普通の女の子に見える……とか?」
期待しながら尋ねるとソークは驚いた顔をして、次にマフラーに口元をうずめて笑う。
「そうですね。でも、魔女様は魔女様ですから」
「……あ、そう」
リネットはそっぽを向いた。
「え? 魔女様? 何か気に入らないことでも言いましたか? す、すみません! 魔女様がお優しいので調子にのっていました! 考えればお隣を歩くのでさえ恐れ多いですよね、三歩後ろに下がります……!」
ただ魔女様から脱しきれない自分に拗ねていただけなのに、ソークはあらぬ方向へ勘違いし、リネットから離れる。
「そうじゃないわよ!」
たまらず腕を伸ばしてソークの手を捕まえる。そしてぎゅっと握りこんだリネットは隣に引き寄せると、そのまま黙々と歩き出した。
「あの、魔女様? 手が繋がっていますが」
「……ソークが変なことを言うからでしょ! あたしは……別に、ソークと歩くのはいやじゃないもの」
本当は居心地がいいので好きだ。そう言ってしまいたかったが、リネットは可愛くない言い方をしてしまう。手を繋いでいる今がどきどきして精一杯なのに、好きだなんて言えやしない。大きい手の平はリネットには余り、どんなに力をいれて握っても離れていきそうだ。
「魔女様の手は小さいですね」
嬉しそうに弾んだ声が聞こえる。どうして、そんなに楽しそうなのかリネットには理解できない。こちらは手を繋ぐだけで意識して顔をあげられないというのに、ソークのほうはまるで妹か何かと連れ立って歩いているような調子だ。
ちょっぴり悔しい。どうやったら、この人のいい青年をどぎまぎさせることができるんだろう?
「魔女様? やっぱり怒っていますか?」
「そんなことないわ」
素っ気なく答えたリネットは隣を歩くソークの手を離した。恋人ではないのだから、いつまでも手を握っているわけにもいかないだろう。からになった手を寂しく思う。
けれど、しっかりした手がリネットの手を包み込んだ。
ソークが追いかけるように手を掴んだのだ。はっと仰ぎ見れば、まろやかなラインを描いた優しい瞳がリネットを見つめている。口元には愛しいものを見守るような笑みが湛えており、青年らしいシャープな顔や柔らかな髪の縁が雪あかりでぼんやりと光っていた。
勘違いしてしまいそうだった。
「魔女様の手は小さいですね」
「……そりゃそうよ、あたし、あなたより年下だもの」
ぽつりと返すとソークは目を見開き、まじまじとリネットを見やる。まるで予想もしていないことを聞かされた反応だった。
(まさか、魔女様も年を取るものだとは知らなかったとかじゃないでしょうね?)
そうだとしたら、リネットは人間にすら見られていないということになる。好きな人からそう思われるのはさすがに切ない。
「ずっと同い年か年上だとばかり……!」
落ち着いているので、とソークが弁解する。その度に腕を振るものだから、繋いだ手が楽しそうに揺れた。
「……だから、丁寧な言葉を遣わなくてもいいのよ」
ぽつりと思わず漏らした言葉はソークにばっちり聞こえたようで、腕の動きと歩みがぴたりと止まる。硬直したように止まってしまったソークに合わせて、リネットもその場に佇む。
「年下だし、最近はあたしのほうがお世話になっているんだもの」
「で、でも! 相手は魔女様ですし、しかもセルトアの魔女様ですよ!?」
「……そう、そうね。まぁ、無理にとは言わないわ」
とんでもないと言わんばかりに首を横に振るソークに、リネットは微かな笑みを浮かべてみせた。やっぱり、自分はどこまでもセルトアの魔女でしかないのだと、切なくなる。
「やっぱり……あたしは魔女だものね。仕方ないわ」
「魔女様……?」
元気のない顔をしていたのだろう。腰をかがめて心配そうに目を合わせるソークの優しさが、リネットにはほんの少しだけ痛かった。