蝶の渦
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おやおや、まあまあ!
またお会いしましたね、お客人。
ここで再び出会えたのも何かの縁にございましょう。
今宵も一曲、いかがでございましょ?
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とある町のさる長者様には、三人のお子がおられました。
一人目は御名を涼香様と申されまして、聡明でお優しい、それはそれはお美しい三兄弟の一番上の姉君さまでいらっしゃいます。
二人目は三兄弟の真ん中、一の兄君、駿河様。
この駿河様、たいへんな放蕩息子のようでして、昼間から酒瓶片手に遊び歩き、夜な夜な女郎屋敷を渡り歩く始末。その上、遊び歩いた先々で賭け事に大負けして多大な借金を抱え込んでいるという噂でございます。
これには父君様も母君様もほとほと困り果てているご様子でいらっしゃいました。
さて、最後に三人目は、ご兄弟の末っ子、長者様の跡取り息子で、御名を昴様とおっしゃいます。
昴様は、兄君の駿河様とは正反対に、実直でしっかり者、その上、明朗快活で気配り上手と、文句のつけようのないほどの好青年ぶりでいらっしゃいました。
それゆえ、昴様は兄君の駿河様を差し置いて跡取りにと押されるほどで、幼い頃より父君のお仕事を手伝われておられました。
またその仕事ぶりも優秀でいらっしゃいまして、周囲の方々にも一目置かれるほどの辣腕家でございました。
誠実なお人柄で皆に慕われている長者様ご夫妻の間に生まれた放蕩息子と跡取り息子。
ゆえに、このお二方にはとある噂が密やかに囁かれておりました。
すなわち、長男、駿河様は拾われ子ではないのか、と。
まことしやかに囁かれたその噂は、瞬く間に町中に広がり、とうとう長者様のお耳に入ることとなってしまわれました。
しかし、そのような根も葉もない噂を聞いたとたん、長者様は冷笑して軽くあしらわれたのでございます。
――実に下らぬ。
と。
それ以来、町の者たちは決してその噂を口にすることはなくなったのでございます。表向きは。
と言いますのも、人の口に戸は立てられぬのが世の常。
駿河様と昴様のお噂は、決してなくなることはなかったのでございます。
それから間もなくのことでございました。
涼香様に、隣町のさる御奉行様との縁談のお話が取りまとめられましたのは。
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「涼香、これはどういうことだ!?」
町中の殿方に慕われていた涼香様でございましたが、この町で一番の衝撃を受けられたのは、涼香様の弟君、駿河様だったのでございます。
「……どういうも何も、そういうことです」
「っ涼香!」
あまりにも素っ気無い涼香様の態度に苛立ちを覚えた駿河様は、乱暴に涼香様の手を掴み、強引に抱きしめられました。
「涼香、俺はっ」
「分かって、駿河さん。私たちは、私たちはね、れっきとした兄弟なのよ。だから」
「分からない! 分かりたくもない! 俺たちの間には血のつながりなどっ」
「駿河!」
駿河様の腕の中、涼香様は、分かって、と何度も何度も繰り返しながら、はらりはらりと静かに涙を流されたのでございました。
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その翌朝のことでございます。
それはひどく唐突に訪れたのでございました。
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「馬鹿な!? 涼香と駿河が、駆け落ち、だと!? 馬鹿な」
寝耳に水、とはこのことでございましょう。
長者様は驚きと怒りと、そして悲しいほどの後悔に心を痛められ、奥方様にいったては、あまりの心労に、とうとう寝込まれてしまうほどでございました。
そうして、人々の間には、それまで影を潜めていたはずの噂が、木々が根を張るように、深く強く、瞬く間に広がっていったのでございます。
――やはり、駿河様は拾われ子であったのか、と。
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言葉。
それは時として最も鋭く深い刃と成り得るもの。
広まれば広まるほど、その刃は深く深く突き刺さり、決して抜くことの適わぬ小さな鎖へと変わるのでございます。
昴様もまた、その鎖に絡めとられてしまったお方の一人でございました。
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「父さん、お話があります」
そう告げる昴様の目は、とても深い悲しみに溢れておりました。
「どうか僕に、二人を探しに行くことをお許し下さい」
とても悲しい、けれど決して覆らぬであろう強い意思を秘めたその瞳に、長者様は重い吐息と共に是と応えられたのでございました。
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それからしばらくのちの、長い長い雨季がようやく明けた日のことでございました。
長者様のお屋敷に、とある知らせが舞い込んできたのでございます。
――数日前の早良川の氾濫により、長者様のお屋敷の方が二人、お亡くなりになられました、と。
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天神様の何と不公平なことでございましょう
どうしてこのような悲劇をもたらすのか。
人の世はいつも分からぬ不安と嘆きに満ち溢れているものでございます。
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嗚呼、何故もっと早くに二人の気持ちを察してやれなかったのか、何故もっと二人に優しい言葉の一つでもかけてやらなかったのか。
渦のように巡る思いも今となってはもう遅い。
心に落ちた深い影と痛みを抱えながら、長者様は急いで早良川へと向かわれました。
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並ぶ二つの水死体に、我知らず、嗚咽が漏れる。
震える手でそっと上掛けを捲り、長者様は凍りついたように身を固められました。
「あ……嗚呼……あ、あ」
震える手が、唇が、声が、この世の全てを悲しみに変えてしまわれました。
ふらふらと後ずさる先には早良川。
全てを飲み込む深い渦。
長者様の眼前で、青白い顔で眠るようにして横たわっていたのは、駿河様と涼香様ではなく、なんと、昴様とそのお付の方だったのでございます。
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零れる嘆きが痛ましい。
人の世はいつも無常に流れ続けるのでございます。
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翌日、昴様の御葬儀が、盛大に執り行われました。
悲嘆にくれていたのは、長者様ご夫妻ばかりではございません。
町中の者たちが嘆き悲しまれたのでございます。
長者様が長い長い葬列の中を眺めやった時、ふと、知った顔を見つけ、激しい怒りを覚えられました。
知らず、駆け出しておられました。
「涼香! 駿河!」
が、しかし、殴りかかろうとしていた拳は、駿河様の眼前で震えながらとまりました。そうして、ほろりと一滴、涙を流されたのでございます。
「よく、よく無事で……」
これ以上ないくらいに涙を流される長者様に、なれど、お二人は翳りある表情で静かに首を振りました。
「私たちが死ねばよかったのです」
「ああ、俺たちが昴を殺したのだから」
「違う!」
全てを受け止めるように、暗く静かな表情でそう告げたお二人の言葉を遮ったのは、ずっと屋敷で寝込まれておられた、長者様の奥方様でございました。
「それは違います。違うのです、駿河さん、涼香さん」
はらはらと静かに流れる涙が痛みの深さを物語っておられました。
「昴さんは、昴さんは、ずっと心を痛めていたのです。自分がいることで、駿河さん、貴方が苦しんでいることを。そうして貴方がそれゆえに自身を追い詰めどんどん深みへと堕ちていくことを」
「……」
「だから、貴方たちのせいではなく、私たちのせいなのです」
「お母様、それは違いま」
「昴さんは、私と旦那様の本当の子供ではありません」
「……え?」
「血が繋がっていないのは、駿河さん、貴方ではなく昴さんの方なのです」
もう、何に対して涙を流しているのか、誰しもが分からぬままに、ただただ涙を流されたのでございました。
***
結局、長者様のお屋敷はずっと弟君のことを思い、首を振り続けておられた駿河様が跡目として継がれることとなりました。そして、涼香様は昴様の死を悼み、出家の道を歩まれたのでございます。
巡る思いは渦のように、複雑に絡み合い、流れ流され、溶けては弾け、ただぐるぐるぐるぐると、誰もが気づかぬままに溢れ続けているのでございます。
人の世という名の悲しい渦が。