蝶の唄
おや。お客人、ようこそおいで下さいました。
あたくし、しがない旅の琵琶弾きで胡蝶と申します。
これより語り申し上げることは、あたくしがこの琵琶を片手に諸国巡業の旅をしておりました折々に、実際に見聞きしたお話の一つでございます。
もしお時間ありましたら、あたくしの拙い琵琶の音と共に御清聴頂ければ幸いに
ございます。
では、そうですね。今宵のように朱色の月が輝く夜には、このようなお話などい
かがでしょうか。
***
時は慶安十二年。
京都は島原にございます遊郭に、一葉太夫と呼ばれる遊女がおりました。
この一葉太夫、その美貌もさることながら芸事、文学共に飛び抜けて秀でておりましたので、市井の殿方の視線を一身に集めておりました。
ひとたび市中を歩けばその世にも稀なる美貌に誰もが振り向き感嘆し、町中の殿方たちが一目振り向いてもらおうと、喉も張り裂けんばかりに声を上げる始末でございました。
この時世、遊郭とはすなわち文化の発祥地、なれば遊女はその中心、文化そのものと申し上げても過言ではございませぬ。
その中にあってこそ、一葉太夫の人気ぶりは際立って優れておられました。
この島原において、一葉太夫の名を知らぬものはおらぬほどの名妓中の名妓でございました。
ところが、この一葉太夫の栄華もそう長くは続かなかったのでございます。
それは一葉太夫の清華全盛期とも呼べる頃、奇しくも肺に重い病を患われてしまったのでございました。
病を持った遊女の行く末などないにも等しいほどでしたので、一葉太夫もまた、この島原の遊郭を追い出され、自らが稼いで貯めた僅かな金で残り少ない余生を過ごすことを余儀なくされたのでございました。
***
なんとまあ世間というものの冷たいこと。
病を得た女に同情するものなど誰もおらず、逃げるようにして京を去った一葉太夫の姿が目に浮かぶようでございます。
けれどもそれが世間様というもの。
遊女として生きることを誓っていた身なれば、こうして落ちぶる時の覚悟も必要だったということでございましょうねぇ。
***
さて、それからしばらくのち。
京より遠く離れた片田舎で、一葉太夫はひっそりと暮らしておりました。
この頃ではあまり起き上がることも出来なくなってしまわれたので、一日のほとんどを寝たきりのまま過ごされるようになりました。
太夫の住まわれる小さな家屋には、身の回りの世話をする老婆が一人訪れるだけで、誰一人病持ちの女に近づくものはおりませんでした。
そんなある日のことでございます。
「ごめんください」
それは空に朱が混じった月の輝く、何とも不気味で幻想的な夜のことでございました。
「ごめんください」
まだ年若い男の声でございました。
太夫は、病持ちの女の家に訪れる者などいるわけがない、と不思議に思いつつも、重い足を引きずって戸口をそっと開けてみたのでございます。
「ああ。良かった。いらっしゃった」
男は、何処かほっとしたように微笑んで言いました。
「一葉殿。ずっとお探し申しておりました。ようやくお会い出来て嬉しく思います」
「あたくしを? 探していた?」
太夫の声は、以前とは似ても似つかぬほどに醜くしわがれておりました。
それもそのはず。
太夫は長い間、声を発してはいらっしゃらなかったのでございます。
と言いますのもこの家に訪れるのは、せいぜいが世話係の老婆のみ。
その老婆にしてみても、食事と洗濯の、自身の仕事が済めばさっさと帰ってしまうような有様でしたから、当然どなたかと口を利く機会などなかったのでございます。
「はい。もう随分と長いこと、お探ししておりました」
首を傾げる太夫とは反対に、男は満面の笑みで頷きました。
太夫が首を傾げてしまうのも致し方ないこと。
太夫には、男の顔に心当たりなど全くなかったのでございますから。
「何かの間違いにございましょう。確かにあたくしは一葉太夫と呼ばれていた時も
ございました。けれど今はこのように肺に病を患った身なれば、貴方のような身なりのよろしい方が、わざわざ探されるほどの人間ではございませぬ。きっとどなたかと勘違いしておられるのでしょう」
けれど、男は頑なに首を振ります。
「いいえ。私がお探ししている一葉太夫は、間違いなく貴女様です。見間違えるはずがございません」
男の意志の何と固いこと。
仕方なく、太夫はため息を零して、男に言いました。
「分かりました。では、貴方様がお探している一葉太夫が、あたくしだったとして。もう見つかったのですから、どうぞこのままお引取りを。先程申し上げたように、あたくしは肺に病を抱えておりますゆえ、あまり長くここにいない方がよろしゅうございましょう」
太夫はそれだけ言うと、ピシャリと戸を閉めてしまわれました。
別に、気分を害されたからではございません。
どころか病を得て逃げるようにして遊郭を出た太夫を、男はずっと探していたというのですから、むしろ好ましくさえ思いました。
なれど、いいえ、なればこそ、男をあまり長く自身の側に置いてはいけないと思われたのでございます。
痛む胸を押さえつつ、太夫はゴボリと血を吐いて屈みこまれました。
この身が自由であればと望めども、もし健全な身体であったなら、間違いなく太夫は未だ遊郭にて日々を過ごしておいでのはず。
長い独りきりの生活の中に、ほんの一瞬だけ射した光に、けれど太夫は見て見ぬ振りを決め込まれたのでございます。
***
あくる日の朝のことでございました。
再び太夫の家の戸を叩くものがおりました。
不思議に思いつつも、太夫は戸口の雨戸をそっと開けて、外に立つ人物を窺い見たのでございます。
「ごめんください」
「あなたは……」
昨夜の男が再び立っておられました。
一瞬、胸の奥が熱く疼いたのは、おそらく病ゆえでございましょう。
男は、深々と頭を下げてから言いました。
「申し訳ありません。昨夜、あのような形で突然の訪問をしてしまったことの非礼は、この通り謹んでお詫び致します。ですが、どうしても貴女に聞いていただきたいことあるのです」
「あたくしに……聞いてほしいこと?」
太夫は首を傾げるよりほかありません。
「はい」
男はやんわりと笑んで言いました。
「一葉殿。どうか私と夫婦になってはもらえませぬか」
一葉太夫が驚いたのは言うまでもございません。
「も、申し訳ありませんが、今、何と……?」
尋ねる太夫に、男は真剣な面持ちで答えます。
「ですから、どうかわたしと夫婦になってはもらえませぬか?」
よろり、と倒れそうになる足を支えながら、太夫は男の顔を珍しいものでも見るように、しげしげと眺めました。
「め、夫婦、と申されましたか?」
男は、はい、と頷いた後、照れたようにそっと顔を伏せました。
「も、もちろんどこの誰とも分からぬ男に、突然このような申し出をされてお困りのこととは思います。で、ですが、私は……その……は、恥ずかしながら貴女がまだ新造として奉公していらっしゃた時分より、ずっとお慕い申し上げておりました。ああいえ、貴女のことですから、きっとそのような者、数え切れぬほどいらっしゃったこととは思います。ですが、私は……」
「も、もし?」
「わ、私は貴女が島原を去った後も、どうしても忘れることなど出来ず、このように」
「もし!」
男ははっとして面を上げました。
「あ、貴方様はあたくしと夫婦になりたいなどと申されておいでですか?」
「は、はい」
「いつ死ぬとも分からぬ病を抱えた女と?」
そこで男は、小さく笑んで首を横に振りました。
「いいえ。病を抱えた女とではありませぬ。貴女と、です」
呆れてものも言えぬ、とはまさにこのことでございました。
太夫は、それはそれは深い溜息を零されて、ぴしゃりと戸を閉めてしまわれたのでございました。
***
人の世の斯くも面白く美しいこと。
何一つとして同じものはなく、絶えず変化し揺れ動く。
さながら蜜を求める蝶のように、天を目指して羽ばたく雀のように。
くるりくるりと姿を代え、形を変えて流れ続ける。
己が求めるものを探して。
***
太夫が島原をお出になられてから、二つ目の季節が巡る頃でございました。
それは、国中が深い白の檻に包まれる時、皆が我が家に潜み来るべき陽光麗らかな日々を今か今かと待ち構える時分にございます。
太夫は、喉の渇きを覚えて水を啜ろうと身体を起こされたのでございます。
ところが。
「ああ。何をしているんだい? そのようなこと、言ってくれれば私が」
そこには、太夫を懸命に看病するあの男の姿があったのでございます。
「一葉。あまり無理をしないで下さい」
男は傾いだ太夫の身体をそっと支えて、その美しい御髪の一房に口付けを落としました。
「ええ。御免なさい、貴方。けれど、此れしきの事、貴方の手を煩わせるほどもないと思ったのよ」
男は、小さな椀に一杯、水瓶に張った水を掬って太夫に渡しました。
「そのようなこと。お前が気にする必要などないのだよ」
男は幸せそうに笑んで言いました。
そのあまりに穏やかな笑顔につられて、太夫もついつい微笑んでおられました。
それは太夫にとって、とても幸せな一時でございました。
ゴボリ、と肺を破るようにして口から溢れる真紅の一塊さえなければ。
「一葉。さあ、もう横になって」
男の力強くも優しい手に支えられて、太夫は咳き込む胸を撫で付けながら床へと入られました。
「ああ貴方。あたくしは何と幸せなのでしょう。けれど、同時に何と罪深いことでしょう。己が望みのためにこのような不浄の身体を貴方の前に晒していることが、あたくしはとても恥ずかしい」
「不浄の身体などと。そんなことはないよ。私はね、お前の傍らにいられるだけで幸せなんだよ。一葉、お前が私の手を取ってくれたことを私は何よりも嬉しく思う」
男はうっすらと涙を浮かべる太夫の目尻を撫ぜるようにして拭いました。
真実夫婦となられたお二人のそれはそれは幸せな一時でございました。
***
雪に覆われた銀白の季節が終わろうとする頃、それは突然に訪れたのでございました。
太夫は眼前に横たわる男の顔を見つめながら、誰にともなく静かに涙を流されました。
太夫の肺に巣食った恐ろしい病魔の猛威は、太夫御自身の御身体のみでは飽き足らず、ご夫君の身体さえもその毒牙に晒したのでございます。
「どうして貴方が……」
太夫の嘆きは如何ほどのものであったでしょう。
先に病に侵されていた太夫よりも先に、御亭主様の方が御逝去されてしまわれたのですから。
「ああ貴方……」
太夫の流す涙が男の頬を伝い零れ落ち、たちまち寝床を濡らしました。
一葉、お前が気にすることはないのだよ、と、そう男が囁いてくれることは、もう二度とございません。
太夫は、男の胸元に伏して悲嘆に泣き崩れながらも、溢れそうになる最後の最期の言葉を飲み込みました。
「貴方、愛しい人。どうか、どうか一緒に逝くことの出来ないあたくしを赦して下さいまし……どうか……」
思えば太夫と男の蜜月の、何と短かったことか。
なれど、それはお二人にとって決して無駄ではなかったのだと、太夫の御身体の内に宿る、新たな命が告げるのでございました。
***
さて。
これでこの、美しい朱色の月に出会われた男女の物語は終わりにございます。
世間一般の見地では、決してお二人は幸せとは呼べなかったかもしれませぬ。
なれど、お二人は思い出という名のそれはそれは美しい宝物を手に入れたのでございます。
はて。
この話の続き、でございますか?
さあ。どうでしょう。
もともと一葉太夫は肺病に蝕まれておられましたからねぇ。
子どもを産む前に亡くなられたとも、その子どもの命と引き換えにして亡くなられたとも言われております。
どちらにしろ、太夫のお命はあまり長くはなかったことでございましょう。
はい?
お二人の御子、でございますか?
ほほ。それこそあたくしの知るところではございませぬ。
まあ、あの一葉太夫の御子でございましたから、それはそれは美しく育ったことでしょう。
どこかの大旦那様に見初められてお嫁入りしたとも、琵琶を片手に気ままに旅をしているとも聞いておりますが、真実はさて如何に。
では、お客人。
今宵はあたくしのつまらない唄をご清聴下さり、有り難うございました。
どこかでまたあたくしを見かけましたら、その時は是非お声をおかけ下さいまし。
それではまた、何れの時にか。