表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

栄光の喪失

月は未だ出ず (第一稿)

作者: 雨宮吾子

 月は未だ出ず、夜は未だ若かった。

 細雪の敷きつめられた道を、男と女が連れ立って歩いていた。時刻はどのくらいだろうか。男は月の位置からまだ夜の若いことを知ったが、辺りは奇妙なくらいに静かだった。

 街灯の光が点々と続いている。空はずっと暗いのに、行く先は明るく照らされているのだ。

 最も奇妙なことは、いつからこうして歩いているのか、どうして女と歩いているのか、まるで見当がつかないことだった。冷たい空気に頭は冴えているし、足どりも確かで酔っているという感じもない。それなのに記憶はない。

「ああ、寒い」

 白い吐息が漏れる。その僅かな熱に色の冷めた手をやり、気持ちだけでも温める。黒いコートの下には二枚の重ね着をしているが、それでも足りないようだった。手袋もマフラーもない。

 足音が左右のコンクリート塀に反響する。その重なり合う和音で、背後に女がいることを思い出す。女は丈の長い赤いコートを着ていた。おっかなびっくりといった様子で薄い雪の道を、慎重に歩いている。そのあまりに真剣な面持ちに、有とも無ともつかぬものを見た。

「寒くはないか」

「寒くはありませんわ」

 女は笑顔ともいえない笑いを浮かべ、それでいて目を合わせようとはしなかった。不思議な女だと、思わずにはいられなかった。女のことをまるで知らない男は、それを無邪気とするか狂気とするか、判断に迷った。

 再び女を振り向いて、その容姿を見直した。白雪のような肌と赤いコートの対比に強い印象を受ける。繊細さと豪胆さとが同居しているのではないか。とにかく細く、背丈も低くはない。すらりとした指先に目を転じると、そこに人の終極点、すなわち虚無を見たかのような居心地の悪さがあった。

「きみの名前は?」

「あら、必要ありませんわ」

「どうして」

「この世界に貴方と私、二人しかおりませんもの」

 酔っているのではないか、男はそう直感した。

 相変わらず女は足下を見てばかりでよく確認はできなかったが、顔に赤らんだ色はなく、表情も確かなものである。足どりの危ういのは雪に慣れていないためか。歩調を緩めて傍に寄ってみても、酒の匂いはまるでない。それもそうだ、自分も酔っていないのだから、と男は思った。

 ではどうしたらいいのだろう。いつまでも歩いているというわけにもいかない。ここはどこだ、電柱に書かれた住所を確認する。すると、自宅に近いことが分かった。十五分も歩けば、暖かい我が家に帰りつく。女を誘ってみてはどうだろう。

「家へ来ないか。火に身体を捧げて骨を温めるんだ」

「まあ、恐ろしい」

「冗談だよ。だが寒いだろう、このままでは」

 女は返事もせず、ひたすら歩くことを楽しんでいるようだった。それが不意に顔をこちらへ向けると、表情のない顔でこう言ったのだ。

「参りましょう」

 その言葉の平坦な調子に男は驚かされた。男は勝手に、快楽の音色を内耳に聞いていたのだ。その音色はより豊潤になっていくようだった。目を合わせた女の美しさに、男はもう卒倒してしまいそうになった。

 女は無為であるように見え、無邪気であるように見えたが、全ての要素が一つの統一的な連動を生みだし、ひどく美しく有り難い存在のように思わせた。

 男は急に逃げ出したい気分に襲われた。目の前の女の存在に、一種の畏れのようなものを感じてしまったのだ。

「ああ、行こう」

 言葉は思考に逆らって、身体を女に寄り添わせた。女は今まで歩行を楽しんでいたのを放棄して、ごく自然な仕草で男に身体を寄せた。その触れるか触れないかというところで身を引くのが、無為なようにも有為なようにも思われた。




 どこをどう通ったのか、男はまるで覚えていないが、気づいたときには家の鍵を開けるところだった。女は影のようについて来る。しなだれた無垢の指先に、男は象牙の夢を見た。かちり、かちりと世界は回っている。

 玄関を開ける。砂のように細やかな雪が家内に流れこむ。男は女の手をとり、扉の向こう側へと導いた。思案の末に和室を使うことにした。居間から持ちこんだ石油ストーブに点火する。虚ろな炎に華やかな感情が湧き上がる。

「どうだね、風情はないが暖かいだろう」

「ええ、まったく」

 女は初めて芯の通ったような笑い声を上げた。不如意な女を操る愉しみを男は知った。

 二人は外套を脱ぎ、小さなストーブの前に座った。素朴でいながら、いかにも俗悪な風景だった。欲望をたぎらせる男と無為な女とが、ささやかな炎に身体を寄せ合う。これが本当にただの風景であったなら、まだ清らかでいられたかもしれない。

「名前はないと言ったね」

「ええ、ありませんわ」

「では名前を付けてやろう。そうだね、雪子というのはどうだろう」

「あら、ふふふ」

 男は愚直であることに長けていた。それは作られた、ごく自然な素振りだった。

 女の手は炎に透き通っていた。赤々と映える細腕は、却って死を連想させるようだった。その肉の深奥にある骨はさぞかし綺麗なことだろう。男は衝動に駆られた。骨を見るには、女を一人殺せば足りる。

 と、双眸の射ぬく強さに肉が弾かれたかのように、女は男の瞳を見つめた。覗きこむ女の瞳は澄んでいた。

「骨はございませんわ」

「何故」

「あちらに置いてまいりました」

「あちら?」

「ええ、黒い河の向こう側ですわ」

 女が男の手をとった。汗ばんだ掌を開き、指でなぞって文字を示した。即ち、赤の一文字。女はその手を男の口にやって、その文字を飲み込ませた。機械仕掛けのような、乱れのない動きだった。

 男にはある光景がはっきりと了解できた。長く横たわる黒い河の向こう側、真っ白な骨が赤く染まっていく様子を。

 その永遠のような忘我を解いたのは、やはり女だった。男が我に返ると、女は外套を着込んだところだった。

「夜が明けては困ります。私はこれで」

「雪子、きみは……」

 女は去った。小さな吐息のような冷たい風が、男の胸を抉って四散した。男は意味を成さない雪子という名前を、いつまでも口の中で呟いた。




 今夜はもう月を見られそうになかった。天空の一点に輝く嘘のような純粋な光を、女はこよなく愛しているというのに。

 女はあてどなく彷徨した。穏やかに流れる小川を渡り、しめやかに屹立する木々を抜け、大きな空き地に辿りついた。雪に覆われて何も分からなかった。見渡す限り、何もない場所。静止した世界の中で動いているのは、女ただ一人だった。

 女は儀式の準備をするかのように厳かな面持ちで地面に寝そべった。空は厚い雲に覆われているが、ここが夜であることに違いはなかった。

 女は目を閉じる。息を止める。心の鼓動すら聞こえなくなってしまった。


 女は対岸のごく僅かな、ある一点にのみ存在する単純な世界へと帰っていった。身体を撫でる細雪に女の身体は溶けていく。長い時間をかけ、夜の最も深い場所で、ついに溶けきってしまった。女の持ち物はただひとつ、黄金に輝く指環だった。月の光に照らされるのを待っているかのように、そして奇跡のように、指輪は存在していた。

 月は未だ出ず、夜は未だ若かった……

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ