『出せない理由』
「もう終わりにしよう。」
夫のその言葉で、夫婦は離婚を決めた。
話し合い、財産分与も済み、別々に住む場所も決まった。
あとは、
離婚届を役所へ出すだけ。
なのに、妻はなかなか、
首を縦に振らなかった。
「今日はやめよう。」
「もう少し考えたい。」
「今月は忙しいから。」
理由は毎回違う。
夫は不思議だった。
「まだ好きなのか?」
そう思ったこともあった。
だが、違った。
妻は夫を愛していたわけではない。
夫が誰と食事をしているかは気にならない。
帰りが遅くても興味はない。
笑っていても、泣いていても、どうでもいい。
それでも離婚届だけは出したくなかった。
理由はただ一つ。
「夫に捨てられた女」に、なりたくなかった、から。
妻にとって、夫は愛する相手ではなかったが、自分の人生が失敗ではないと証明するための、大事な看板だった。
その看板を外せば、見たくない現実までよく見えてしまう。
だから判子が押せなかった。
夫は静かに待った。
焦らず、怒らず、生活を淡々と整えていった。
数か月後。
ようやく、提出できた離婚届。
役所の受付で妻は、胸が締めつけられるような気持ちになった。
夫はすでに、新しい人生を歩き始めていた。
趣味を楽しみ、笑い、穏やかに暮らしていた。
一方、妻は何度も戸籍を見返す。
提出を遅らせていれば、夫の中できっと何かが変わると期待していた。
だが、時間を止めていたのは、自分だけだった。
判子を押さなかった数か月は、夫を引き止めるための時間にはならなかった。
自分の人生を前に進める機会を、先送りしていただけの時間だった。
愛はなかった。
未練もなかった。
最後まで手放せなかったのは、自分のプライドだった。
そして皮肉なことに、そのプライドが、これからも、誰より彼女を過去へと縛りつけ続けるだろう。




