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『出せない理由』

作者: ミオ
掲載日:2026/07/29

「もう終わりにしよう。」


夫のその言葉で、夫婦は離婚を決めた。


話し合い、財産分与も済み、別々に住む場所も決まった。

あとは、

離婚届を役所へ出すだけ。


なのに、妻はなかなか、

首を縦に振らなかった。


「今日はやめよう。」

「もう少し考えたい。」

「今月は忙しいから。」


理由は毎回違う。


夫は不思議だった。


「まだ好きなのか?」


そう思ったこともあった。


だが、違った。


妻は夫を愛していたわけではない。


夫が誰と食事をしているかは気にならない。

帰りが遅くても興味はない。

笑っていても、泣いていても、どうでもいい。


それでも離婚届だけは出したくなかった。


理由はただ一つ。


「夫に捨てられた女」に、なりたくなかった、から。


妻にとって、夫は愛する相手ではなかったが、自分の人生が失敗ではないと証明するための、大事な看板だった。


その看板を外せば、見たくない現実までよく見えてしまう。


だから判子が押せなかった。


夫は静かに待った。


焦らず、怒らず、生活を淡々と整えていった。




数か月後。


ようやく、提出できた離婚届。


役所の受付で妻は、胸が締めつけられるような気持ちになった。


夫はすでに、新しい人生を歩き始めていた。


趣味を楽しみ、笑い、穏やかに暮らしていた。


一方、妻は何度も戸籍を見返す。


提出を遅らせていれば、夫の中できっと何かが変わると期待していた。


だが、時間を止めていたのは、自分だけだった。


判子を押さなかった数か月は、夫を引き止めるための時間にはならなかった。


自分の人生を前に進める機会を、先送りしていただけの時間だった。


愛はなかった。


未練もなかった。


最後まで手放せなかったのは、自分のプライドだった。


そして皮肉なことに、そのプライドが、これからも、誰より彼女を過去へと縛りつけ続けるだろう。

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