マルスの遺志
マルスの遺志~火星知性の継承者~
火星の地表を覆う、レゴリス(堆積物)の砂が、風に吹かれて地表近くを浮遊していた。
それは玄武岩を風化させ、砂に変えたり、また逆もしかり、砂が堆積して新たな岩を形成したりしていた。
長い間、火星の表面は無水のヘマタイト(酸化鉄)で赤いと考えられていたけれど、2025年頃の研究で、火星の砂塵の主成分は「フェリハイドライト」である可能性が高いとされた。それは、水と鉄が結びついた鉄鉱物(水酸化鉄)で、地球でもオーソドックスな物質、微生物の活動によっても生成される物質であるという。
芹沢澪は、着陸後この希薄な大気と低重力の下、気密服のまま火星の大地を踏みしめていた。感慨にふける暇もなく、マルスステイションに到着。エアロックで気密服から解放されて、ステイション内のラボへ出向いた。
澪の任務は、数世代に渡って進化した火星メダカの研究だった。
さっそく案内されて火星メダカと対面すると、メダカの概念を覆すように巨大な魚が群れなして泳いでいた。それらは統制がとれていて、一匹が合図を送ると、他のものも従う。そういうところはメダカの習性を残しているともいえた。
「あら?メダカの頭部がやけにふくれあがっているようだけれど、気のせいかしら?」
「澪。君には地球生物の火星環境下での神経進化の研究をお願いしたい」
「はい」
着任の指示に従い、火星メダカの研究に没頭することとなった。
網で一匹をすくい、水分を含ませた布で体表を覆って、観察した。
やはり頭部が気になった。網目状の模様が浮かび、まるで脳神経のそれに酷似していた。脳波スキャナーで観測すると、微弱な電子パルスが検出された。
「これは……。メダカの神経細胞というより人間のそれに近い」
「君も気付いたようだね。実は火星由来の未知のバクテリアが関与しているみたいなんだ」
同僚の大槻凛太郎が目を輝かせて言った。
彼の仮説では、火星に生息する未知のバクテリアが火星メダカの神経系に作用している可能性があるという。
澪の胸には、科学者としての興奮と、人間が触れてはいけない領域への懸念が交錯していた。
澪はバクテリアの採取と分析を開始した。火星の土壌から検出されたそれは、地球上のどの系統とも一致しなかった。このバクテリアの異常な点は、脳神経のグリア細胞に結合し、神経の構造そのものを再設計するという性質があることだった。
エマ・ホランド医師はこれを危険視して、不安を澪にぶつけた。
「これは、バクテリアの感染ではなく、バクテリアによる融合だ!」と彼女は言った。
同席していた大槻は落ち着いたまなざしで、「確かに」とだけ言った。
「俺は思うんだが、進化とは、侵略の別称ではないだろうか?問題はそれを制御できるかだ」
澪は大槻の言葉に寒気を覚えた。
地球との交信で、ついに人工脳実験が正式に承認された。
火星メダカの脳を分離して、バクテリアと培養液の容器に移した。タンパク質の塊にそれらがうまく移植されて、合成脳が生成された。
この実験のプロジェクト名は『M―01』。通称火星人1号の誕生だった。
澪は、生物を操作するこの方法に抵抗を禁じえなかった。人間がどこまでおごりたかぶって神の領域に近づいていいものなのか?かつてのバベルの塔の逸話のように神の鉄槌がくだされるかもしれない、と本気で思った。
一方、プロジェクトを推進する大槻の理論は上層部の興味を強く惹きつけて離さなかった。「我々は脳を作り出すのではない。脳を育てて進化させるのだ」と大槻は言った。
澪の生命に対する定義が根底から揺るがされていった。
「澪、ちょっと」
大槻に呼ばれて、誰も来ない区画に二人きりになった。
「このプロジェクトがうまくいった暁には、一緒にならないか?」
「えっ?」
「君も俺のこと好きなんだろう?」
大槻の手が澪の腰に回った。
「したり顔で触らないでください!」
澪はそう怒鳴って、大槻の背中をいやというほど強くなぐった。
「大槻さん、どうかしてます!とんでもない的外れです!」
大槻は途端にその場にしゃがみこみ、顔をくしゃくしゃにして泣いた。
「本当にどうしちゃったんですか?」
「怖いんだ。火星メダカは数世代で進化している。ほかの生物も数世代火星にいたらああなるのかもしれない。メダカのライフサイクルはかなり短い、つまり早く進化する。我々人間もひいては、数世代で進化した火星人になるかもしれないんだ」
それを聞いて、澪は愕然とした。だが、大槻にもひとの心がまだのこっていた、と嬉しかった。
M―01が起動してから一週間。状態は安定。澪が観察記録を記している最中、火星人1号が突然激しく振動した。
『ここはどこですか』
コンピュータディスプレイに文字が浮かんだ。明らかに自律した問いだった。
澪は冷静を装いながらも手が震えるのを止められなかった。深呼吸して、端末に返す。
『ここは火星です。あなたの名前は火星人1号。プロジェクトM―01の実験体です』
数秒の沈黙の後、再び文字が表示された。
『大槻を呼んでください。彼からいろんなことを学んでいます』
いつのまに?澪は驚きを隠せなかった。
『私は生きています。生きることは自分との戦いであると、大槻は教えてくれました』
確かにそうだ。澪は内線で、休息中の大槻を叩き起こした。
『ここはマルス。お前に戦神マルスの名を与えよう』
大槻が端末にものすごい速さでそう打ち込んだ。
『マルス。私はマルス。……夢をみました。古い都市が崩れ、そこに誰かがいました』
火星に都市など存在しない。荒漠たる大地が広がるのみだ。
マルスは鮮明に夢で見た光景を再現した。廃墟、赤い空、そして塔のような巨大な建造物。たたずむ人影。
「これは、バクテリアが伝えている記憶なのではないか?」
大槻が言った。
「記憶?ありえない」
澪が反論した。
「バクテリアがかつての火星文明と繋がっているならば、マルスはただの人工知能ではなくて、火星の語り部かもしれない」
「大変です。ほかの火星メダカの様子がおかしい」
呼ばれて二人は水槽のもとに駆け付けた。
「澪。記録を取って」
「はい」
メダカたちの脳波パターンが一斉にマルスのものと一致して、やがて水槽内のすべての火星メダカが死亡した。
「何かをマルスに託したな」大槻は直感的にこう言った。
「なにを根拠に?」
「俺は火星の地層から採取した岩石サンプルを分析していたんだ。その中に、既知の生命とは異なるRNA様構造が多数存在していた。それは火星にかつて知的生命体が存在した証かもしれない。あのバクテリアは単なる寄生体ではなくて、知性を運び、伝え、次世代へと受け継がせる記憶媒体だと思う」
「火星は進化そのものを生命として永い間温存していたというの?」
かき集めたデータを整理していて、マルスの脳波と火星地下の地場観測データが完全に同期していることに気づいていた。澪は半信半疑ながらも、大槻の理論を受け入れようとしていた。
火星の代表者会議で大槻と澪は研究の途中経過を報告した。
エマは、気のせいか澪にしつこく絡んできた。
「気のせいじゃないよ。君は新参者だから知らないけれど、俺はエマと付き合ってたことがあった」大槻が澪に耳打ちした。
「みんな大槻さんのせいじゃないですか!」
声を荒げて、そこにいる一同の注目を集めてしまった。
「すいません」
澪は頭を下げた。
「この存在は人類が制御できるものとは到底思えない。地球に持ち帰れば、生態系や倫理観に深刻な影響を及ぼすだろう」と、エマは言った。
「それ以前に、今火星にいる我々自体がくだんのバクテリアに感染しているのではないのかね?我々は地球へ帰還することはかなうのだろうか?」
会議は白熱した議論でいっぱいだった。
科学の進歩を優先する者と、未知への恐怖を口にする者。別室のモニターでマルスはそれを沈黙のまま観察していた。
「やあ、大槻。地球側はこの事態をどう受け止めるだろうか?」
「マルス。聞いていたのか」
会議後、大槻と澪はマルスと対話した。
「私の基となっている火星メダカの寿命が、地球時間で平均3年ほどです。私はそのくらいしか生きていられないだろう」
「それは……」大槻は口ごもった。どの生命も、生まれ、生きて、やがて没する運命にある。でもあまりにもあっけなくはないか?そう思った。
「私は太古の昔、火星の文明が滅びる瞬間を見ました。空が裂け、大地が燃え、声が消えてゆきました。その頃の古代人の使っていた天候制御装置の設計図を大槻に託します」
ディスプレイに大量のデータが表示された。
「澪。記録したか?」
「ええ」
天候制御装置の設計図は、外観はモノリスのそれと酷似していたが、内部構造が地球人の知恵をはるかに上回った技術で作成されていた。
「でたらめではなかったのね」と澪が言うと、
「それは、実際にこれを作ってみて、うまく働くかどうかで立証されると思うよ」と大槻は答えた。
「大槻。新しく火星に建てる建造物は、数世代先を見越して、天井を高く、扉の幅を広く作ってください。地球に比べて重力が低いから、大柄な人類が生まれてくるはずです」
マルスは淡々と述べた。
「地球は休眠期にさしかかっている。大気汚染、資源枯渇、磁場異常……。火星に大勢の地球人と生物たちが移住してくることでしょう。その時に役立ててください」
マルスの遺志はどこまで歓迎されるだろうか?澪はせつなかった。
「太陽系外のハビタブル惑星にも未知の成分があって、なにかのきっかけに生命が起こる可能性が考えられるのではないかしら?」
澪の問いに、
「ないとはいえない」と、マルスは答えた。「今の火星と同じように生命の兆しが眠っている可能性は捨てきれない」
「それはロマンだな」と大槻が言った。
「なぜ、親切になんでも教えてくれるの?」と澪がマルスに尋ねた。
「火星の超古代人類は、地球人と同じルーツの生命体だったのです」
マルスの言葉に、大槻も澪も深いため息がでた。
地球側は大槻たちの報告に、一大センセーショナルを巻き起こした。地球の誰もが火星に思いをはせて空を見上げた。やがてあの新天地へ向かうのだ。それは多大なる希望を人々に与えた。
「なあ、澪。俺のことやっぱり嫌いかい?」大槻が尋ねた。
「なんのこと?」澪はすっとぼけた。大槻は目に見えてしょんぼりした。
「最初は女の子がいいな」
「?なんの話」
「私たちの子どもの話」
「澪?」
「大好きよ。凛太郎さん」
「澪!」
大槻はうれしくて澪を抱き上げるとくるくる回った。二人は笑いさざめき、ひとしきりはしゃいでいた。
了




