9、家族との再会
夜会は夜中過ぎまで続き、まだ当分終わりそうになかったが、エリーゼは頃合いを見計らってギルベルトと共に失礼させてもらった。
「――まるで魂が抜けたように疲れ果てているな」
オルバース家へ帰る途中の馬車の中。
座席にもたれかかっているエリーゼを見て、ギルベルトがくくっと笑いを零した。
「ええ。とても疲れました……」
自分でも慣れないことをしたという自覚があり、身体がすぐに熱い湯に浸かりたい、いや今すぐに寝台に飛び込みたいと訴えている。
「ギルベルト……わたし、上手くやれたでしょうか」
「上出来だ」
向かいに座っていたギルベルトが隣に移動してくると、エリーゼを自分の方へ抱き寄せた。安心する温もりに、エリーゼはそのまま身を委ねる。
「正直、お前があそこまで話術に長けているとは思っていなかった」
「話術……と言っていいかはわかりませんが、真実を伝える形で、王家が流している噂を払拭できればいいなとは思いました」
王家からすると、エリーゼがローデリカの想い人に横恋慕して無理矢理奪った話にしたいのだろうが、それではエリーゼの評判が下がる。何より真実ではない。
「辛くなかったか」
「ちっとも。何なら、元婚約者の名前が出てこなくて、焦りましたわ」
それくらい、もう遠い出来事になっている。
「だから、大丈夫です。これで、上手くいくとは思いませんけれど……わたしが今想っているのはギルベルトだということは、きちんと伝えていきたいです」
エリーゼは甘えるようにギルベルトの肩に頭を乗せて、小さな声でそう述べた。ギルベルトはエリーゼの左手を自分の手と絡めて、印に熱を与えるようにぎゅっと握りしめた。
「ああ。俺も、もっとお前が好きだと伝えよう」
その言葉は眠ってしまったエリーゼの耳には届かなかったが、ギルベルトは愛おしそうに婚約者の寝顔を見つめるのだった。
それからもエリーゼはギルベルトと共に夜会に参加した。ギルベルトとの仲を見せつけ、彼との出会いを惚気て、今自分がとても幸せであることを全身でアピールした。
その結果、姉のローデリカに我儘ばかり言って、姉の婚約者を無理矢理奪い、果ては狂人になってしまったという悪評は何かの誤解だったと訂正しつつあるように思う。
少なくとも、エリーゼが接する人々の周りでは。
「こんなにギルベルト様のことを愛していらっしゃるのですもの」
「ええ。それにエリーゼ様の私たちへの接し方を見ていると、とても我儘な王女だったとは思えませんわ」
「いったいどうしてあんな噂が出回ったのかしらね」
人々は不思議だ、と逆に噂するようになった。
(この調子でいけば、大丈夫かしら……)
エリーゼがそう思い始めた頃。
『――ギルベルト様! お、王家から手紙が届いております!』
バゼルがぴゅーんとギルベルトの隣に飛んできて、銀のトレーに乗せられた封書を差し出した。緊張しているせいか、カタカタと震えている。ペーパーナイフもきちんと用意されており、ギルベルトは封をサッと切り、中の手紙に目を通した。
「……どうやらようやくあちらにまで話が届いたようだ。一度王家へ登城するよう書かれてある」
「では、いよいよなのですね!」
父や姉たちにギルベルトのことを紹介する日が来た。
そして、ずっと行方をくらませていたことに対する説明も行うのだ。
「わたしが勝手に離宮を抜け出して、街へ出たところ、偶然王都に来ていたギルベルトに保護してもらった、と説明して、公には、夜会で話した通り、オルバース領で療養していたことにする……と決めましたが、正直不安です」
指摘されたらどうしよう……と浮かない顔をするエリーゼに、マルガが大丈夫ですよと安心させるように言った。
「そもそも落ち度は王家の方にあるのです。正常なエリーゼ様を無理矢理監禁して幽閉しようとした。世間に知られれば、責められるのはあちらに決まっているんですから、エリーゼ様の話に乗るしかありません」
「そう、よね……」
それでもエリーゼは、父や姉たちが自分の話を否定するのではないかと、本当は狂人になった出来損ないの王女だと大勢の前で糾弾するのではないかと、怖くてたまらない。
「エリーゼ」
震える手をいつの間にかギルベルトに取られて、唇に寄せられていた。
「安心しろ。お前を悪し様に言うやつは俺やこの城に仕える全員が許さない」
「ギルベルト……」
「そうです! エリーゼ様を馬鹿にするやつらは許しません!」
『マルガ殿に賛成!』
『エリーゼ様、どうか恐れず、堂々と立ち向かってください!』
「みんな、お前の味方だ」
「みんな、わたしの味方……」
自分はもう一人ぼっちではない。帰って来る居場所があるのだと思い、エリーゼは涙を流していた。
「ありがとう、みんな。わたし、堂々とギルベルトの婚約者だって王家に報告してきます!」
そして正式に婚姻を認めてもらうのだ。決意を固めたエリーゼの姿を、ギルベルトやマルガ、幽霊たちはみな、微笑ましそうに見つめるのだった。
◆ ◆ ◆
王宮の一室。プラチナブロンドの髪に青色の目をした女性――エリーゼの姉であるローデリカが神妙な面持ちで目を瞑っている男性に話しかけた。
「お父様。エリーゼがオルバース公爵と一緒にいるというのは本当ですか?」
父親である国王はゆっくりと目を開けて、そのようだと額を押さえながら答えた。
「貴族たちから報告が上がったので調べさせたところ、エリーゼで間違いないようだ」
「そんな……」
幽閉するはずだった妹がある日忽然と姿をくらませた。父は外部にばれないよう密かにずっと探させていたのだが、まさかオルバース公爵に保護されているとは、しかも婚約者を名乗り上げているとは……ローデリカも侍女から噂を聞いた時は驚いた。
「エリーゼが勝手にそう思い込んでいる可能性はありませんの?」
「私も疑ったのだが、オルバース公爵……ギルベルトから手紙が返ってきた内容を見る限り、本当のようだ」
「オルバース卿は騙されているのではございませんか」
もしくはエリーゼが何か幻術を使ったのではないか。……妹がそんな狡猾で器用な真似できるはずがないと知りながら、ローデリカは痛ましい表情でそう述べた。
「そうかもしれん。なにせあの娘は私の大事なドロテアの命を奪っていったのだから」
「お父様……実はわたくし、見てしまったのです」
「何を見たのだ」
「エリーゼが姿を消した日。地下室で悪魔を召喚する儀式がなされていたようなのです」
「何、悪魔だと!?」
ローデリカはその先を続けるのが辛いという顔を作りながら、言葉を紡いだ。
「わたくしも、到底信じられません。ですがあの子は、わたくしも知らぬ間に少しずつ狂っていって、気づけば取り返しのつかぬほど、心を病んでしまっていたのです。幽閉される未来からどうにか逃げ出したくて、禁忌に手を染めてしまったのではないでしょうか」
「それで、悪魔の手を借りたと?」
「ええ。きっと悪魔は、オルバース卿を懐柔して、エリーゼを保護するよう心を操ったのでございましょう」
「おお、何と愚かな娘なのだ……!」
ローデリカは別に本気で悪魔が存在するとも、そんなことができる力があるとも思っていない。ただエリーゼがとんでもない悪女だと父が思い込んでくれればそれでよかった。
「私はいったいどうすればいいのだ」
「お父様。ここはお辛いかもしれませんが、いったん騙された振りをして、ギルベルトとエリーゼを王宮へ呼びましょう」
「それで、どうするというのだ」
ローデリカはにっこりと微笑んだ。
「オルバース卿の目を覚まさせ、エリーゼにも正気を取り戻してもらうのです」
妹が幸せになるなど、ローデリカは絶対に認めない。
(エリーゼ。あなたにはずっと、ずっと、わたくしより惨めな存在でいてほしいの)
そうでなければ、自分はこの世で一番に輝かない。だから――
「禁忌に手を染めた王女は、もうお父様の娘ではありません。いいえ、最後の情として、魔女となった娘を断罪するのです」
もう一度エリーゼには地獄に堕ちてもらおう。
◆ ◆ ◆
「みんな。お留守番、お願いしますね」
王都へ向けて出立する当日。エリーゼはマルガや幽霊たちに別れの挨拶をする。
「エリーゼ様。やはり私もお供した方がいいと思います」
マルガが昨夜と今朝言ったことをもう一度繰り返す。
ギルベルトがついているとはいえ、敵地へエリーゼを送るには不安が尽きないのだろう。
「夜に舞踏会が開かれるのでしょう? 他にもエリーゼ様のご支度を整えるのに、慣れた者が必要なはずですわ」
「向こうで手配してくれるそうだから大丈夫よ」
「でも……」
「マルガ。わたしは大丈夫。手紙でのやり取りでは、お父様たちもわたしとギルベルトを歓迎してくれるようだから」
「そんなの……実際にお会いしたら、辛辣な言葉をかけられるかもしれません。笑顔でエリーゼ様を傷つけるようなことをおっしゃるかもしれないし……信用できません」
「ありがとう、マルガ。でもね、わたしもこう見えてけっこう成長したと思うの」
夜会での経験を重ねたお陰で、びくびくせずに人と接することができるようになった。多少の毒を吐かれたくらいでは、もう絶望したりしない。
(わたしは何を言われたって構いやしないわ。でも、マルガがそういうふうに言われるのは絶対に嫌)
王侯貴族は身分にこだわる生き物なので、裕福な家とはいえ貴族ではないマルガのこともいろいろ難癖をつけて嘲笑するはずだ。マルガは気にしないかもしれないが、エリーゼは自分が言われること以上に腹が立って暴れてしまうかもしれない。
そういう意味でも、今回マルガには留守番していてほしいのだ。
「無事に帰って来るから、どうか待っていて」
マルガにお帰りなさい、と言ってもらいたい。
そう伝えれば、マルガは仕方がないという顔をして微笑んでくれた。
「わかりました。みなさんとお帰りをお待ちしております」
『坊ちゃま、エリーゼ様。どうかくれぐれもお気をつけて』
『コックたちと簡単な軽食を作りましたら、途中で召し上がってください』
『気を付けていってらっしゃい』
エリーゼは微笑んで、行ってきますと馬車に乗り込んだ。
今回は怪しまれるような行動は控えるため、悪魔の力を使わず、途中宿に泊まりながら時間をかけて王都へ向かう。
「……面倒だな」
「もう、ギルベルト。そんなこと言わないでくださいよ」
二日目の馬車の中。ギルベルトが億劫そうに窓の外を見ながら愚痴を零した。
「いっそクリークたちに乗って派手に登場してやったらどうだ」
「そんなことしたら、みんな腰を抜かしてしまいます。……そもそも、クリークたちの姿は普通の方には見えないのでしょう?」
「俺が見えるようにしてやってもいい」
「いいです。そんなことに力を使わないでください」
つまらん、と不貞腐れるギルベルトを困ったようにエリーゼは見つめた。
「……わたしは、楽しいですよ。あなたと王都へ行くまで、二人きりになれて」
ギルベルトが目を真ん丸としてこちらを見てくるので、エリーゼは何を言っているのだろうと頬が熱くなった。
「なるほど。俺が間違っていたようだ」
(あ。まずいかも)
と思った時には遅く、ギルベルトは席を隣に移動してきて、エリーゼの指先を自分の手に絡ませた。
「宿で泊まる際の部屋は別々で物足りなく感じていたのだが、それはそれでロマンチック、というやつだな?」
「……ええ、そうです。あなたの婚約者でいられるのも、あと少しでしょうから」
父に婚姻を許してもらうまで。実際に許可を得ても、すぐに結婚するかはまだ話し合って決めるが、それでもそう長い期間かけることはないと思った。
「早く、お前を俺のものにしたい」
指先をなぞられ、低い声がエリーゼの鼓膜を震わせる。
「エリーゼ。お前はどうだ。お前も、早く俺を自分だけのものにしたいだろう?」
(どうしてギルベルトったらこんなに傲慢な物言いができるのかしら)
そしてどうして自分はそんな言い方にもときめいてしまうのだろう。
「エリーゼ。なぜ黙っている。お前は俺と同じ気持ちじゃないのか?」
エリーゼはギルベルトのことを異性として特別に想っているし、将来も一緒に歩みたいと望んでいる。しかしだからといって、彼が自分のものだとは考えていない。そんなふうに考えてはいけないという常識がエリーゼには備わっていた。
だがギルベルトの甘い問いかけに、掌の印を意味ありげになぞられて、抗い難い気持ちにさせられていく。
「わ、わたしも、あなたと同じ気持ちに決まっているじゃないですか!」
恥ずかしさからどこか怒ったように彼の顔を見て言えば、ギルベルトはにこっと笑った。
「そうか。それはよかった」
「~~っ、ギルベルト! あなたはわたしの父と会うというのに、緊張しないのですか!」
エリーゼは必死に平気な振りをしていても、王都へ刻々と近づいていることを意識して平静でいられないというのに。
「ちっとも」
「ちっとも、って……彼はこの国の国王なんですよ?」
エリーゼの父親だということを抜きにしても、国の最高権力者に対してもう少し畏れを抱いてほしい。
「俺には怖いものなどないからな」
「それは……ご自身が半分悪魔の血を引いているからですか?」
ギルベルトは目を細め、それもあると頷いた。
「だが、たとえ俺がただの人間だとしても、同じだったと思う」
「どうして?」
ギルベルトはエリーゼの腰を引き寄せ、大事な秘密を教えるように耳元で囁いた。
「どんなに偉ぶった人間でも、欲を持っているからだ。浅ましく、醜い欲望をな。そんな生き物を敬えと命じられたところで、馬鹿らしく思えてくるんだ」
◇ ◇ ◇
エリーゼとギルベルトは無事に王都へ入り、広大な敷地内を通って、王宮へ到着した。
ギルベルトの手を取って馬車から降り、控えていた従者の案内で国王のいるもとまで案内される。途中すれ違う貴族たちからは、声こそかけられなかったが、遠慮のない視線を容赦なく注がれた。
「まぁ。本当にエリーゼ様だわ」
「偽物ではなかったのか」
(みんな、わたしの顔は一応覚えているようね)
それもそうか、とも思う。
なにせいつかの舞踏会で盛大に主役にさせられたのだから。
(いいえ。主役ではなく、道化だったわね)
その時の自分の絶望が思い出されて、苦しいというより虚無感に襲われた。
「エリーゼ。後でお前の元婚約者を紹介してほしい」
元、という部分を強調して、藪から棒にギルベルトがお願いしてきた。
「なぜです?」
「決まっているだろう。お前がもう名前も覚えていない男の面がどんなものか確かめ、俺が今のお前の婚約者であることをはっきり突きつけるためだ。要は牽制だな」
エリーゼはポカンとしたのち、苦笑いした。
「牽制って、そんな必要ありませんよ」
「いいや、する。したい。絶対にしておく」
「したいって……」
まるで子どもみたいに我儘を言うギルベルトに、エリーゼは人の目があるというのについ笑ってしまった。ギルベルトが緊張をほぐしてくれたのだ、と遅れて気づいた時には衛兵が扉を開けた時だ。
(ああ……)
「エリーゼ。よく来てくれた」
エクスタイン国の国王であり、エリーゼの父マグヌスは、娘の姿を目に映すなり目を細めた。それは決して懐かしさや再会の喜びを感じさせるものではなく、忌まわしく不快なものを視界に入れてしまった反応だった。
(やっぱり、お父様は変わらないのね)
落胆が胸を襲うということは、自分はまだ何か期待していたのだろうか。
「その様子では、オルバース卿のもとで療養した甲斐があったな」
続けられた言葉にも、全身が震えそうになった。
「オルバース卿には本当に感謝している。これで生涯塔で暮らすことも、一人寂しく死んでいくこともないのだからな」
(どうしてそんなこと、そんな何もなかったような顔で言えるの?)
幽閉すると最終的に決めたのは父だった。言い出したのは姉であるが、父が認めないと言えば、きっと何かが変わったはずだ。
でも、父は結局姉の言う通りにした。
娘であるエリーゼが本当に幸せになれるか、そんなことこれっぽっちも考えずに決めた。
(どうして……)
突然いなくなった娘を、父は怒りもしない。ただ噂のまま、本当にそうであったかのようにエリーゼをオルバース領で療養させたことにしている。
こちらが願っていたことだが、こうもあっさりと進むと、父にとって自分は本当に興味のない存在なのだと突き付けられて、心が折れそうになった。
「もしエリーゼ様が幽閉されたとしても」
真っ黒に塗りつぶされそうになったエリーゼの心を、ギルベルトの声が食い止める。
「私がその塔の頂上から、彼女を救い出してみせます。いえ、攫って逃げますね」
救い出す、だとまるで悪者に閉じ込められたような意味合いに聞こえる。
この場合の悪者とはエリーゼの父に当たる。
「……ほぉ。頂上からとは。いったい卿はどうやってそこまで行くつもりなのだ。惨めに壁を這って登るのか? まるでトカゲや蜘蛛のように」
その場にいた側近たちが憚ることなく笑いを漏らす。
「まさか。大きな翼のある犬に乗って、窓から顔を出すのです」
ギルベルトはエリーゼをちらりと見る。その赤い瞳は悪戯っぽく輝いていた。
(ギルベルトったら)
クリークたちのことだ、と気づくのはエリーゼしかいない。
「ははは。陰険な男だと思っていたが、ずいぶんと想像力豊かな男なのだな」
「陛下。この世には、私もまだ知らぬことがたくさんあるのですよ。ええ、でもそうですね。もし私が本当に想像力豊かな人間ならば、犬ではなく、竜と答えましょう。口から炎を吹きかけて、姫を閉じ込めようとした人間を全員、骨も残らず焼き尽くすのです」
どうです? 面白いでしょう? とギルベルトは赤い目を細めた。
「っ……無礼だぞ!」
側近の一人がギルベルトの言葉の裏に隠された敵意を見抜き、声を荒らげた。
「無礼だと? それはお前の方だ。国王陛下と私の話に軽々しく入って来るな」
「っ……」
虫けらでも見るような目で冷淡にあしらわれ、恥辱のためか相手の顔が真っ赤になる。
「私の家臣が失礼した」
「いいえ、陛下のせいではございません。悪いのは、主の躾を忘れた、物覚えの悪い駄犬のせいですよ」
「き、貴様……」
「よさぬか。……オルバース卿も、あまり煽らないでやってくれ」
「ははっ。これは失敬。血気盛んな若者を見ると、どうしてもからかってやりたくなるのです」
自分も十分若く、何なら失言した相手よりずっと年下であることが一目でわかるというのに、ギルベルトは一歩も引かなかった。
これ以上この場にいると、さらに険悪な雰囲気が生まれかねない。
「あの、大変申し訳ないのですが、王都までの長旅で疲れてしまって、今日はここで一度失礼させて――」
「エリーゼ!」
エリーゼが退出を申し出ようとした時、扉がバンと開かれて、息せき切った女性が飛び込んできた。彼女の姿を目にした瞬間、エリーゼは固まる。
「ああ、会いたかったわ、わたくしの可愛い妹!」
ローデリカは涙ぐみながらエリーゼに抱き着いてきた。ふわりと甘く懐かしい香りが鼻腔を満たすと同時に、全身が粟立った。
「心配していたのよ。一日とて、あなたのことを忘れたことはなかったわ」
かつては姉であるローデリカに頬を優しく挟まれるのがたまらなく嬉しかった。
亡くなった母の温もりを感じられて、こんな自分の存在を気にかけてくれる人がいるのだと知って、幸せだった。でも今はただただ怖くて……。
「そこまでにしていただきたい」
呼吸するのも忘れて動けないエリーゼを、ギルベルトが腕をやや強引に引っ張り、自分の胸元へと押し付けた。ギルベルトの匂いに、エリーゼは金縛りが解けたような気がして、大きく胸を上下する。
「いくら姉君とはいえ、私の婚約者は誰にも触れさせたくないので」
「まぁ、あなたが、ギルベルト?」
馴れ馴れしい呼び方に、ギルベルトの眉根が寄る。エリーゼも胸がざわついた。
「あなたと私は初対面のはずですが?」
「ええ、そうですわ。でも、妹の婚約者なんですもの。わたくしの義弟ということになるでしょう?」
(義弟……)
何だかしっくりこないのは、姉のギルベルトに向ける眼差しが妙にぎらついているからだろうか。
(いえ、お姉様には愛する人がいるのだから……)
「失礼。では義理の姉として、もう少し距離を取ってくれると助かる」
ギルベルトはそう言って自ら一歩引く。気のせいか、姉の笑顔が引き攣ったように見えた。
「まぁ、ギルベルトは礼儀正しい方なのね。エリーゼ。こんな素敵な殿方があなたの婚約者だなんてお姉様、未だ信じられないわ。ぜひ二人の馴れ初めを知りたいわ。ああ、そうだ。イェルクのこと、覚えている? あなたの元婚約者もあなたに会いたがっているの。だからこの後、ぜひ四人で一緒にお茶でもしながらお話しましょう」
ギルベルトからエリーゼを標的にして、ローデリカは一切口を挟む隙を与えず一方的に事を進めようとした。
「えっと、お姉様。せっかくのお誘いですが、わたしたちは――」
「エリーゼ。ローデリカもお前のことをずっと心配していたのだ。いなかった間のことを教えてあげなさい」
父が姉に加勢するように言い放った。どこか突き放したようにも聞こえ、エリーゼは心がくじけそうになる。父はやはり自分よりもローデリカの意見を大事にするのだ。
この王宮に自分の味方など誰もいない。
「すまないが、エリーゼは私と部屋へ戻る。先ほどエリーゼが言いかけたとおり、慣れない馬車での移動でどちらも疲れ果ててしまったのでね。ああ、せっかくの夕食も、申し訳ないのですが部屋で食べますので、後で運んでくださると大変助かります」
では、と返答を聞かずギルベルトはエリーゼを抱き寄せたまま歩き出した。
「ちょっと待って。まだ話は――」
「ああ、それから私たちの出会いについて詳細を知りたいなら、噂好きの貴族たちから教えてもらうといい。あなた方が私と彼女をここへ呼ぶきっかけになった彼らに詳しく、ね。それで物足りないならば、後でレポートにしてまとめますので、それを読んでください」
とにかくわざわざ顔を見合わせて話す必要はない。そんなことしたくないといった態度でギルベルトは述べながら、扉の前に立ち塞がる衛兵たちにどくよう手で追い払った。
すると絶対に行かせまいと通せんぼしていた彼らがくるりと向きを変えて、どうぞと恭しい態度で扉を開いた。
「では三日後の舞踏会にて、私とエリーゼの仲を他の人間に紹介してくれることを楽しみにお待ちしております」
ギルベルトの笑みと共に扉がばたんと閉まった。
「――大丈夫か?」
案内された部屋で、エリーゼはギルベルトの隣でぼんやりと腰かけていた。
ギルベルトはだいぶ寛いだ様子で脚を組んで、紅茶などを優雅に味わっている。
「……ギルベルトって、すごいですね」
「今さらか?」
そう今さらである。エリーゼは力が抜けたようにへらりと笑った。
「以前から知っているつもりでしたが、今日、改めて実感しました。父や姉を恐れないで、あんなふうに丸め込んで……実に鮮やかな手際でした」
「ふふん。だろう」
褒められて満更でもなさそうなギルベルトを見て、エリーゼはようやく肩の力を抜くことができた気がした。そして改めて先ほどの呆気にとられた父や姉、他の貴族たちの顔が思い出されておかしくなる。
「ふふ。わたし、お父様やお姉様のあんな表情、初めて見ましたわ」
「お前が見ていないだけで、今まで何百回とやっているさ、あんな顔」
そうなのだろうか。だとしたらやっぱりおかしい。
「ギルベルト、ありがとうございます」
「何についてのお礼だ」
「いろいろ、です。尻込みしてしまったわたしに代わって、はっきり姉たちに言ってくれたことや、ここまで一緒に来てくれたことも、すべて……」
エリーゼはぽすんとギルベルトの肩に頭をのせると、目を瞑ってしみじみと呟いた。
「あなたが、わたしの婚約者で、本当によかった」
「……エリーゼ」
「はい」
返答がないので目を開けて、彼の方を見ると、何だかよくわからない難しい顔をしていた。嫌だったのだろうか。
(あっ、もしかして)
「あの! 決してわたしにとって利があるから嬉しいとかじゃなくて、あなたと一緒にいるだけで幸せというか、ですから、気持ちの面でも幸せで、むぅっ」
いきなりクッキーを口の中に突っ込まれて、エリーゼは口を押さえた。サクサクとした触感にほんのりチョコレートの味を美味しいと思いながら、いったいどうしたのかとそっぽを向くギルベルトを見る。
(えっ)
手の甲で隠しているものの、エリーゼの目はばっちりと捉えてしまった。彼の肌が赤くなっていることを。
「お前があんまり可愛いことを言うからだ……」
あのギルベルトが、今まで散々エリーゼを照れさせて、頬を赤くすることを楽しんでいた彼が、珍しく照れている!
(今すぐスケッチして残しておきたい!)
「おい。今とんでもなく恥じとなるようなこと思いついただろう」
「だってギルベルトが照れてくれるなんて、もう一生見られない気がしますもの」
「お前なぁ……ええい。もう見るな」
目まで隠そうとしてくるので、エリーゼはひょいひょいと避ける。そのうちギルベルトもムキになって、エリーゼを腕の中に捉えて、そのまま重心が崩れて――
「あ……」
気づけば長椅子で、彼に押し倒される格好となっていた。
互いの目を逸らせぬまま見つめ合って、鼻と鼻の先がぶつかりそうなほど近い距離だ。
(キス、されそう……)
ギルベルトの喉仏がごくりと上下する。してもいいかな、とエリーゼは目を瞑った。
ちゅ、と柔らかな感触が落ちたのは、唇ではなく頬だった。
「……そんな目をするな」
「だって」
「俺だって我慢しているんだ」
ギルベルトが首筋に顔を埋めてぼそぼそと話すので、とてもくすぐったい。
口づけはされなかったが、この体勢もかなりドキドキする。
「結婚するまでは、きちんと節度を保っておくんだろう」
「……もしかして、以前わたしが言ったことを守っているのですか?」
「当然だ。俺は婚約者の意思は大事にする」
『ギルベルト様はエリーゼ様が思うよりもずっと、あなたのことを大事になさっています』
いつかマルガが言った言葉を思い出し、エリーゼは胸が甘く締め付けられた。
「あ、おい」
気づけばエリーゼはギルベルトの太い首に腕を回し、しがみつくようにして抱き着いていた。離れようとしていた彼は、エリーゼの思わぬ行動に身動きが取れないでいる。
「ギルベルト。好きです。あなたのことがとても……」
「エリーゼ……」
目が合って微笑むと、ギルベルトはまたグッと眉間に皺を寄せた。おそらく照れたのだろう。ぐいっとエリーゼを抱きしめて、決して離すまいと力を込めたから。
「お前、今までからかった仕返しをしようとしているだろう」
「ふふっ。これが仕返しになるのならば、いくらでも、お伝えしますわ」
顎を掬われて、唇ではない別の場所にたくさん口づけが落とされる。
幸せだった。早く、彼のものになりたかった。




