3、オルバース公爵家の愉快な仲間たち
真夜中に鳴り響くような不気味な鐘の音でエリーゼは目を覚ました。
『おはようございます。奥様』
ふっくらとした、優しそうな顔立ちの女性がエリーゼの顔を覗き込んできて、朝の身支度を手伝おうとする。外見から想像する年齢は四十代前半、くらいだろうか。
『あ、私、奥様のお世話をするよう仰せつかりましたパウリーネと申します。お美しい奥様に仕えることができて、とっても光栄ですわ!』
ギルベルトもそうであったが、パウリーネも相手の反応にあまり頓着せず話すようだ。
『奥様が気を失われて、坊ちゃま……ではなく、旦那様も心配しておりましたよ。でもかえってぐっすりと眠ることができたようで、よかったですわね』
嫌味な口調ではなく、純粋にエリーゼの体調を気遣ってパウリーネは言っているようで、慣れた手つきでナイトドレスを脱がして着心地のいい服を着せていく。まさに長年に渡って女主人に仕えてきたメイドがなせる熟練の技だ。
鼻歌を歌いながら髪を梳かされ、エリーゼは鏡に映る自分を見つめる。
(透けてる……)
自分の身体ではなく、パウリーネの姿が。
『ほんと、バゼルには困ったものですわね。自分が幽霊だということを忘れて奥様の前に現れるなんて』
バゼルというのはオルバース家に代々仕えている執事の名前だそうだ。
エリーゼが気絶したのは、ギルベルトによる突然の花嫁宣言のせいではない。その時突然現れて叫んだバゼルのせいだ。彼の身体が透けていて、幽霊だとわかったから……。
(いえ、花嫁宣言にもとっても驚いたけれど……)
『でもバゼルの言うことも一理ありますわ。いくら奥様に惚れたからといって、出会ってすぐに結婚だなんて。いくらお顔が見目麗しくて、大抵の女性は引いてしまいますよね。やっぱりそういうところは、お父上の血を引いているせいかしら』
(やっぱりこの人も、幽霊、なのかな)
バゼルもそうであったが、声もどこかこう……遠くから聞こえるような、しゃがれたように聞こえる時があった。
『旦那様とバゼルには、私の方からもきつく叱りつけておきましたから、どうか許してくださいね。坊ちゃまは少しばかり特殊な環境で育ったせいか、奥様との接し方が不器用なんです』
(少しばかり……)
父親を悪魔に持ち、使用人たちのほとんどは生きていない幽霊だという環境はだいぶ特殊な方だと思う。
『さぁ、出来上がりましたよ』
エリーゼの髪を結い上げる形でまとめ終えると、パウリーネはその出来栄えに大変満足した様子でうんうんと頷いた。
『とてもよくお似合いですわ。さすが、旦那様がお選びになったお方ですわ』
(なんだか少し、古い髪型な気もするけれど……)
普段下ろしているからか見慣れないだけだろうか。
(いえ、せっかくしてくれたんだもの。悪く思ってはいけないわ)
「ありがとう、パウリーネ」
『ふふ。お礼などけっこうですわ、奥様。さっ。ギルベルト様がお待ちですから、食堂にご案内します』
「……あの、その奥様というのは、やめてもらえないかしら?」
もっと早く訂正するべきであったが、まだどこか夢を見ているのではないかという気持ちがあったのと、パウリーネが淀みなく話すので、口を挟めなかったのだ。
『まぁ、どうしてです?』
「どうしてって……わたしはまだギルベルト様の花嫁になると決まったわけではありませんし……」
そんな……と言いたげにパウリーネの眉が下がっていくと、エリーゼの声も萎んでいく。
『でも、坊ちゃまはあなた様以外の方を妻になさるつもりはないと思いますわ』
「……とにかく、もう一度よくギルベルトとお話します」
そうした方がいいとパウリーネはギルベルトのいる食堂まで案内してくれた。
「――目が覚めたか」
パウリーネと別れて食堂へ入ってきたエリーゼの姿に、新聞を読んでいたギルベルトは折り畳んでそばにいたバゼルへと渡した。その彼の身体はやっぱり透けている。
「具合の方はどうだ」
「大丈夫です。ご心配おかけしました」
「お前に何もないのならば、構わない」
『坊ちゃま! 奥方となる女性に対してはもう少し丁寧な言葉遣いでお願いします! あと、もっと心配した表情をなさいませ! 怒っているように見えていまいち気持ちが伝わりませんぞ!』
遠慮なく注文をつけるバゼルに、ギルベルトはややうんざりした様子で返した。
「朝から元気なやつだな」
『もう昼過ぎですぞ!』
「朝も昼も、たいして変わらんだろう。だいたい、彼女が倒れたのはお前が急に現れたからだ」
『坊ちゃまはまたそうやってすぐに話を逸らして、悪い癖ですぞ!』
「そうやってくどくどガミガミ小言を言いつけるお前の癖も、直した方がいいぞ」
『坊ちゃま!』
「あ、あのっ……」
ヒートアップしていく会話のやり取りにエリーゼが口を挟めば、二人は揃ってこちらを見た。
「なんだ。席にも着かないで」
『これは失礼いたしました奥様。ささっ、どうぞお座りになってください』
ひゅーっとバゼルが飛んできて、椅子が引かれ、着席するよう促される。
「……本当に、幽霊なのですね」
『奥様を怖がらせてしまい、申し訳ございませんでした』
透けていることを除けば、本当に普通の人に見える。
心からすまないことをしたという顔で謝罪され、エリーゼは複雑な気持ちになった。
「気を失ってしまったのは、他にも驚いてしまったからですわ」
エリーゼは目の前に着席するギルベルトへと視線を向けた。
「花嫁になれとおっしゃいましたが、わたしの聞き間違いでしょうか」
「いいや。お前はもう俺の花嫁だ」
きっぱり肯定されて、エリーゼは困った。
「なぜ、そうなるのです? 確かにわたしは何でもすると言いましたが、だからといっていきなり花嫁……あなたの妻になることは、理解できません」
「そんなに変な話か? 男と女が一つ屋根の下で一緒に暮らすとなれば、仲を疑われる。何の関係もないと言ったところで信じる者はいないだろうし、ただの客人だと説明してもかえって怪しく思われる。ならば、妻になる女性だと最初から言い切った方がいいだろう。それに」
「それに?」
「早く結婚しろと周りにせっつかれていた。そしてそんな時、俺と同じ年くらいのお前が来てくれたんだ。ちょうどいいだろう」
(ちょうど、いい……)
そんな理由で自分は嫁になれと言われたのか。
ショックを受けるエリーゼに、コホンとそばに控えていたバゼルが咳払いする。
「ああ、運命的、と言った方がいいか?」
「もう、遅いですわ」
「何が遅いものか。俺とお前はもう一心同体。運命共同体だ。エリーゼ」
名前を呼ばれて、沈んでいた気持ちが一気に浮上する。ギルベルトは声もとてもいいのだ。少なくともエリーゼは好みだった。
「俺と生涯を共にしてくれ」
「なっ……わ……」
かぁ……っとエリーゼの首から頭のてっぺんまで真っ赤に染まった。
(ずるいわ! そんな、恋愛小説みたいな愛の言葉を不意打ちで告げるなんて!)
何だかいいかも! アリかも! と受け入れかけている自分が一番信じられないが。
「…………折衷案を提案してもよろしいでしょうか」
「聞こう」
「いきなり花嫁……妻になるのは、やはり急すぎます。ですので、まずは婚約者から、というのはどうでしょうか」
(わたし、何を言い出しているのかしら)
つい二日前まで死ぬつもり満々だったくせに、ギルベルトの婚約者として立候補している。情緒不安定過ぎだろうと自分でも思う。でも。
(死ぬ前に一度だけ……こんな素敵な男性と、お付き合いをしてみたいわ)
小難しいことは抜きにして、要は自分も恋愛小説のようなキャッキャウフフな場面を体験してみたい。
(性格は傲慢そうだけど、顔は好みだもの)
死ぬ機会を逃してしまったがゆえに生じてしまったエリーゼの欲だった。
「いいだろう。では、お前はこれから俺の婚約者。未来の俺の花嫁だ」
「こちらから提案しておいて何ですが……本当にいいのですか」
「それもお前の願いならば、叶えるのが当然だろう」
何だか偉そうな言い方であるが、とりあえず受け入れてくれたので安堵する。
「ありがとうございます。ギルベルト」
「礼は言わなくていい」
でも、と言いかけたエリーゼの声を『そうですよ!』とバゼルが声を張り上げる。
『坊ちゃまにようやく春が到来したのです! こんな可愛らしい方が奥様になっていただけるなんて、私は……ううっ……これで天国へ行かれた亡き奥様も安心できるはずです』
「何も泣くことはないだろう。あと母上はあの男に捕まって、地獄かその手前を彷徨っているかもしれないぞ」
『こうしちゃあいられません! 今宵は坊ちゃまと奥様の婚約成立パーティーを開きましょう!』
「あの、婚約ですので、奥様呼びは違和感があるかと……」
『お前たち! 今の話を聞いていただろう? ああ、そうだ。まずは奥様に挨拶をしておけ!』
バゼルはギルベルトやエリーゼの言葉などちっとも耳に入らない様子で、いきなり扉の外へ向かって大声で呼びかける。扉がひとりでに開いた瞬間、エリーゼは嫌な予感がした。
(ここの使用人ってみんな生きていないのよね? ではバゼルやパウリーネのように身体が透けている? ……いいえ。たとえそうだとしても、もう大丈夫。見慣れたわ!)
しかし、エリーゼは油断していた。
「ひっ……」
ひゅーっとおどろおどろしい音を立ててたくさん入ってきた使用人たちは人間の体をなしていなかったのだ。
いや、輪郭だけは人の形に見えるが、目や鼻といった顔を構成するパーツがない。あってもドロドロに溶けたようにしか見えない。湯気や霧のような塊がいくつもふわふわと浮いており、口に当たる部分が三日月形の空洞となって自分に微笑みかけていた。
『わぁっ、この方が坊ちゃまの妻となる方なんですね!』
『すごく可愛らしい方じゃないですか! 坊ちゃまやるなぁ!』
『坊ちゃまと並んだら、まさに美男美女ですわね!』
甲高く、クスクスという不協和音な笑い声と共に囁かれ、エリーゼは目の前がくらくらしてきた。バゼルやパウリーネと全く違う。彼らは言うならば本物の――
『奥様! これからどうぞよろしくお願いしますね!』
(悪霊……)
ググッ、と一斉に周りに取り囲まれたエリーゼはまたしても気を失った。
『――まったく。坊ちゃまがついていながら、なんて有様ですかっ』
目を覚ますと、パウリーネに叱られているギルベルトの姿があった。彼はすぐにエリーゼの目覚めに気づき、起き上がる背中をそっと支えながら大丈夫かと声をかけてくる。
「ごめんなさい。驚いてしまって……」
「怖かったのか」
エリーゼはその問いかけに微妙な顔をした。
初めてあれを見て、普通でいられる人間が果たしているのだろうか。
そんな心の不満が聞こえたのか、ギルベルトはため息をつくように言った。
「お前は降霊術をしようとしたくらいなのだから、あんな姿では驚くまいと思っていた」
「……降霊術で呼び出される霊って、みんなあんな感じなのですか」
(もしかしてわたしのお母様も?)
「死んで何年かによるな。二百年以内なら、だいたいの霊は生前の姿のまま現れるぞ」
ではあの霊たちは死んで二百年以上経過しているということだろうか……。
(いえ、深く考えるのはよしましょう)
「一緒に暮らしていれば、そのうち見慣れるさ」
「そう、ですね……」
遠い目をして微笑むエリーゼに、パウリーネが『もう!』と口を挟んだ。
『坊ちゃまはもう少し嫁いできてくださった奥様の心を気遣うべきですわ!』
「本人は大丈夫だと言っているが」
『そんなの、心配させまいという奥様の健気な強がりに決まっているじゃありませんか! いいですか。このオルバース領で育った坊ちゃまと違い、奥様は深窓の姫君であられたのです。亡くなられた奥様と同じ、王女様だったのです。普通のご令嬢よりもさらに気遣ってしかるべき存在だということを肝に銘じてくださいましっ!』
エリーゼ以上に憤慨して訴えるパウリーネに、エリーゼ本人が目を白黒させてしまう。
「あの、パウリーネ。そこまで気を使ってもらわなくても平気だから。王女と言っても、ギルベルトのお母様とわたしではだいぶ違うし……あと、まだ奥様ではないから」
何度か言っているはずだが、ちっとも聞き入れてくれない。
『将来的には奥様となるはずだから奥様で問題ございませんわ』
「ええ……」
「パウリーネ。女主人の言葉には従うべきじゃないのか」
説教を受けていたはずのギルベルトが寝台に腰かけて、長い脚まで組んで面白そうに言い返した。
『それはそうですけれど……ではエリーゼ様と呼んでも?』
「ええ。そう呼んでくれると嬉しいわ」
嬉しいと伝えると、パウリーネはにこっと微笑んだ。
「エリーゼ。俺はお前のことを何て呼べばいい? エリーゼでいいのか?」
膝に肘を立てて、とても様になる格好でギルベルトに見上げられる。
「……そのままエリーゼとお呼びになってください」
「何だ。エリーゼでいいのか」
ギルベルトは出会って間もないというのにごく自然に「エリーゼ」と呼んでくれる。
エリーゼにはそれが新鮮で、嬉しかった。
姉のローデリカ以外、自分のことをそんなふうに呼んでくれる人はいなかったから。
「みんな、わたしのことは王女殿下、と敬称で呼んでいました。ですから、ギルベルトにそんなふうに呼んでもらえるのは……くすぐったいような気がして、でも、決して嫌ではないのです」
恥ずかしい気持ちもあったが、胸に手を押さえながらエリーゼは素直に伝えた。
それまでどこか揶揄するような表情を浮かべていたギルベルトはエリーゼの言動に目を丸くし、次いで真顔になった。
「ギルベルト?」
気づけば彼の大きな手が、頬に触れていた。
零れた銀髪を耳にかけるためかと思ったが、指先から伝わる温もりは消えないままだ。
「何だか可愛いな」
「えっ」
(か、可愛い!?)
誰が!? とエリーゼは混乱する。まさか自分に? と思うもすぐに否定する。生まれて初めて言われた言葉がまさか自分に贈られたものだとは思えなかったのだ。では彼は誰を褒めたのだ、と思ったところで、ギルベルトの手が離れ、頭をくしゃりと撫でた。
「あっ」
髪が乱れてしまった、と頭に手をやれば、ギルベルトはふっと笑って立ち上がった。
「慣れるまでは霊たちに姿を見せないよう言っておこう。腹も減っただろうから、食事を運ばせる。少し休んだら、この城を案内しよう」
執務室で待っている、とギルベルトは部屋を出て行った。
エリーゼは頭を抑えたままポカンとその背中を見送ったが、陰からそっと微笑を湛えたパウリーネが現れたのでびくっとし、たまらなく恥ずかしい気持ちになって俯いたのだった。
◇ ◇ ◇
朝食を食べ損なったからか、遅めの昼食はとても美味しく感じられた。
離宮で出されていたものよりもメニューが豊富で、エリーゼは残さないよう必死に胃に詰め込もうとしたが、食べきれず残してしまった。後で必ず食べるから取っておいてくれと言えば、パウリーネやバゼルにたいそう驚かれてしまった。
『エリーゼ様は今まで小食だったのですか?』
水色のドレスを着せてもらいながらパウリーネに尋ねられる。
「そう、ね……。食べ過ぎるのは、あまりよくないと言われたから」
実際は出される量が少なくていつもお腹が空いていたのだが、それを正直に伝えるのは何だか嫌で、エリーゼは敬虔な信徒の食生活を見習っていたのだと適当に誤魔化した。
『確かに暴飲暴食は危のうございますけれど、奥さ……エリーゼ様の場合はもっと食べるべきですわ』
心配になる細さだと言われて、エリーゼは努力すると答えた。
とりあえず作ってもらった料理を残すことは罪悪感が湧くので完食しよう。
『急に量を変えるのは身体も驚くでしょうから、無理はなさらないで、少しずつでいいのですよ』
さぁできたとパウリーネはエリーゼを完璧な令嬢に仕上げると、ギルベルトのいる執務室に案内しようとする。しかしその必要はなかった。扉を開けた先、ちょうどノックをしようとしたギルベルトの姿があったのだ。
『まぁ、珍しい! 坊ちゃまがお迎えに上がられるなんて』
「遅いから迎えに来た」
行こう、とギルベルトに手を差し出される。婚約者であったイェルクにもされたことのない振る舞いに、エリーゼはやはり一瞬固まってしまう。
「何だ。こちらの方が正しかったか?」
腕を差し出し、手をかけるよう促される。
脳裏に舞踏会で見た男女を思い出す。あんなふうに自分もしていいのだろうか。
「早くしろ。城は広いから、ゆっくりしているとあっという間に日が暮れるぞ」
催促にようやくエリーゼが手をかけると、ギルベルトはあっちから行くぞと歩き出した。
何だか素敵……と一人心の中でときめいていたエリーゼだが、次第にその考えも薄れていく。
(歩くのがけっこう早いわ……というより、一歩が大きい……)
おそらくギルベルトの脚の長さが原因だ。彼の身長はエリーゼよりもかなり大きいのだ。くっついて歩いているせいで、余計に歩幅を合わせないといけない。想像以上に大変なことだった。
「どうした。具合でも悪くなったのか。霊たちには姿を消すよう言っていたはずだが……」
ふぅふぅと息を切らし始めたエリーゼに気づき、ギルベルトが足を止める。
「あの、申し訳ないのですけれど、もう少しだけゆっくり歩いてくださると助かります」
そこでギルベルトも自分たちの身長の差に気づいたようで、顔を顰めた。
「すぐに言え」
「ご、ごめんなさい」
「いや、俺が気づけばよかった。怒っているわけじゃないから、そう怯えるな」
ギルベルトはそう言うと、歩きながらこれくらいでいいか? と訊いてくれた。
「はい。大丈夫です。ありがとうございます」
「これくらいのことで礼を言う必要はない。……お前は小さいんだな」
「……女性の平均くらいの身長だと思いますけれど」
「そうなのか? だが手だって小さい。顔も。……普段あいつらばかり相手にしているから気づかなかった」
「浮いていますものね……」
あとご高齢の(という表現が正しいかわからないが)幽霊たちは顔もよく見えない。
「小さい頃は母の相手もしていたからまだ何とかなったが……やっぱり生身の人間と会わないと不都合が生じるな」
「……ここには、生きた人間は来ないのですか?」
「いや。城の外に行けば、村人がいる。俺が相手にするのは男や老人ばかりだがな」
後で領地についても説明すると言われて、エリーゼは大人しく頷く。
最初に案内された図書室は広く、当然なのだがたくさんの本が保管されていた。
日に焼けないよう、窓にはカーテンが敷かれて薄暗かったが、それはこの城全体に言えることだったので、あまり気にならなかった。
(それにわたしが住んでいた離宮の地下室の方がひどかったもの)
「何か読みたいのがあったら、遠慮せず借りていくといい」
「いいのですか?」
「当然だ。ここはもうお前の城なのだから」
そう言われてもまだ全く実感が湧かない。
「お前はエーデルシュタイン語を独学で学んでいたな。基礎から学ぶ教本もあったはずだ」
「では、後で読んでみます」
不意にギルベルトが顔を覗き込んできたのでどきりとする。
「な、何でしょうか」
「本当は他に読みたいのがあるんじゃないのか」
「えっ。どうしてそう思ったのですか」
「声がそっけない」
そんなつもりはなかったが、ギルベルトには違うように聞こえたらしい。
「実は……恋愛小説とか、興味があったりします」
「恋愛小説? ……巷で流行っている、低俗な読み物のことか」
「低俗なんかではありません!」
聞き捨てならないとエリーゼは反論する。
「確かに少し現実離れしたところもありますけれど、だからこそ幸せな夢を見ることができたような気分になれて、もしかするとこんな素敵な話が自分にも起こるかもしれないと思えて、とっても素晴らしい本なんです!」
言い切って、エリーゼははっとする。つい勢いのまま捲し立ててしまった。
(わたしの馬鹿! ギルベルトも呆れているじゃない)
「あの、ごめんなさい。つい、気持ちが昂ってしまって……」
「お前がそんなに心惹かれるというなら、早速手配しよう」
「えっ、いえ、そこまでしていただかなくとも!」
ただ恋愛小説を馬鹿にしてほしくなかっただけだ。
しかしギルベルトは気にするなと言って、本を購入することを決めてしまった。
「俺は今まで全く興味がなかったから読まなかったが、そんなに言うなら、今度読んでみようと思う」
「そ、それは少し恥ずかしいかもしれません」
「なぜ?」
ギルベルトがじっと見つめてくる。男女が好きだ、愛していると言い合う本の場面が思い出され、エリーゼは頬が熱くなった。
「お前はすぐに顔が赤くなるな」
「あ、あなたのせいです!」
ギルベルトのどこか面白がるような声に、エリーゼはぷいっと顔を逸らした。
「俺のせいだと? いったい俺のどこに咎められるところがあったのか、ぜひ教えてくれ、エリーゼ」
「知りません!」
絶対に面白がっていると確信したエリーゼはギルベルトの腕から離れて先を行こうとするが、気が動転していたせいか椅子にぶつかり、転びそうになる。
「っ……まったく。目が離せないな」
「……」
お腹にギルベルトの逞しい腕が回されている。
(う、受け止められてしまった!)
「怪我はないか?」
「その前にあなたが受け止めてくれたので大丈夫です……」
体勢を元に戻すと、エリーゼは改めて礼を述べた。
「今後、あまりお前を揶揄うのはよしておこう。さもないと、今度はもっと大きな怪我をするかもしれないからな」
「あっ、やっぱり揶揄っていらしたのですね!」
ついエリーゼがそう言うと、ギルベルトは声を立てて笑ったのだった。
城の案内は夕食時までに終わらず、また明日行われることとなった。夕食はギルベルトと一緒にとり、昼間のやり取りで互いに緊張が取れて自然と会話できた。
「城の案内が終わったら、村に行ってみるか。馬には乗れるか?」
「いいえ、乗ったことないんです。でも、教えてくだされば、乗れると思います!」
「度胸があるな。だが、まずは俺と一緒に乗って、馬上からの景色に慣れるといい」
ギルベルトと相乗りするのだと想像して、エリーゼは恋愛小説みたい! とときめいた。
普通馬車なのでは? と給仕をしていたバゼルに言われるが、エリーゼは馬に乗ってみたかった。
「御者を幽霊に頼むことになるから、馬の方がいいだろう」
「あの、どうしてここには生きている人がいないのでしょうか」
「お前は幽霊と共に働くことはできるか?」
なるほど。確かにバゼルやパウリーネの見た目ならともかく、あの幽霊たちの姿ではこちらの魂まで抜かれてしまうのではないかと思って、生きた心地がしない。
「でも、大変でしょう? わたしも何かお手伝いできることがあるのならば、お手伝いしますわ」
『おお。なんとお優しい方なのでしょう! さすが坊ちゃまの奥方となる方ですね!』
涙をぬぐうように(実際は出ていないのだが)バゼルが感激する。
「俺の妻となる女性に使用人の真似はさせられない。手伝うならば、俺の仕事を手伝ってほしい」
「ギルベルトのですか? それは構いませんが……わたしにできるでしょうか」
「王都への簡単な定期報告の作成や、手紙の返信だ。お前にもできる」
王都、という言葉にエリーゼは「あっ」と声を上げた。
エリーゼの声にバゼルが持っていた皿をぐらつかせ、ギルベルトがどうしたと尋ねる。
「そういえばわたし、一応あなたの婚約者になったんですよね。お父様たちに知らせなくてもいいのかしら、って思って……」
というか自分は悪魔召喚した後、どうなったのだろうか。今さらな疑問であるが、エリーゼは半分悪魔のギルベルトとの出会いにすっかり忘れていた。
(普通なら、騒動になっておかしくないけれど……)
王女であるエリーゼの待遇は、自分でもあまりよくなかった。最悪の場合、探していない可能性もある。
「ギルベルト、あなた、わたしを連れてくる際、誰かに言いましたか?」
「俺がお前を自分の城へ連れて行くのにわざわざ許可を取ったと?」
取るわけないだろう、と言いたげにギルベルトは肩を竦めた。
「周囲に誰もいなかったし、お前は出血多量で死にかけだった。突然現れた見知らぬ男を見て、救世主だと思う人間はいるまい」
「ですよね……」
エリーゼも他の使用人たちの立場だったらギルベルトが殺人者だと思う可能性が高い。
「心配するな。俺が上手いこと言っといてやる」
「……本当に大丈夫なのですか?」
「こう見えても五大公爵家の一人だ。王家も下手に手出しはできん」
それでも王女を勝手に連れ出して婚約者にしてしまったらさすがに咎められると思うが。
(まぁ、でももともと幽閉するつもりの王女だったし、問題ないかな)
幽閉されるよりは名のある貴族に降嫁した方が、王女として役立つ。
父や議会もそう受け止めてくれるだろうと、エリーゼは楽観的に考えることにした。
夕食を終えると、湯浴みをした。広い浴槽には温かいお湯と薔薇の花びらが浮かべられており、エリーゼはまるでお姫様の入浴だわ! とひどく感激した。湯から上がると、着心地のよいナイトドレスに裾を通し、寝心地抜群の寝台の上に行儀悪く寝そべった。
(最高!)
『エリーゼ様。はしたのうございますよ』
「ふふ。ごめんなさい、パウリーネ」
彼女の叱り方が幼い頃まともに接してくれた乳母を思い出させ、エリーゼはつい顔をほころばせてしまう。パウリーネは困った人だと言うように眉を下げただけで、上に羽織っていたガウンを脱がして寝台の近くの椅子にかけた。
『今日は疲れましたでしょうから、ゆっくりお休みください』
「ええ。お休みなさい、パウリーネ」
『はい。お休みなさいませ』
明日も城内の案内。ああ、そうだ。ギルベルトの仕事も手伝わせてもらえる。
やることがあり、エリーゼは明日を迎えることが楽しみだった。
(離宮にいた頃は、そんなこと考えたこともなかった)
ギルベルトやパウリーネ、バゼルたちのお陰だ。
(他の幽霊……使用人たちとも、きちんと接したいわ)
しかし彼らの姿を思い浮かべると、また気絶しないか自信がない。怯えるような態度で接しても彼らに失礼だろうし……。
(せめて顔のパーツが見えたらいいんだけれど……)
どうにかならないだろうかと微睡みながら考えていると、扉が控え目に叩かれた。
一瞬聞き間違いかと耳をすませば、「エリーゼ」とギルベルトの声が聞こえたので、慌てて起きて、扉をそっと開けた。
「ギルベルト? 何かあったのですか?」
「眠る前に婚約者の顔を見てはいけないのか」
ギルベルトからすれば特別な意味はないのかもしれないが、エリーゼはどきりとした。
「……本当は、未婚の男女は軽々しく会ってはいけないのですよ」
「もう今さらだろ。入れてくれないのか」
「いいえ。どうぞ……」
建前として世間一般の常識を述べたが、本当はギルベルトが会いに来てくれて嬉しかった。
「パウリーネには内緒にしといてくれ。見つかると小言を言われるからな」
「はい。わたしも叱られると思いますので、内緒にしておきます」
ギルベルトは寝台の方ではなく、長椅子に腰かけた。
「部屋について言い忘れていたが、お前の好きなようにしていいからな」
「今のままで十分ですわ」
壁紙や家具も、エリーゼの好みであった。
「エリーゼ」
「はい」
「何でもない。呼んでみただけだ」
なんだそれは。ギルベルトの自分への接し方は少し変だ。
「俺は生まれてこの方、悪魔の父と、気位が高い母、そして幽霊たちに囲まれて育ってきた。俺が常識だと思っていることが、お前にはとんでもない非常識に映るかもしれない」
「ギルベルトはわたしの考えていることがわかるのですか?」
「お前の顔にそう描かれている」
思わず頬に手を当てると、彼が笑った。そうすると、怖く見える顔立ちが和らぎ、少年のような爽やかさが感じられる。
(そういうのも、いいな……)
「今度は何を考えているか、当てようか?」
「……! けっこうです!」
ぷいっと顔を逸らせば、くくっと笑われる。彼には意地悪なところがある。
「話を元に戻すが、俺とお前では育った環境が違うから、何か不満があるなら、遠慮せず言え。パウリーネやバゼルも、その方が助かる。むろん、俺もな」
「わかりました」
何も言わず困っている方が彼らに迷惑をかける。
慣れないながらきちんと自分のことを気遣ってくれるギルベルトにエリーゼは感謝した。
「それじゃあ、今日はもう失礼する」
「もう、帰られるのですか?」
ずいぶん急な訪問で驚いたものの、いざ帰ると言われると何だか寂しく思えた。
眉を下げてギルベルトの顔を見ていると、彼は困ったような、あまり彼らしくない表情をして、くしゃりとエリーゼの髪をかき混ぜた。
「明日もいろいろすることがある。身体は休めた方がいい。……寂しいなら、一緒に寝るか?」
「そ、それはまだ早いです!」
真っ赤になって断れば、ギルベルトは笑って頷いた。
「お休み、エリーゼ」
掠めるように額に何か当たり、それが口づけだと気づいた時には、ギルベルトはすでに部屋を後にしていた。




