1、愚かな王女
「ふふ……」
緩くウェーブがかった銀髪に、少しつり目の青色の瞳を持つ、エクスタイン国の末の王女、エリーゼはふらふらした足つきで地下室の書庫にたどり着くと、本棚から分厚く、見るからに年季の入った本を取り出し、冷たい床で予め栞を挟んでいたページを開いた。
そして召喚に必要なものをぶつぶつ口にしていく。
「生きた雌鶏の血……人間の血でも、いいかな……いいよね」
どうせ自分は今、死んでしまいたいほどの絶望の底にいるのだから。皮膚を傷つけようが、出血多量で死のうが、どうでもいい。
エリーゼはそう思って、何の躊躇いもなく用意していた刃物で自身の腕を切った。少ないよりは多い方がいいだろうと、けっこう深く切ったので、勢いよく血が溢れ出してぼとぼとと床へ落ちていく。
「五芒星を描いて……んー……ここに、数字を書いて?」
心が麻痺しているせいか、痛みもどこか鈍く感じる。頭がクラクラしてきたのは血を流しているからだろう。
(このままわたしが死んだら、お姉様、悲しむだろうなぁ)
自分の存在を輝かせる道具が無くなってしまうのだから。いや、頭の良い姉ならば、自分が死んだ事実も、上手に活用するだろう。姉は父やエリーゼの婚約者だった男に慰めされて、これからもこの国にとって唯一の、大事なお姫様として愛されていくのだ。
本当に綺麗で優しい人だったから、エリーゼの婚約者が姉を好きになり、異国に嫁ぐはずだった姉と結婚する流れになっても、エリーゼは仕方がないと諦めて祝福した。
代わりに自分が嫁ぐよう命じられても、逆らわず、姉のために受け入れようと思っていた。なのに――
『あのね、エリーゼ。わたくし、あなたが彼と結婚するのも許せないけれど、あなたが異国へ嫁いで王妃になるのも許せないの』
姉は自分のことを愛してなどいなかった。出来の悪い妹として心の中でずっと笑っていたのだ。
(なんて滑稽なの……)
「ふふ……馬鹿みたい」
もうすべてのことにおいて疲れ果ててしまった。
(だから、終わりにする。最後に……)
エリーゼはぼんやりする頭で、本に書かれたエーデルシュタイン語という古代文字を呟いていく。そうして最後の一節を何とか言葉にすると、力尽きたように自身の血で描かれた魔法陣に倒れ伏した。
(最期に、お母さまに会いたい)
母が生きていれば、きっとこんなふうにはならなかった。母だけは、自分を愛してくれた。それを証明したい。たとえ、禁忌とされている術を行使することになっても。
死んだ人間の魂をこの世に召喚する――降霊術に関しての書物をエリーゼはこの離宮の地下にある書庫で見つけた。大昔、この離宮は民衆を惑わした魔女を閉じ込めておく部屋だったという。魔女がどんな怪しげな術で人々を惑わしたのか、拷問して聞き出すと同時に普通の人間にも使えるのではないかと書き記しておいたようだ。
果たして、ただの人間にも術は使えるか。
(ああ、寒い……それに何だか眩しい……)
朦朧とした意識の中で、身体の下から光が溢れ出した。
「突然身体が引っ張られたかと思えば……」
低く、それでいてよく通る声が閉じそうになる重い瞼を阻止する。
「おい、小娘。まさか貴様が俺を召喚したのか」
(お母さま、じゃない……?)
間違っても母はこんな低い声ではないし、何よりどう見ても性別が違う。
(なんて、美しいの……)
黄金色をした輝く髪に、ルビーのような真っ赤な鋭い目に見下ろされ、エリーゼは自分が太陽の化身を呼び出してしまったのだと思った。
◇ ◇ ◇
エクスタイン国の王妃でありエリーゼの母、ドロテアは、エリーゼをこの世に産み落とすと同時に息を引き取った。エリーゼを産んでしまったせいで最愛の王妃が亡くなった。そう考えた父は娘のエリーゼを遠ざけ、視界に入ると疎ましそうな、憎しみの見える表情を見せた。
「あれは呪われた子だ。余からドロテアを奪ったのだから」
そう側近の一人に憎々しげに零していたのを、幼かったエリーゼは運悪く聞いてしまった。自分は父に嫌われている。憎まれているのだ。
父はエリーゼが幸せになることが許せなかったのか、唯一甘えるのを許してくれた乳母も早々に田舎へ帰してしまった。それ以来仕える使用人たちはみなエリーゼに余所余所しく、次第に侮った態度で接してくるようになった。
「王妃様はエリーゼ様をお産みになったばかりに亡くなられたのです」
自分を嫌っているのは父だけではなかった。母に幼い頃から仕えていた女官や侍女全員がエリーゼがこの世に生まれなければよかったと思っていた。
「呪われた子というのも、あながち間違いではありませんかもね」
「そうね。私、ここへ来てから具合が悪いもの」
「私も、エリーゼ様のお顔を見ると、胸がムカムカしてしまうのです」
(わたしのせいで……わたしのせいでお母さまが死んでしまった……わたしが、呪われているから……)
他の兄姉と違い、自分だけ離宮で生活しているのもそのせいだ。針のような、毒のような言葉を吐き続けられるのもそのせい。自分は呪われた存在なのだ……。
「可哀想なエリーゼ」
そんな中、三歳上の姉、ローデリカだけは妹のエリーゼを憐れみ、気遣ってくれた。寂れた離宮にも週に一度は足を運んでくれて、食べきれなかったというお菓子やお下がりのドレスを渡してくれた。
「お姉さま。ありがとう」
「ふふ。いいのよ、エリーゼ。お父様に愛されないあなたを、わたくしだけは可哀想に想って、愛してあげる」
自分は父に愛されていない。
その事実を口にして伝えられるのは胸が痛んだが、美しくいい匂いのするローデリカに抱きしめられて、エリーゼは自分はまだ恵まれているのだと思った。父や他の兄姉、使用人たちにさえ疎まれても、ローデリカだけはこんな自分に優しく接してくれるのだから。
「ねぇ、お姉さま。次は、いつ来られる?」
「そうねぇ……二週間後かしら」
「二週間後……」
一週間に一度会う今の状況でも寂しくてたまらないのに、さらに会えない期間が長くなり、エリーゼは絶望した。
そんな妹を見て、ローデリカは申し訳なさそうに事情を説明する。
「ごめんなさいね。来週はどうしても外せない用事があるの」
「用事……」
「ええ。王女としてお茶会に参加しなくてはいけなくて……夜もね、舞踏会があるの。お兄様やお父様も参加なさるから、その、ね……?」
あなたは参加できないのよ、と優しい姉は口にはしなかったが、エリーゼは父の嫌悪する顔を思い出して俯いた。
「エリーゼ。また必ず会いに来るわ」
「はい、お姉さま。お待ち、しています……」
家族なのに、自分だけ輪に入れない。
(仕方がないわ……わたしは……)
エリーゼは自分の存在に罪があるのだと自身に言い聞かせ、成長していった。
外へ出て誰かと会う度に顔を顰められたり、嘲笑する態度をとられるので、部屋に閉じこもるようになり、息を殺すようにして生活する日々となった。
あまりにも退屈で、ある日地下室へ通じる鍵を見つけると、そこで時間を潰す日もあった。
「エリーゼ。そんな難しい本を読んでは嫌われるわよ」
エリーゼは十五歳になった。定期的に離宮を訪れてくれるローデリカは、古臭い本を読むエリーゼを微笑を湛えてやんわりと叱った。本当に姉は見る度に美しくなっていく。王族としての気品や逆らえない雰囲気を纏っており、優しい口調であっても、エリーゼは従わなくてはいけない気になってしまう。
「ごめんなさい、お姉様」
「殿方はね、賢い女性はあまり好きではないの。だからそんな難しい本なんか読めない方がいいのよ」
「はい……」
エリーゼも別に読みたくてこんな年季の入った本を読んでいるわけではない。他にすることがなく、何もしない時間が続くと寂しくてたまらなくなるから、渋々活字を相手にしているのだ。だが、完璧なローデリカからすれば、やはりエリーゼの振る舞いはよくない行為として目に映るのだろう。
「あの、ではお姉様は本を読んだりしないのですか」
「あら、わたくしも本は読んだりするわ」
「どんな本をお読みになるのですか」
「そうねぇ……やっぱり恋愛小説かしら」
「恋愛、小説……?」
エリーゼが普段読むのは哲学書や歴史書、この国や他の国の政治や文化など、とにかく淡々とした文章が続き、読んでいてもあまり楽しくないものばかりだった。
だからローデリカの言う「恋愛小説」もいまいちよくわからず、首を傾げれば、ローデリカがくすりと笑った。
「エリーゼにはわからないかもしれないわね。男女が恋愛する物語が書かれているのよ」
「男女が恋愛……」
恋愛、という言葉もよくわからなかった。
「わたくしが昨日読んだのはね、美しい姫君に仕える騎士の話だったわ。その前は異国の王子と恋に落ちる話」
ローデリカがうっとりとした様子で恋愛小説の内容を語ってくれる。
話を聞いていくうち、男女が出会い、結ばれるのは、歴史書のような政略結婚だけではないのだと知り、エリーゼは驚いた。
「姫を攫おうとする男性と戦ったり、星空の下で求婚されたりするの」
二人きりの世界。それはとても非現実的に思えた。だって普通ならば護衛や召使いたちがそばにいるものだ。それともその姫も、エリーゼのように嫌われて放ったらかしにされているのだろうか。
「誰かに愛されるって、とても素敵なことよ」
(わたしも、読んでみたいな……)
「エリーゼも、読んでみたい?」
物欲しげな顔をしていたからか、ローデリカに言い当てられて、エリーゼは慌てる。
「いいわよ。今度、持ってきてあげる」
「本当!?」
「ええ。だってあなたは、わたくしの可愛い妹ですもの」
「お姉様……ありがとう!」
ローデリカは約束通り、茶会や舞踏会の終わった二週間後、本を持って離宮へ来てくれた。エリーゼは何度もお礼を言ってその本を受け取り、もったいないので毎日数ページずつ読もうと思っていたのだが、ページを捲る手が止まらず、気づけばあっという間に読み終えてしまっていた。
(なんて素敵なお話なのかしら)
胸に本を抱えて、エリーゼはうっとりと余韻に浸る。姉の言う通りであった。
心優しい姫君を命懸けで愛し貫こうとする王子の姿は素晴らしかった。
(王子様だけではないわ)
実は王子にはトラウマになった過去があるのだが、姫はそんな王子をいつもさりげなく気遣い、優しい心で愛を伝えるのだ。姫のそうした言動に王子の心も溶かされて、よりいっそう愛情が深まる。王子だけでなく、姫もまた、誰かを愛する強さがあったからこそ迎えたハッピーエンドなのだとエリーゼは考えた。
(わたしも、このお姫様のように誰かを愛してみたい)
今まで自分は愛されることばかり願っていた。
でも、愛されるにはまず、自分から心を開き、愛そうとすることが大切なのではないか。
(わたしも、いつか……いいえ、今から、何かできないかしら)
そう思って椅子から立ち上がり、古びた鏡台の鏡を見たエリーゼは、しょんぼりと肩を落とした。
(この物語のお姫様と、まるで違う……)
陰気で冴えない表情の、痩せっぽっちの少女では、王子はおろか、他の男性の目にも留まらない。
(綺麗になるには、どうしたらいいのかしら)
化粧をすれば、マシになるだろうか。しかしここには、欠けた櫛があるくらいで、化粧道具は何一つ置かれていなかった。
(せめてにこっと笑ってみる、とか?)
口角をくいっと上げて、さらに頬を両手で持ち上げてみる。
「――エリーゼ。今、いいかしら」
その時、ローデリカの声が聞こえて、エリーゼはびくりとする。
「す、少し待ってお姉様!」
間抜けな顔を引き締めて急いで扉を開けると、ローデリカともう一人、見慣れない男性の姿があった。
「ローデリカ。急にごめんなさいね。今日はあなたにどうしても紹介したい人がいて」
「初めまして、エリーゼ様。私、イェルク・ランゲと申します」
「ランゲ侯爵のご子息で、あなたの婚約者となる方よ」
「こ、婚約者!?」
自分に? と驚くエリーゼにローデリカは困った顔をする。
「エリーゼ、そんな大きな声を出してはみっともないわ。イェルクもびっくりしているでしょう?」
「あ、ご、ごめんなさい」
エリーゼは謝ると、恐る恐るイェルクの顔を見た。亜麻色の髪に、優しそうな目をしており、服装は本で読んだ騎士の格好と似ている。エリーゼの視線とかち合うと、少し首を傾げながら微笑まれた。年頃の異性とまともに接したことのないエリーゼはそれだけで真っ赤になって、視線を思いきり逸らしてしまった。
「エリーゼ。彼はね、わたくしの護衛をしてくれていた人なの」
「えっ、お姉様の?」
「そうよ。とても優しくて誠実な人だから、あなたの婚約者にも相応しい人だと思って、お父様たちもお決めになったのよ」
「お父様が……」
てっきり父はもう自分のことを捨て置いたのだと思っていたが、一応娘として、将来のことを考えてくれていたらしい。
臣下たちが促したからかもしれないが、それでもエリーゼは嬉しかった。
「あの、イェルク。これからどうかよろしくお願いします」
「ええ」
イェルクは微笑んでくれたが、その笑みはどこか陰りを感じさせるもので、エリーゼは不安になったものの、その前にローデリカが明るい声で言った。
「さぁ、立ち話はなんですもの。中へ入って、いろいろとお話ししましょう」
それから、ローデリカと共にイェルクは会いに来るようになった。彼と二人で話すことはなかった。異性と二人きりになることは、王女であり未婚の女性にとって許されない。そのためお目付け役として姉がそばにいるのだ。
ローデリカはエリーゼとイェルクが気まずくならないよう、自ら会話を振ってくれて、場を和まそうとしてくれる。本当に姉の気遣いには助けられている。
感謝しなくてはいけないと思ってはいるのだが――
「ふふ。そういえばあの時、イェルクはお兄様たちに笑われたのよね」
「姫様。どうかそのことはもうお忘れください」
「忘れないわ。だってあなたとの大切な思い出ですもの」
(まるでお二人が婚約者同士のよう……)
自分は料理で例えるならばステーキの横に添えられている野菜のようなものだ。そんなことを現実逃避に考えるのも、心の痛みに気づかないようにするためだ。そう。エリーゼはイェルクと接していくうちに気づいてしまった。彼が姉を愛しているということを。
(今だって……)
困ったような、それでいて慈しむような眼差しでローデリカを見つめている。言葉にせずとも雄弁に伝えてくれる。
姉に貸してもらった本に出てくる騎士そのものだ。彼は姉を愛している。
(それなのに、わたしの婚約者だなんて……)
父もひどいことを命じる。
(お姉様は彼のこと、どう思っているのかしら)
イェルクの片想いなのだろうか。だとしたら可哀想だとも思った。
「エリーゼ様?」
ずっと黙り込んでいるエリーゼにさすがに悪いと思ったのか、イェルクが話しかけてくれる。
「つまらない話をしてしまって、申し訳ございません」
「本当ね。ごめんね、エリーゼ」
「あ、いいえ。お気になさらないで」
謝られると、じくじくと胸が痛んで、虚しくなる。
「あなたたちの結婚式、楽しみだわ。わたくしが嫁ぐ前に行われるといいのだけれど」
姉は大国の王子に嫁ぐ予定だった。彼女ならば立派に妃として王子を支えるだろう。
エリーゼがそっとイェルクの方を見ると、彼は俯いており、膝の上に置かれた拳は微かに震えていた。この時、エリーゼが身を引いていれば、何か変わっただろうか。
「――エリーゼ。本当にごめんなさい。すべてわたくしが悪いの」
「エリーゼ様。どうかお許しください。ローデリカ様には何の罪もございません」
エリーゼの住む離宮の中庭で、二人が抱き合い、口づけする光景を偶然見てしまったのは真昼のことだった。
その日は珍しく侍女が中庭を散歩してはどうかと勧めてきて、たまには自分からローデリカとイェルクを迎えるべきかもしれないと乗ってしまったのが間違いだった。真っ青になって固まるエリーゼを前に、二人はやはりお互いを庇い合い、最終的に同じことを告げた。
「あなたにはどうしても言えなかったのだけれど、わたくし、イェルクを愛しているの」
「あなたという婚約者がいながら、私は姫様への想いを断ち切れなかった」
つまり、二人は互いに両想いで、エリーゼが邪魔だった。ただそれだけのことだ。
「……いいのです。お二人が幸せになるのが、わたしの幸せです」
エリーゼは父に申し出て、イェルクとの婚約を解消した。
心のどこかでこうなるのではないかと思っていたが、いざ実際に起こると、エリーゼは目の前がぐらつき、悪夢を見ている心地だった。もう誰とも会いたくなくて、今なら地下室の図書室に何日でも閉じ籠っていられると思った。しかし運命は残酷だ。
「エリーゼ。みんながわたくしからあなたの婚約者を奪ったと誤解されないよう、舞踏会に出席してほしいの」
これまで唯一の理解者であった姉の懇願に、エリーゼはやはり断ることはできなかった。
舞踏会に参加できるようなドレスを一着も持っていないエリーゼのためにと姉が自分のもう着なくなったドレスを貸してくれたが、エリーゼはローデリカよりも背が低く、シックなデザインのドレスも着こなすことができなかった。
衛兵に扉を開けてもらう前から、自分が嘲笑される予感があった。
そしてそれはエリーゼの想像以上であった。
「まぁ、見て。みっともないほど裾を引きずって……」
「サイズが合っていないのが丸わかりね」
「あのドレス、エリーゼ様がローデリカ様から奪い取ったものなんでしょう?」
「まぁ。まるで乞食みたいな真似をなさるのね」
「昔からみたいよ。ローデリカ様の優しさに付け込んで、ローデリカ様のお菓子やドレスを強請ったみたい」
「婚約者だったイェルク様もでしょう? 本当はローデリカ様と相思相愛の関係だったのに、自分のものにしたとか」
「身体だけではなくて心も貧相な方なのね」
(みんな何を言っているの?)
人々はみな、エリーゼが我儘からローデリカの持ち物を奪ったと考えているようだった。
(あれはすべてお姉様がわたしに譲ってくださったものよ。わたし自ら欲しいなんて、そんなこと一言も言っていない!)
訂正したいのに、噂している人たちの顔を見れば、みなサッと顔を晒すか、睨み返され、嘲笑されるばかりだ。エリーゼは息をするのが苦しくなってきて、その場に立ち止まってしまう。
(だれか……だれか……)
エリーゼはきょろきょろと視線を彷徨わせ、姉であるローデリカが目に入ると、助けを求めるようにじっと見つめた。
しかし姉はなぜか怯えたような様子で隣に佇むイェルクに身を寄せた。
(お姉様……?)
なぜそんな自分を恐れるような――まるで人々が噂していることは本当だと肯定するような態度をとるのだろう。
「エリーゼ!」
抱いた違和感は、壇上から上がった鋭い声でかき消されてしまう。
見れば、記憶の中よりもいくらか老けた父の姿があった。相変わらず自分を恨んでおり、エリーゼは怖くてたまらない。
「お前がよからぬことをしないようわざわざ離宮に閉じ込めたというのに、お前はローデリカを騙して、ばれたら脅して、度々物をねだっていたそうだな」
「そんな、お父様、何かの誤解です!」
「黙れ!」
大勢の前で叱責されて身体をびくつかせるエリーゼを、人々はニヤニヤした表情で見ている。まるで小動物を痛めつけて愉しむ見世物を観客するかのように。
「お前は本当にろくでもない娘だ! この国にいるだけで耐えられん。ローデリカの代わりに大国へ嫁ぐがいい!」
そして二度と顔を見せるなと父は言い捨てると、まるで人が変わったようにローデリカのエリーゼに対する今までの献身ぶりを褒め称え、イェルクとの婚約を祝福した。
エリーゼはそれからどうやって自分が離宮まで帰ったかよく覚えていない。
盗人のようにこっそり逃げ出してきたのかしれない。どちらにせよ、今の自分の姿を誰にも見られたくなかったからちょうどよかった。
(だめ、だめよ、エリーゼ……誰かを恨んだら、今度こそみんなに嫌われてしまう……お父様たちの言う通り、呪われた子だと証明してしまう!)
震える身体を自分で抱きしめながら、エリーゼは必死に言い聞かせた。
(……そう。そうよ。お姉様が愛する人と結ばれる。今までよくしてくれたお姉様のために、わたしは恩返しができる。いいことじゃない)
辱しめられたような屈辱を覚えるのは間違いだ。きつく目を瞑り、何度拭っても溢れてくる涙で頬を濡らしながら、エリーゼは誰もいない部屋の隅で静かに泣き続けた。
どれくらいそうしていただろうか。途中様子を見に来た人間に最低限の世話をされたが、ろくに眠れず、また食事も喉を通らなかった。
(このままじゃ、だめ。しっかりしなくては……)
大国に嫁ぐ役目を仰せつかったのだ。
エクスタイン国の王女として無様な振る舞いはできない。
(でも、わたしは王女として相応しいのかしら)
初めて参加した舞踏会で、悪意に満ちた視線に晒されて気が動転してしまったせいもあるが、それがなくても、エリーゼは自分が王女として相応しい振る舞いをできたか自信がなかった。いや、きっと無理だ。
だって自分は、誰からも何も教わっていない。王族として受けるべき教育も、姉のような教養も。教わっていないことをしてみろと言われても、できるはずがない。
(どうしよう。どうすればいいの?)
嫁ぐはずの国はどこなのだろう。王子はどんな人となりなのか。会ったら何を話せばいい? 失礼な物言いをしてしまったらどうしよう。嫌われてしまったらエクスタイン国の人間全員に迷惑をかけてしまう。
(わたし……今まで何をしていたの?)
エリーゼは今初めて、離宮で隔離されて育てられてきた自分の環境を突きつけられた。
生まれてから今までの十八年という時間で得たもの。それは一体何だというのだ。
(どうしてこんなことになったの)
ガッシャーンとその時大きな音が響き渡り、エリーゼはビクッとした。
「な、なに?」
何か起こったのかとエリーゼは部屋を出て、びくびくしながら居間の方へ様子を見に行く。そこから人々の笑い声が聞こえたからだ。
「な……」
部屋を覗くと、使用人たちがまるで気が触れたように騒ぎ立てていた。
ワインボトルや花瓶などが床へ落ちたり壊れたりして水浸しになっているし、カーテンにぶら下がって遊び、布が無惨に引きちぎられて、幼児か動物でも暴れまくったかのような惨状が出来上がっていた。
「おや、エリーゼ様ではありませんか!」
「あはは、エリーゼ様! 今までどうもありがとうございました!」
エリーゼの姿に気づいた使用人たちは、王女に対する物言いとは思えない軽薄な態度で声をかけてきた。さらにそのうちの一人にぽんぽんと肩を叩かれて、腕を強引に引っ張られるかたちで部屋の中央へ引っ張り出された。
「これでやっとこの辛気臭い離宮から解放される!」
「あなたのような人間にもう仕えなくていい!」
「最高だ!」
「この世は天国だ!」
まるで危ない薬でも飲んでしまったような様子で彼らはエリーゼを囲んで言葉を吐くと、スキップしながら部屋から出て行ってしまった。
エリーゼはただ呆けたまま、もぬけの殻になった部屋に一人ポツンと取り残された。あまりにも衝撃が大きすぎて、彼らに贈られた毒の言葉が頭に入ってこない。
「まぁ、エリーゼ! これは一体どういうことなの!?」
次に現れたのは、姉のローデリカであった。
「お姉様……」
彼女は悲痛な表情で部屋の中を見渡し、最後にエリーゼに目を留めると、泣きそうな顔で、口元を手で覆った。
「あなた、とうとう狂ってしまったのね!」
「え……?」
ローデリカはつかつかとこちらへ歩み寄ってくると、何も言わなくていいのよとエリーゼを抱き寄せた。花のような甘い香りに今までずっと安らぎを覚えていたが、今はなぜか鳥肌が立つ思いだった。
「あなたは誰からも愛されず、初めて好きになったイェルクを姉であるわたくしに奪われてしまって、心が壊れてしまったのよね」
「何を、おっしゃっているの?」
エリーゼの心は確かに傷ついているが、部屋の中をこんなにしてしまうほど理性を手放したわけではない。
「お姉様、この部屋を滅茶苦茶にしたのはわたしではないわ! 使用人たちよ!」
「あぁ、エリーゼ……誰かのせいにしなければ、あなたは心の平穏を保っていられないのね」
身を捩って姉の腕の中から抜け出そうとしたエリーゼをローデリカはますます強く抱きしめてくる。姉にこんなにも力があったのかと驚いていると、耳元で囁かれた。
「精神に問題があるあなたを、大国へ嫁がせるわけにはいかないわ」
頬を撫でられたかと思えば、弱くも抗えない力で顔を上げさせられる。
目が合うと、姉はこの上なく美しく微笑んだ。
「大丈夫。あなたがこれ以上奇行に走らないよう、幽閉してもらうわ」
「幽閉?」
「そうよ。今以上に誰とも会わず、何も得られない環境で、死ぬまで、監禁され続ける生活を送るの」
今以上に。エリーゼは気づけば姉であるローデリカを突き飛ばし、化け物でも見るかのような表情で姉を見ていた。
「お姉様は、何をおっしゃっているの。幽閉なんて、そんな恐ろしいこと、認められないわ。わたしは正常だもの。だから、監禁される必要はないわ」
混乱と恐怖で、口が上手く回らないものの、エリーゼは必死に自分の無実を主張した。
姉ならば、わかってくれる。心のどこかでまだそんな希望があった。あってほしい。
「いいえ、あなたは幽閉されるの。そうでなくては、困るもの」
(どうして?)
心の中で問いかけるエリーゼに目を細め、ローデリカが近づいてきた。
逃げればいいのにエリーゼは全身に力が入らず、その場に座り込んでしまう。
「あのね、エリーゼ。わたくし、あなたが彼と結婚するのも許せないけれど、あなたが異国へ嫁いで王妃になるのも許せないの」
「え?」
ローデリカは笑みを深めて、エリーゼの頬を撫でる。
「あなたが生まれた時、お母様が亡くなった。お父様やお兄様、他のみんながあなたを疎ましく思ったわ。悪魔の子だなんて言われて、近くにいるとその人まで呪われてしまう。だから離宮で隔離することにした」
「そうよ。でも……お姉様だけはわたしに優しくしてくれた」
「ええ。そうすればみんな、わたくしのことを優しいお姫様だと思ってくれるから」
「どういう、こと? お姉様が何を言いたいのか、全然わからないわ。わたしのこと、嫌いだったの? 好き、って言ってくれたことも、全部嘘だったの?」
「いいえ、あなたのことは好きよ。今もよ、エリーゼ。でもそれは、あくまでもあなたがわたくしという存在を輝かし続ける存在であることが条件なの」
姉を輝かし続ける存在であること。
ふと、舞踏会で人々が自分を評していた言葉を思い出す。
『あのドレス、エリーゼ様がローデリカ様から奪い取ったものなんでしょう?』
『まぁ。まるで乞食みたいな真似をなさるのね』
『昔からみたいよ。ローデリカ様の優しさに付け込んで、ローデリカ様のお菓子やドレスを事あるごとに強請ったみたい』
『婚約者だったイェルク様もでしょう? 本当はローデリカ様と相思相愛の関係だったのに、自分のものにしたとか』
『身体だけではなくて心も貧相な方なのね』
「……お姉様は、わたしに我儘で、愚かな王女でいてほしいの?」
ローデリカは目を丸くして、次いで大輪の花が咲いたような艶やかな笑みで答えた。
「まぁ、エリーゼ。よくわかったわね。やっぱり地頭はいいのね。幽閉することになって正解だったわ」
答えを当てたものの、エリーゼの顔は真っ青になっていく。
「どうして……そんなこと、するの……そんなことしなくても、みんなお姉様のこと、好きでいてくれるわ。お姉様は素晴らしい人よ」
「嬉しいことを言ってくれるのね、エリーゼ。ええ、わたくしもそう思うわ。でもそれじゃあ足りないの。わたくしが聡明で美しい王女であると、馬鹿な人間にも理解させるには、同じくらい馬鹿な人間が必要なの」
あなたはわたくしの影なのよ、とローデリカは言った。
「可哀想に思って優しく接する姉を憎んで、姉が持っているものをすべてねだる強欲さがあるの。気に入らないことがあると物や使用人たちに八つ当たりする凶暴さがあるわ。姉に幼い頃から仕えて密かに慕う護衛騎士に横恋慕して、国王に頼んで無理矢理婚約者にしてもらういやらしさがある、人の気持ちなんて考えられない冷酷さと無神経さがある。本当に最低で、いいところなんて一つもない王女エリーゼ。それが、今までのあなたよ」
姉が淀みなく語る内容に正直頭が追いつかず、エリーゼはどう受け止めればいいかわからなかった。何を言えばいいかわからず、ただ、姉一人だけではその茶番を成立させるのは難しいのではないかと違和感を覚えた。
「使用人たちは……イェルクも、お父様も、他の方々も、お姉様の言葉を信じたの? わたしが、本当にそんな姫だと思っているの?」
「だから今、あなたの周りには誰もいないでしょう? 一人ぼっちでしょう?」
一人ぼっち。自分は、見捨てられたのだ。あの使用人たちの浮かれ具合は、もう自分と関わらずに済んで心底嬉しいと喜ぶ姿だったのだ。
(あぁ、わたしはなんて馬鹿だったのだろう……)
感情が抜け落ちていく気がして、疲労がずっしりと肩に重くのしかかってくる。
「……イェルクと結婚したいのならば、初めからそうお父様に頼めばよかったではありませんか」
あの舞踏会で見た様子だと、父は自分以外の子どもは愛しているようだった。娘の婚約者をあっさりと変えてくれたことからも、ローデリカが最初から懇願すればきっと聞き入れてくれたはずだ。
「それでは、本当はわたくしが好きなのに無理矢理あなたの婚約者にさせられて、それでもわたくしへの想いを抑えきれず、強引に口づけしてしまうイェルクが見られなかったでしょう?」
(なに、それ……)
姉は恋愛小説のような体験を自分で体験したかったようだ。
「……大国へ嫁ぐことは王族の義務ではないの? 国同士の問題に発展したりしないの?」
「それはお父様が何とかしてくれるから大丈夫よ。それに、容姿も冴えない、教養もないあなたを嫁がせることの方が問題になるわ。王太子殿下もがっかりなさるわ」
反論できないことがこの上なく悔しい。
「大丈夫よ、エリーゼ。だからこそあなたは狂った女として幽閉されるもの。さすがにそんな女の血を後世に残すわけにはいかないもの。ああ、もしかすると、わたくしとイェルクが産んだ子どもが向こうへ嫁ぐことになるかもしれないわね。ますますあなたは幽閉された方がいいのよ」
ローデリカの言葉を、声を、もう聴きたくないと思った。
耳を塞いで蹲るエリーゼを慰めるようにローデリカは背中を撫でた。
「三日後。迎えが来るわ。それまでに荷物をまとめておきなさい」
エリーゼは何も言えないまま、部屋を後にするローデリカを見送った。
「……ふ、ふふ……あはははは」
もし誰かこの場に残っていれば、突然笑い出したエリーゼを見て本当に気が狂ってしまったと思うだろう。
でも、誰もいなかった。こんな滑稽な自分を見て笑ってくれる人間さえいないのだ。
(お姉様はわたしのことなんて好きじゃなかった。可哀想に思って優しく接してくれたのではなかった。自分のためにわたしをただ利用していただけだった!)
それなのにすっかり姉を信じてしまって、自分は何て馬鹿なのだろう。ローデリカが恐ろしく、憎らしい気持ちもあるはずなのに、それよりも唯一の庇護者を失ってしまったことに深く絶望する自分がいる。何も知らないままでいれば、ローデリカにだけは愛されていると信じることができたかもしれない……と後悔する自分が確かにいるのだ。
(わたしは本当に誰からも愛されていなかったのね……)
その事実にエリーゼは耐え切れず、ぽろぽろと絨毯に涙を落とした。
(このまま生き続けても、お姉様の都合のいい人形でしかない)
ならばいっそ――
気づけばエリーゼはふらふらと立ち上がって、部屋を出ていた。
どこへ向かっているのか、自分でもよくわからないまま、地下室へ通じる扉を開けて、真っ暗な階段を下りていく。
(ふふ……)
まるで地獄へ通じる道のようだと思って自然と笑みを零していた。地下の書庫に着くと、隙間なくぎっしりと詰まった書棚から一冊の本を取り出す。以前一度読んで、試してみたい誘惑に駆られたものの、その時はいけないことだと理性が働いてやめた。しかしもう理性は失われた。
死者を蘇らせる禁忌の術を実行して、それで命が失われても痛くも痒くもない。
(幽閉されて生き続けるなんて、死んでいるのと同じことだもの)
だから今死んでも構わない。だがその前に亡くなった母親に会いたい。
命懸けで自分を産んでくれた母ならば、自分を愛しているはずだ。
この世に一人くらい、エリーゼという人間を愛する人がいることを証明したい。
(そうしたら、もう心置きなく死ねるわ)
そう思って、本に書かれている手順通りに母を呼び出す儀式をしたはずだが――
「貴様は誰だ?」
現われたのは母ではなかった。
太陽のような黄金の眩しさを放つ、見目麗しい美丈夫だった。




