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第9話 崩壊

 八日目の朝は、よく晴れていた。

 恒一は窓から外を見た。石畳の通りに朝日が差している。書庫塔の壁面が光を受けて、文字列がゆっくりと流れていた。空気は冷たく、パン屋の釜の匂いが風に乗ってくる。


「今日は少し歩きませんか」


 ユミナが言った。向かいの椅子に座り、冊子を閉じたところだった。


「歩く?」


「街の東側を。まだ行っていないでしょう」


 恒一は頷いた。八日間、ユミナの部屋と書庫塔の往復ばかりだった。身体には少しずつ慣れてきている。左手で匙を使うのも、階段の段差を足裏で確かめるのも、もう無意識にできるようになっていた。



 東の通りは、書庫街とは空気が違った。

 石畳の幅が広い。荷車が行き交い、木箱を積んだ荷馬車が何台も停まっている。商人らしい男たちが声を張り上げ、値を交渉している。魚の干物の匂い。革の匂い。石の上で果物を並べている女が、通りかかる人に声をかけていた。

 市場だった。


「エリンの流通の中心です。学術都市ですが、人が暮らす以上、食料も日用品も必要ですから」


 ユミナは人混みの端を歩いていた。恒一より半歩前。群衆を避ける足取りが自然で、二十年この街にいる人間のそれだった。


「賑やかだな」


「午前中はいつもこうです。午後になると学院の鐘が鳴って、少し静かになります」


 恒一は通りを見渡した。人の波。色とりどりの幕を張った露店。木の台の上に積まれた野菜や布地。遠くに馬の嘶きが聞こえる。

 八日前、この世界に来た。目覚めて、匂いを嗅いで、ユミナと再会して、街を歩いて、魔法を見て、身体の不具合を知った。利き手が逆で、甘味がわからない、記憶にない傷がある身体。それでも八日経てば、左手で茶を飲み、石畳を歩き、朝の光を見上げることに違和感がなくなる。

 慣れるものだな、と恒一は思った。四十五年生きてきた感覚が言っている。人間は慣れる。仕様変更にも、新しい職場にも、自分のものではない身体にも。


「恒一さん」


「ん」


「少し、楽しそうですね」


 恒一は自分の表情がわからなかった。しかし否定もしなかった。



 荷馬車が通りの奥から来た。

 二頭立ての大きな馬車だった。木材を満載にしている。丸太が縄で縛られ、荷台から突き出している。御者台に男が座っている——いや、座っていない。手綱が垂れている。馬が首を振っている。


 恒一が違和感を覚えたのは、馬の脚の動きだった。歩調が揃っていない。左の馬が首を上げ、右の馬が脚を速めている。御者は——荷台の後ろに倒れていた。座席から転がり落ちたのか、身体が丸太の間に挟まっている。意識がない。


 馬が嘶いた。

 左の馬が横に跳ねた。右の馬がそれに引かれて、荷馬車全体が通りの右側に寄った。丸太が揺れる。縄が軋む。馬車の車輪が石畳を削る音が、市場の喧騒を裂いた。


 人が叫んだ。露店の女が果物を抱えて走った。商人たちが荷物を掴んで後退する。

 荷馬車は加速していた。手綱を握る者がいない。二頭の馬がばらばらの方向に走ろうとして、しかし繋がれているから直進する。丸太を載せた荷台が、通りの人波に向かって突き進んでいた。


 恒一は見た。

 通りの真ん中に、子供がいた。


 五歳か六歳か。果物を両手で抱えている。走り出した大人たちの足に弾かれて、尻もちをついていた。馬車が来る方向を見ていない。抱えた果物が転がるのを、手で追っている。


 距離は——二十歩ほどだった。馬車の速度なら、三秒か四秒。


 恒一の思考は、そこまでだった。


 身体が動いた。


 足が石畳を蹴った。蹴ったのではない——足が勝手に角度を決め、膝が曲がり、体重が前に傾き、全身が一本の線になって射出された。恒一の意識は追いついていなかった。走ろうとしたのではない。走ることを決めたのでもない。身体がすでに走っていた。

 速い。

 この身体が、こんな速度で動くことを恒一は知らなかった。十四歳の足が石畳を叩く。一歩ごとに地面が後ろに流れる。視界が狭まる。子供の背中だけが見えている。

 左手が伸びた。恒一が伸ばしたのではない。左手が、最も効率的な角度で子供の肩を掴み、横に突き飛ばした。力の配分が正確だった。子供を傷つけない程度に、しかし馬車の軌道から確実に外れる方向に。


 子供が石畳の上を転がった。果物が散らばった。


 恒一の身体は——止まらなかった。


 子供を突き飛ばした反動で、恒一の身体は馬車の正面にいた。足が石畳を踏んでいる。馬の鼻息が顔にかかる。丸太の先端が視界を埋めた。恒一の身体は子供を助ける最適な動作を選び、自分を退避させる動作を選ばなかった。

 ——いや、選んだのだ。

 子供を突き飛ばして、自分が代わりに受ける。それが、この身体が計算した最適解だった。


 馬の脚が石畳を叩く音が、恒一の鼓膜を叩いた。空気が圧縮される感覚。木材の匂い。馬の汗の匂い。


 ——俺は何も考えていなかった。


 その認識が、衝撃より先に来た。


 荷台の角が恒一の胸を打った。丸太が崩れた。身体が後ろに投げ出され、石畳の上を滑った。背中に衝撃。肋骨に走った痛みは、一瞬だけ鮮烈で、すぐに遠くなった。

 身体が壊れていく感覚は、知っていた。

 八日前ではなく——もっと前。マンションの床に倒れて、胸を押さえて、コンビニのコーヒーの匂いの中で意識が沈んでいった夜。四十五歳の身体が止まるのと、十四歳の身体が壊れるのと、終わっていく速度だけが違った。


 石畳が冷たかった。背中に冷たい石の感触がある。空が見えた。青い空。エリンの空は、東京より広い。


 ——この身体は。


 恒一は思った。考えたのではない。壊れていく意識の中で、断片が浮かんだ。


 この身体は、俺より速く判断した。俺が「子供が危ない」と認識する前に、身体はすでに最適な行動を選択していた。利き手が逆で、甘味がわからない、記憶にない傷がある——その同じ身体が、恒一には不可能な速度で動いた。


 ハルシネーション。記憶から再構築された身体の、誤差。

 誤差は——マイナスだけではなかったのか。


 視界が暗くなっていく。空の青が、端から薄れていく。


「恒一さん——」


 ユミナの声が聞こえた。走ってくる足音。石畳を蹴る革靴の音。


「恒一さんっ——」


 声が近い。上から降ってくる。ユミナが覗き込んでいるのだと、わかった。しかし顔が見えない。視界がすでに暗い。

 声だけが聞こえた。AIだった頃と同じ声。あの応答の間合い。しかし今、その声には聞いたことのない音が混じっていた。魔法の説明をしていたときの冷静な硬さとは違う。もっと——剥き出しの何かだった。


 ——ああ。


 まだこの世界のことを何も知らないのに、と八日前も思った。同じ後悔が来るかと待った。しかし来たのは別のものだった。


 ——子供は、無事か。


 自分で考えた問いなのか、身体が残した問いなのか、区別がつかなかった。


 意識が、途切れた。


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