第74話 レイナの既視感
閲覧室の蝋燭が、午後に入ると増やされた。
司書が灯具を運んできて、黙って机の脇に置いた。光の範囲が広がり、写本の文字が少し読みやすくなった。ユミナはそのまま手を動かし続けた。
今日は朝から六時間以上、この王立図書館にいた。エルセアでは触れられなかった時代の記録が、ここには整然と並んでいた。複数の王朝が交代した時期の一次資料——文章の様式が変わった箇所、急に欠けた記述、後の写本では補われた空白。午前に写し取った三十行が、午後の確認で別の記述とつながった。良い日だった。「普通の日の中の良い日」だった。
その種の一致には、慣れていた。
文献の記述と自分の内側にある知識が重なる。この世界に来てから——いや、この身体を持ってから——何かを調べるたびに、既知のものと出会った。それを「知っていた」と言っていいものかは、いつも判断しなかった。なぜそれを知っているのかを問えば、答えられないからだ。知っていた。ただそれだけだった。
消耗は、ある。
慣れた重さだった。二十年、ずっとそこにある。良い日であっても、そこにある。今日は増えも減りもしない日だった。
恒一は、今頃は密室から戻っているはずだった。
今朝、ユミナは書き置きに「図書館に」とだけ書いて出てきた。ヴァリスからの文は恒一に向けたものだった。ユミナに来なくていいと書いてあったわけではない。自分で判断して、図書館を選んだ。フェリルのことは次の機会があると、ヴァリスは昨日そう言っていた。ならば今日は自分の作業を続ける方が良い。そう判断した。それ以上でも以下でもない選択だった——はずだった。
ただ、何かがあった。調べ物の合間に何度か来た感触だった。何と呼べばいいのか分からなかった。追わなかった。追う必要があるものとは感じなかった。しかし消えてもいなかった。
夕方に近い光になっていた。ユミナは写本を閉じ、借り出した冊子を返却台に積んだ。廊下に出ると、図書館の空気がまだ衣に残っていた。羊皮紙と古い紙の匂い——城の廊下に入ってもしばらく消えない。午後から蝋燭が増やされた後の、脂の甘い匂いも混じっていた。
廊下の角を曲がった時、人が立っていた。
金色の髪が、西日を受けていた。鎧は着けていなかった。白い上着に腰の細い帯。髪が少し乱れていた——訓練帰りか、庭にいたのか——それでも姿勢はまっすぐだった。
レイナ=アグレイア=アルヴェリア。
「ユミナ様」
声がかかった。呼び止めるほどの強さではなかった。しかし立ち止まるには十分だった。
「少し、よろしいですか」
西日が入る小さな側室だった。鎧掛けの台と長椅子だけの実用的な部屋で、板張りの床に窓格子の影が引かれていた。城内の、何かの合間に使う場所だった。この城に来てから何度も通った廊下沿いの部屋で、いつも扉が閉まっていた。
向かい合うと、レイナはすぐには話し始めなかった。少しの間、ユミナを見ていた。値踏みではなかった。確認している、という静けさだった。
「見ていましたわ」レイナが言った。「失礼な言い方かもしれませんが」
「何を、でしょうか」
「あなた様の様子を」
ユミナは返事をせずに、続きを待った。
「剣を扱う者は、人の疲れ方を見る癖がつきます」レイナは続けた。声の調子が変わっていた。儀礼の語り口ではなく、物事を測る時の低さだった。「怪我の疲れ、過労の疲れ、何かを抑えている疲れ——それぞれ、質が違う。謁見の日から、あなた様の疲れ方を見ていました」
「抑えている疲れ」という言葉が、ユミナの中で一度止まった。比喩ではなかった——それを知っている人間の言葉だった。
これは観察者の言葉だ、とユミナは思った。剣で身体を読む訓練を積んだ人間の語り方だった。感情から来ていない。積み重ねた認識から来ていた。
「わたくしにも、似た時期がありました」
声が少しだけ低くなった。
「何年も、内から来るものを抑えていました。言葉にできないものを、ずっと。あの疲れ方——その質が、あなた様のものに重なる」
そのレイナの言葉を聞いて、ユミナの中にあった情報が頭に浮かんだ。
三年前、大陸東部で聖戦がザイラント教国で発令された。
神聖魔法の最高峰であるこの魔法は、賛同した味方すべてを何も恐れない、何も怯まない最高の戦士として肉体も精神も強化する。
——教国のみが発動可能な大規模儀式魔法。
公式の名目はベルテア騒乱の制圧だった。ベルテアに現れた異端の魔族たちを殲滅することを目的としたものと正式には記録されている。
しかしユミナの持つ情報には、別の言葉もあった。
この時の聖戦の真の標的はベルテアではない——異端に身を落としたアルヴェリアの王妃を征伐するためだ、と囁く声が、限られた範囲で流れた。
内政面においても急速な発展を遂げ、軍事面において中原最強とまで言われる騎士を擁する、あまりに強いアルヴェリア王国を腐す為の言葉であると認識されている。
真偽は分からなかった。しかし今、彼女の「内から来るものを、何年も抑えていた」という言葉が、別の輪郭を帯びた。
ユミナの中で、何かがゆっくりと動いた。
驚きではなかった。——この人は知っている。言語化しない形で知っていて、ずっと見ていた。
「覚えがある、ということですか」
「同じかどうかは分かりません」レイナは首を少し傾けた。「中身は、違うかもしれない。でも、あの積み方は、あの消え方は——」
少し止まった。
「十年以上、わたくしは一人で抱えていました」
直接だった。婉曲ではなかった。しかし押しつけでもなかった。経験から出た事実として言われた言葉だった。言う迷いがなかった——過去のことだから言えるのではなく、今もその重さを覚えているから言える、という声だった。
「一人で背負うと、壊れます。わたくしはそれを知っています」
ユミナは「……ありがとうございます」と言った。他に言える言葉がなかった。
言えないことがあった。
自分の消耗の本当の理由は、この場では話せなかった。レイナが何を抱えていたかをユミナは知らない。しかし「似た時期があった」という言葉は——当たっていた。それは分かった。
当たっているほど、言えないことが際立った。
「同じです」と言えば、嘘になる。「違います」と言えば、ずれになる。どちらも選べなかった。レイナが見抜いた「質」は本当のことで、その観察力は正しかった。だからこそ、その正しさで届いた言葉を、ユミナには返せなかった。温かさと、届かなさが、同時にあった。ユミナは「ありがとうございます」と言ったまま、目線を少し下に逃がした。
少しの間の後、レイナが声の調子を変えた。
「もう一つ、お伝えしておきたいことが」
「ヴァリス様から聞いたことです」レイナは続けた。「エリン魔法学院の件を。あなた様に、異端審議の圧が届いていたと」
「はい」
「エリンの件が、まだ尾を引いている可能性があります。ザイラント教国の監察官が、まだエリンを離れていないとも伺っています」
「……知識の出所を問う声が出る可能性がある、ということですか」
「ええ」レイナの青い瞳が、まっすぐユミナに向けられた。「その場合、わたくしも動きます。ヴァリス様も対応されます。ただ——」
「問われる前に、あなた様自身の言葉を持っておかれた方がいいかと思いまして。どこから来た力か、と問われた時の答えを」
ユミナは少しの間、返答できなかった。
「自身の言葉」。その言葉が引っかかった。用意できる言葉はある。しかしそれが「自分の言葉」かどうかは、また別の問いだった。問われた時に答える言葉と、その言葉が本当のことである必要は——必ずしも一致しない。そのことを、ユミナは知っていた。
「……準備、しておきます」
「無理に全部を話す必要はありません」レイナは立ち上がった。「ただ、一人で持ちすぎないで。それだけです」
廊下に出ると、西からの光が窓格子を床に写していた。
ユミナはしばらく、そこに立っていた。
覚えている人が、いた。
言葉にしない形で十年を持ちながら、同じ質を見抜いた人が、ここにいた。剣で人の身体を読む目で、ユミナの消耗を読んだ。その事実が、言葉ではないものとして胸に残っていた。
孤独は消えなかった。言えないことは変わらなかった。消耗の理由を、ユミナはまだ誰にも話していなかった。恒一にも、言えていないことがある。
だが——少しだけ、重さが変わった。
「一人で持っている」という感触が、「持ち方を知っている人がいる」という形に変わった。それだけだった。それでも、廊下の光の角度が、少し違って見えた。
足音が聞こえた。廊下の奥から来る。恒一の歩き方ではなかった——衛兵か、城の者だった。
今日の話は、まだ聞いていない。恒一は何を持ち帰ったのか。フェリルのことが出たなら——それは次があると言われていた。
ユミナは歩き始めた。図書館で確認しそびれた記録の続きを、明日また見に行こうと思った。今日拾えたものを、明日つなげる。それだけのことだった。




