第72話 密室
翌日の午後、カルスが宿舎に迎えに来た。
「ご案内いたします」
帳面を持っていなかった。手ぶらのカルスは、恒一が見る限り初めてだった。
恒一とユミナは後に続いた。城の表門は通らなかった。中庭を横切り、渡り廊下を二度折れて、公的な区画から離れていった。人の気配が減った。廊下の天井が低くなり、石壁が近くなった。足音が変わった——石畳から板張りへ、音の響き方が短くなった。蝋燭の灯が等間隔に壁面を照らしていた。城の中でも、記録のための空間だと分かる造りだった。使われているが、格式はない。
小さな扉の前で、カルスが立ち止まった。一度振り返って二人を確認してから、扉を開けた。
狭い部屋だった。壁の二面を書棚が覆い、机が一つ、椅子が四脚。窓は一つだけで、午後の光が斜めに射し込んでいた。古い紙の匂いと、半分まで燃え落ちた蝋の甘い匂いが混じっていた。実務用の机に並んだ椅子は装飾がない。記録の作業に使われる部屋だった。公式の応接室ではなく、誰かが実際に仕事をするために使う場所だった。
ヴァリスが窓際に立っていた。謁見の時の衣装ではなかった。白い上衣に薄い灰色のマント。杖も魔法書も持っていなかった。
もう一人、書棚の傍に女性が立っていた。銀白色の長い髪。薄く赤みがかった瞳。緑のリボンのヘアアクセサリー。胸元にエヴァレット家の紋章が控えめに入った落ち着いた装い。部屋の隅にいることが自然な人間のように、静かに立っていた。
フェリル=エヴァレット。名前だけは聞いていた。エヴァレット伯爵令嬢。対外的にはほとんど姿を見せない人物だと、カルスから聞いた覚えがあった。
カルスが一礼して退室した。扉が閉まった。足音が遠ざかり、やがて消えた。
静かになった。
ヴァリスが二人を見た。窓を背にした顔に午後の光が当たっていた。謁見の時の格調が——わずかに、外れた。表情が変わったのではなかった。何かを保つのを、やめたような顔だった。
「ようこそ、アルヴェリアの御飯は口に合いましたか?」
「ええ、美味しい……」
恒一は言いかけてヴァリスの顔を見る、隣にいるフェリルは少し笑みを浮かべ、こちらに視線を送る。
この世界の言葉は自然と通じてしまう——だからこそ、その違和感に気づくのが遅れた。
この世界で食事を指して主食の話をするのは変だ。この世界にも穀物は存在するが、そう表現する人間も違和感を感じない人間も。
日本人だ。
ユミナを見た。ユミナは動かなかった。目だけがヴァリスを見ていた。驚きの色はなかった。
フェリルも聞き慣れない言葉に戸惑う気配はなかった。——知っている、という静けさだった。この場に立ち会っているのが自然なことだ、という落ち着き方だった。
「……やはり」
恒一は言った。声が思ったよりも平坦だった。
ヴァリスが椅子を示した。「座ってください」
四人が座った。椅子は硬かった。実務用の造りだった。フェリルは机の端に手を置いて、何も言わずに恒一たちを見ていた。発言を控えているのではなく、観察しているという静けさだった。
「まあ、私と違い、名前が名前だけに確認する必要はなかったかもしれませんが」ヴァリスは言った。口調が違った。公の場の語り方ではなかった。
「あなたは——前の世界、日本に住んでいた時の記憶を持って、ここに来ている、日本人ですね」
恒一に向けた言葉だった。
「はい」
ヴァリスは恒一のその言葉に満足気な顔を浮かべるとユミナに目を向ける。
「しかし、わからないのはこちらです。ユミナ殿は」
視線がユミナに移った。
「私はこの方との契約に基づいてこの世界に来ました」ユミナが答えた。声は落ち着いていた。「経緯は恒一さんとは異なりますが、前の世界についての記憶はあります」
「契約」という言葉に、ヴァリスの目がわずかに動いた。しかし追わなかった。
「私は二十数年前に、この世界で生まれています」ヴァリスは続けた。「前の世界の記憶を持ったまま、赤子として」
二十数年。恒一は数字を受け取った。自分がこの世界に来てから、まだ数ヶ月だった。その短さと、目の前の人間が持つ時間の長さが、静かに対比として置かれた。この人間は、前の記憶を持ったまま赤子として育ち、子供として育ち、王族として育ち——それを一度も口にせずに生きてきた。言葉があるのに使えない沈黙が、二十年以上続いた。
ヴァリスが窓の方に一度だけ視線を流し、戻した。背もたれに体重を少し預けた。
「前の世界では……地方公務員だった」主語がなかった。語尾が変わった。公の言葉ではない話し方——同じ場所から来た者同士の間でのみ成立する、そういう話し方だった。「下水道の部署に十年いた。この国の水路を整備した時に——あの経験が、そのまま役に立った」
恒一は黙って聞いた。水路の設計。勾配と流量の制御。石畳の摩耗を均す動線。精霊機関車の熱を問う思考。農業の改良。——全部が、同じ場所から来ていた。前の世界で十年かけて積み上げた専門知識が、この世界でそのまま形になった。二十年以上、それを一人で抱えて実現してきた人間が、目の前にいた。
「コウイチは?」
「会社員でした」恒一は答えた。「管理職を少し」
しばらく間があった。ヴァリスは窓の方を一度見て、視線を戻した。
「……これは、フェリル以外には話したことがなかった。レイナにも、ミリアにも」
独り言に近かった。声にわずかな重さがあった。
王妃レイナ、そして聖女ミリア。
彼女たちは現実世界に関することを知らない、つまり、転生者ではないということか。
少なくとも王妃であるレイナにも二十年以上の沈黙をしていたのか、と想像することはできたが、それを言葉にするのは違った。
フェリルが膝の上で手を組み替えた。それだけだった。表情は変わらなかった。
逆に言えば、この隣にいる銀髪の女性フェリルは……転生者であるということになる。
「一つ頼みがある」ヴァリスが言った。「このことは——フェリル以外には話さないでほしい。知る者はいない」
「話しません」
即答だった。
「……理由を聞いても」
「あなたがそれを公にしない理由と、同じだろうと思います」
間があった。ヴァリスの口の端がわずかに緩んだ。笑みとまでは呼べなかったが、何かが通じた感触があった。
「まだ話したいことがある」ヴァリスは立ち上がった。「フェリルのことも含めて。——ただ、今日はここまでにする。また機会を作る」
恒一は頷いた。フェリルのことも含めて——その言葉が引っかかった。だが今は聞かなかった。
フェリルが立ち上がった。
「フェリル=エヴァレットです」声は穏やかで、低かった。「よろしくお願いします」
何かを言いかけて、止めたような間があった。
「コイチです」恒一は言った。前の世界での名前——三枝恒一——を、続けて一度だけ声にした。「こちらではコイチと呼んでください」
フェリルが小さく頷いた。それからユミナに目を向けた。「ユミナ様。……お会いできてよかった」
ユミナが会釈を返した。
カルスが廊下で待っていた。城の表側に向かって歩き始めると、渡り廊下に午後の光が入っていた。石壁が温かかった。窓の外では、城下の屋根が光を受けて鈍く光っていた。
ユミナの横顔を見た。何かを考えている顔だった。何を考えているかは分からなかった。昨夜「推測はしていました」と言った時の声が、まだ耳に残っていた。あの先に、まだ何かがある気がした。しかし今は聞かなかった。フェリルのことも含めて、次の密室がある。それまで待てばいい。
二十数年。前の世界の記憶を抱えたまま王になり、下水道の十年を水路に変え、農業を変え、衛生を変えた人間がいる。誰にも言わずに、一人で。
——自分だけでは、なかった。
孤独だったのは自分だけでもなかった、という意味ではない。それぞれが、それぞれの形で、別々に抱えていた。ただ、同じ場所から来た人間が、確かに存在していた。
その事実が、静かに重かった。




