第70話 聖女の眼差し
翌朝、学院の担当者に案内されて試験線へ向かった。
担当者はカルスという名の三十代の男だった。ヴァリスから直接任命されたと言っていた。口数が少なく、歩き方が速かった。「停止記録は全て手元にあります。気温の記録も、陛下の指示で半年前から続けています」——説明の言葉に無駄がなかった。
「天候と気温の記録を」ユミナが確認した。
「停止が起きた時刻と照合しています」
ユミナは頷いた。何かが答え合わせになったような、短い頷きだった。
試験線は、街路の端に沿って敷設された二本の金属軌道だった。砂利が敷かれた区画が通りから少し外れた場所に細長く続いていて、端に精霊機関車が止まっていた。距離にして百歩ほど——前世の感覚では七十メートルに満たないか、と恒一は踏んだ。試験用にしては長くない。
近づくと、熱気があった。
金属のこもった匂いがした。ターレ港の加工工場で嗅いだ鉄の匂いに似ていたが、それだけではなかった。水が熱を持った時の、蒸気に変わる手前の匂いが混じっていた。前部の鉄の箱——精霊炉と思われる部分の周囲から、白い蒸気が細く漏れていた。煙ではなかった。
車体の前部から中部にかけて、パイプが何本か走っていた。外見からだけでは、どのパイプが蒸気を通すもので、どれが熱を逃がすものか分からなかった。軌道の上に乗っている車体は、馬車の窓から見ていた時より背が高かった。近くにいると、金属が微かに軋む音が聞こえた。
作業員が三人、軌道の周辺にいた。カルスが声をかけると、年配の一人が前に出た。
「まず確認させてください」ユミナは言った。「停止が起きた直後に、精霊炉の外壁温度を計測したことはありますか」
「外壁の……」作業員が顔を見合わせた。「内部の温度は見ていますが」
「外壁でいいです。内部との温度差を見たい。次に停止した時に、外壁の三ヶ所を手で確認して、どこが一番熱いか教えてもらえますか」
「革手袋があれば触れます」カルスが補足した。
年配の作業員が頷いた。怪訝ではあったが、否定する様子ではなかった。
聞き取りが続いた。停止の前に何かが変わるか——騒音の種類、蒸気の量、車体の揺れ方。気温が低い日と高い日で停止の頻度が違うか。ユミナは答えを引き出した。記録帳を受け取って読んだ。ページをめくる手が止まらなかった。
恒一は少し後ろで、精霊機関車の外側を見ていた。
火の精霊と水の精霊を使って蒸気を作り出す。戦時は精霊力を惜しまず大量に注ぎ込んで動かした。今は少ない精霊力で効率よく動かす方法を模索している——というのが問題の核心だと、ユミナから概要は聞いていた。
燃費の問題だ、と恒一は整理した。前世の言葉で言えば。
視線をユミナの方へ向けた時、魔力感知を使いかけた。無意識だった。ユミナが記録帳のページをめくる手を早めた時、何かが引っかかった。いつもと違う。どこかが、普段と違う。
気づいた瞬間に仕舞った。
ユミナの身体の内側を無断で読むのは、違う気がした。何かを感じる前に、止めた。ただ——仕舞った後も、引っかかりは消えなかった。
振動が変わった。
わずかだった。しかし分かった。低くなめらかだった振動が、少しだけ乱れた。
ユミナが記録帳から目を上げた。作業員たちが互いに顔を見た。
精霊機関車が止まった。
蒸気が一度、大きく吹き出した。金属の軋む音がして、振動が消えた。作業員の一人が走り寄った。
ユミナが精霊炉の前に立った。何かを見ていた。魔力感知を展開していると分かったのは、目の焦点がわずかに変わったからだった。見ているのではなく、「読んでいる」時の顔だった。
「外壁の確認をお願いします」ユミナが作業員に言った。
「ここと、ここと——」手で三点を示した。
作業員が革手袋で触れた。「一番熱いのは……真ん中ですね。上と下は差がない」
「真ん中だけが熱い」ユミナは繰り返した。独り言のように。「上下に熱が回っていない」
続けなかった。自分の中で確認が取れた、という静けさだった。
後ろから声がした。
「また止まりましたね」
振り向くと、女が一人立っていた。栗色のセミロング。右サイドに赤いバラのヘアアクセサリーがあった。白いフリルのブラウスに黒のコルセット、首元には赤いリボンタイ。外見は恒一より少し年上か。
「見ていたんですか」カルスが礼を保ちながら言った。
「通りかかったら止まったから」女は言った。「最近また増えてるって聞いてて、気になって」
声の調子が軽かった。
女の視線が恒一の方へ来た。
ヴァリスの一瞥とは違う種類の——でも似た密度の視線だった。何かを「見て」、すぐ外れた。
「ねえ、少年。名前は?」
突然だった。
「……コイチです」
「コイチくん」女はあっさりと繰り返した。「私はミリア=エルフェイン。よろしく」
礼を取るわけでも構えるわけでもなかった。隣の人に話しかけるような自然な言い方だった。
その視線が、今度はユミナへ動いた。
「あ——ユミナちゃんだ!」
声のトーンが上がった。
恒一の隣で、ユミナが止まった。
「ずっと会いたかったんだよね」ミリアは言った。「エリンで最高峰の導師が来てるって聞いて、もしかしてって思ってたの。実物を見たら確信した」
数える間があった。
恒一はユミナを見た。
固まっていた。「固まっている」という言い方以外に見つからなかった。口が開いたが何も出なかった。瞬きが一回、遅れた。ユミナなら、こういう種類の場面でとっくに返答を選んでいるはずだった。その速度が、なかった。
こういう顔を恒一は見たことがなかった。
「……ミリア=エルフェイン殿」ユミナはようやく言った。声の抑揚が、かすかに平板だった。「お名前は存じています」
「堅くしなくていいよ。ユミナちゃんてもう呼んじゃったけど、いい?」
「……構いません」
ミリアがユミナの方へ一歩近づいた。遠慮のない、自然な距離の詰め方だった。手が一度、ユミナの袖の近くまで来た——触れなかった。触れるつもりがなかったのか、触れる直前に自然に引いたのか、どちらとも見えなかった。
「精霊機関車の診断してるの? もう原因は分かった?」
「……外壁の温度分布から、熱が上下に回っていないと判断しています」
「速いね。もうそこまで」
ユミナが短く頷いた。表情は整っていた。しかし恒一の位置からは見えた——ユミナの視線がミリアを一分も離れなかった。会話しながら、ミリアの動作を常に正確に追っていた。普段の「観察」ではなかった。もっと鋭く、張り詰めた追い方だった。
恒一には理由が分からなかった。
ミリアの方はそれに気づいた様子がなかった。精霊機関車の構造について気楽に話し続け、ユミナは短い言葉で応えた。
しばらくして、ミリアが言った。
「また来てもいい? 診断の続き、見てみたいんだけど」
「……診断の妨げにならない範囲であれば」
「やった。じゃあコイチくん、またね」
軽く手を振って、ミリアは去った。栗色の髪が街路の人の流れに溶けていった。
間があった。
恒一はユミナを見た。ユミナは精霊機関車の方を向いていた。背中の、ほんのわずかな緊張が解けた形に見えた。ほんのわずか。見ていなければ気づかないほど。それだけ、張っていたということだった。
「ユミナ」
ユミナが振り返った。何を聞くつもりだったかを整える前に、答えが来た。
「……今は、説明できません」
声は平らだった。感情を抑えているのとは違う——言葉がそこで終わると決まっている、という種類の静けさだった。
恒一は少し間を置いた。「……分かった」
それだけで終わった。ユミナが精霊機関車の方へ視線を戻した。肩の緊張が、完全には解けなかった。
精霊機関車の作業員が動いていた。炉の前部を開けて、内部を覗き込んでいた。カルスが記録を取っていた。
「明日から本格的な診断を始めます」ユミナがカルスに言った。「内部の熱の流れを確認したい。作業員の方に中を見せてもらえますか」
「手配します」
ユミナが頷いた。
試験線の午後が続いた。引っかかりは、消えなかった。




