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第7話 学術都市

 六日目になって、恒一はようやく一人で階段を上り下りできるようになった。

 ユミナが毎朝運んでくる食事——穀物を潰した平パンと、苦い茶と、干した果実——を食べ、窓から街を眺め、部屋に戻る。それだけの日課に、身体が慣れつつあった。左手の扱いにも少しずつ馴染んでいる。匙を落とす回数は減った。甘味は相変わらずわからない。


「今日は少し遠くまで歩けそうですか」


 朝食の後、ユミナが訊いた。


「どのくらい遠くだ」


「書庫塔の中に入ります。この建物から百歩ほどです」


 百歩。先日の広場までは二百歩で足が限界だった。百歩なら行ける。


「行く」


 外に出た。朝の空気が冷たい。石畳の上を歩く。六日目にして、この靴の底が石を踏む感触にも慣れてきた。革の靴底は硬く、歩くたびに足裏で石畳の継ぎ目が数えられる。

 書庫塔は、恒一が寝泊まりしている建物のすぐ隣にあった。近くで見ると、思ったより太い。塔というより、円筒形の建築物だ。壁面に刻まれた文字列が、朝日を受けて淡く光っている。


「この文字は読めるのか」


「はい。文献魔法(アーカイブアーツ)の基幹術式です。書庫塔の壁面そのものが術式体として機能しています」


 文献魔法(アーカイブアーツ)。ユミナが先日「文献魔法」と呼んだものの、正式な名称らしい。TRPGのルールブックでも同じ名前だった。


 塔の入口は木の重い扉だった。ユミナが手をかざすと、扉の表面に文字が浮かんだ。一瞬だけ光って、消える。鍵が開いた音がした。


「今のは」


解読(リード)の簡易版です。塔の認証術式に、私の署名を読ませました」


 扉が開いた。中は薄暗かった。しかし一歩踏み入れると、壁面に埋め込まれた文字列が淡い光を放ち始めた。恒一の足音に反応するように、光が足元から天井へ向かって這い上がっていく。

 空気が違った。外の石とパンの匂いではない。紙の匂い。大量の紙と、古いインクと、蝋の匂いが混じり合っている。図書館に似ているが、もっと濃い。


 塔の内部は吹き抜けの螺旋構造だった。壁に沿って書架が巡り、書架には冊子や巻物や、木板に文字を刻んだものが並んでいる。螺旋の中央は空洞で、見上げると最上部に光が見えた。


「ここがエリンの中央書庫塔です。文献魔法(アーカイブアーツ)の資料が体系的に保管されています」


 恒一は書架に近づいた。冊子の一つを手に取ろうとして、やめた。読めない。この世界の文字は恒一にはまだ判読できなかった。


「恒一さん。あちらを見てください」


 ユミナが指した先に、三人の男女がいた。ローブ姿。書架の前に立ち、一人が手元の木板に指で何か書いている。文字が木板の上に浮かび上がった。青白い光。もう一人がそれを見て頷き、書架の冊子を一冊引き抜いた。冊子を開くと、頁の上で文字が動いた。行が組み替わり、図表が浮き上がり、また沈んでいく。


「あれが文献魔法(アーカイブアーツ)の基本的な運用です。テキストを媒介にして、情報の検索・引用・編集を行います」


 恒一はその光景を黙って見ていた。

 文字が浮かぶ木板。指先で操作する。情報を検索する。表示を切り替える。

 ——タブレットだ。

 恒一の頭に、その比喩が浮かんだ。木板はタブレット端末で、浮かぶ文字はテキストエディタで、書架はデータベースだ。魔法という体裁をまとっているが、やっていることはデジタル情報処理と同じだった。


「恒一さん?」


「……ああ。いや」


 恒一は首を振った。言語化するには、まだ早い。この世界の魔法と、自分が知っているテクノロジーの類似点。TRPGの設定との一致。偶然にしては出来すぎている。しかし、偶然でなければ何なのかが、まだわからない。

 わからないことは下手に口にしない。四十五年の処世術だ。


「もう少し見てていいか」


「はい。ゆっくりどうぞ」


 恒一は書庫塔の壁面に背を預けた。石が冷たい。背中から体温が抜けていく感覚。

 三人の学者——あるいは魔術師——は、恒一を気にする様子もなく作業を続けていた。木板の上で文字が流れ、書架の冊子が開かれ、頁が光り、情報が組み替えられる。静かな作業だった。声を荒げる者はいない。必要なことを必要なだけ、淡々と。

 仕事場だ、と恒一は思った。華やかな魔法バトルでもなく、壮大な儀式でもなく、ただの仕事場。道具としての魔法が、日常の中で使われている場所。

 TRPGのルールブックには「エリンは学術と実務の街であり、魔法は研究対象であると同時に生活基盤である」と書かれていた。あの文章が、目の前で立体になっている。


 恒一は腕を組んだ。右腕が上になる。利き手が左に変わっても、腕の組み方は右が上のままだった。身体の癖と記憶の癖が、ちぐはぐに重なっている。

 書庫塔の中で紙とインクの匂いを吸いながら、恒一は考えていた。この世界が、自分たちのTRPGと同じ名前で、同じ構造で、同じように回っていること。それは何を意味するのか。

 答えは出なかった。匂いだけが、確かだった。


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