第68話 アルヴェリアの朝
夜明け前、甲板に出た。
眠りが浅かった。目を閉じると、あの板の右端——見慣れない記号の連なりが浮かぶ。紙に写した線を指でなぞった感覚が、まだ指先に残っている気がした。
手すりに触れると、朝の冷気が骨まで届いた。塩の匂いが強い。ターレ港の潮とは違う、開けた海の匂いだった。
水平線の先に、灯りが見えていた。
港だった。
ランプではなく、石灯籠のような形をした灯火が列をなして並んでいる。光が均等で、間隔が揃っていた。——管理された灯りだった。
ユミナが隣に立った。
「アルヴェリアです」
「そうか」
それだけだった。二人で、明るくなっていく海を見ていた。
港が輪郭を見せ始めた。白い。石の色がターレ港とは違う。ターレは雨と海風で黒ずんだ岸壁だったが、こちらは石灰で塗られているらしく、夜明けの光の中で白っぽく浮かんで見えた。
船が港に入った。揺れが収まる。
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上陸すると、迎えがいた。
「王立魔法学院の者です。遠路、ありがとうございます」
紺色の上着を着た二十代半ばの男が、ユミナへ丁寧に頭を下げた。恒一は少し後ろに立ったまま、周囲を見た。——いつも通り、まず匂いを探した。
港は清潔だった。
ターレ港の匂いを嗅ぎ続けた二ヶ月半が、比較の基準になっている。あちらは潮と金属と魚と煙が重なって、近づく前から分かるほど濃かった。こちらは潮の匂いがある。それだけだ。
石畳に細い水が流れている。水路の匂いがするが、腐敗していない。石と水と、もう一つ——金属に熱を通したような匂いが、遠くから混じっていた。
馬車で学院へ向かった。
街は整備されていた。石畳の道が続き、道幅が広い。水路が街路の両脇に沿って設けられていて、流れが見えた。澱みがない。誰かが「水の流れ」を設計した痕がある。
建物は三階建て、四階建てが並び、塗り直したばかりらしい壁が朝の光を返していた。人の動きも滞らない。買い物籠を持った者、荷を運ぶ者、話しながら歩く者——それぞれが、ぶつからずに流れていく。
計画されている、という感触があった。設計と現実が噛み合っている場所には、この種の流動感がある。前の職場で染みついた種類の感覚だった。
「騎士の国と聞いていたが」
恒一は外を見たまま言った。
「想像していたものと違う」
「元々は騎士団を中軸にした国家です」
ユミナは窓から目を離さない。
「先代のアルス王は武王と呼ばれました。ベルテア王国で魔神が召喚された時——魔神戦争とも呼ばれる騒乱で、前線で魔神を打ち倒した王です」
「英雄か」
「はい。今も英雄王として語られています」
ユミナは言葉を切り替えた。
「ただ、この国がここまで整ったのは、現王ヴァリス陛下の内政によるところが大きい。衛生環境、水路、農業——『街の中身』を先に変えました」
恒一は外を見た。澱みのない水路。塗り直された壁。滞りなく動く人の流れ。
即位から三年でこれを。反発も既得権もあったはずだ。景色が別の重さを帯びる。
「武断の国で、内政寄りの王が出てきたら——騎士団が黙っていないだろう」
ユミナが首を振った。
「本来なら、軋轢があってしかるべきです。ただ——」
そこで少し止まり、続けた。
「レイナ王妃がいます。剣の象徴として。騎士団の信を集め、ヴァリス陛下の背を守る人です」
「……王妃が盾になるのか」
「盾であり、剣でもあります」
ユミナは言った。
「文と武が王と王妃という形で噛み合っている。アルヴェリアは今、そういう国です」
恒一はしばらく外を見た。
「そんな絵に描いたような話がありえるのか」
「稀有でしょう」
ユミナは答えた。
「それに——」
そこで止まった。続きが来なかった。
恒一は横を見た。ユミナは窓の外を見ている。先ほどまでとは少し違う沈黙だった。
気づいていた。ここまでのユミナの話し方が、いつもと違う。
遠い国の政情を「一般常識」として語る時の口調ではなかった。資料を読み上げるのではなく、自分で調べたものを組み立てて語る密度があった。
そして今、何かを言いかけて止めた。
向こうの世界でのTRPGと、この世界の共通点。
ユミナがここまで調べていながら、アルヴェリアを選択肢として出してこなかった理由。
このあたりが繋がるのではないか、という推測が漠然と脳裏をかすめた。
だが、今はまだ、と決めた。
遠くから音がした。
金属の——軋む音ではなく、低い、安定した振動音だ。聞き覚えがない。馬車の前方、街路の端に白い蒸気が上がっていた。煙ではなく、熱を持った蒸気が一定の間隔で吐き出されている。
試験線だった。
街路とは別に設けられた金属の軌道が、通りの端に沿って伸びている。その上を——長い車体が走っていた。精霊機関車だ。
長さは馬車七、八台を繋いだほどか。前の部分から熱気と蒸気が出て、客が乗っていた。ゆっくりと走っていた。
半ばまで来たところで、金属の高い音が一度走った——軋みではなく、何かが限界に触れた時の、断ち切れそうな音だった。止まった。
唐突だった。蒸気が一度大きく噴き出した後、振動が消える。乗客が揺れた気配がある。作業員が二人、すぐに走ってきて車体の前を開け、覗き込んだ。
「また止まってますね」
ユミナが窓から言った。視線は精霊機関車に向いたままだ。
「今日見かけるのは、これで何度目だ」
「二度目です」
恒一は馬車が通り過ぎるまで見た。作業員が取り出した工具と、開かれた内部の形を目に収める。外側からでは、どこで止まっているのか分からない。
確かにこれは課題だ、と恒一は思った。
ユミナが言っていた通りだった。「精霊機関車の安定稼働に課題を抱えています」——ターレ港の作業室でユミナが言ったのは、今日初めて見た光景のことではない。いつ、どこで調べたのか。——それもまた、聞いていない。
宿舎は学院に隣接した石造りの建物だった。
部屋に入ると、窓から街路が見えた。精霊機関車の試験線も、角度によっては見える。まだ作業員が動いていた。止まった車体の周りで、手が忙しなく動いている。
荷物を置いた。
ダラからもらった幅広ロングソード。着替え。ヴェルダから写しをもらった図形を写した紙。アルヴェリアに来ても、持ち越している問いは変わっていない。
ゴーレムの外部接続先で使われていた表記体系が何なのか。
ユミナの消耗の原因が何なのか。
それらが、この英雄譚のような名を持つ国——アルヴェリアで、少しでも輪郭を持つのか。
窓の外で、精霊機関車がまた走り始める音がした。低い振動が石壁を通して足の裏に届く。次はいつ止まるか——恒一には見当がつかなかった。
「ユミナ」
扉越しに声をかけた。
廊下に足音があった。
「何ですか」
「明日、精霊機関車のところへ行くのについていっていいか?」
少し間があった。
「可能です」
「頼む」
足音が遠ざかった。
恒一は窓の外を見た。試験線の上で、精霊機関車がゆっくりと走っていく。白い蒸気が朝の空に上がり、風に流れていった。




