第65話 検算
甘かった。
それが最初に気づいたことだった。食堂の朝茶——ドラク商会の地下にある調理場が出す、麦と乾燥果実を煮出した安い飲み物——を口にした瞬間、甘さがはっきりと来た。
昨日まで、来ていなかった。
同じ茶を毎朝飲んでいた。二ヶ月半、ずっと。薄く甘い、という感覚は最初からあった。しかし「甘い」と思ったことはなかった。今は甘かった。言葉にすると大げさに聞こえるが、事実として、舌の上で甘さが広がっていた。
もう一口飲んだ。やはり甘い。舌の奥の方が拾っていなかった感覚が戻っている——正確には、あったはずの感覚が戻っているのか。それとも今回の再構築で感覚そのものが変わったのか。どちらか判断する材料がなかった。
「どうしたっすか?変な顔して」
隣でノルが聞いた。机の向かいに座っていた。
「いや、お茶が」
「お茶?」ノルは自分の杯を傾けた。「俺には普通ですよ。いつも通り」
「そうか」恒一は返した。それ以上は言わなかった。
食堂には数人がいた。ベックが離れた席でパンを食べていた。ヘルマはまだ来ていない。今日は休養日で、誰も時間に縛られていなかった。7層から帰還した翌日——昨日の午後に上がってきて、今日が最初の休みだった。
恒一は残りの茶を飲んだ。甘さを確認しながら飲んだ。ノルが何かを言いたそうにしていたが、言わなかった。
午前の半ば、自室に戻った。
灯火を出した。練習のためではない。確認のためだった。術式を組んだ——指先から光が出る、一番単純なAAの操作。二ヶ月半でそれなりに習熟したつもりだった術式が、今日は違う感触で出た。
軽い。
術式を組む時の「引っかかり」がなかった。体の中にある魔力を術式の形に当てはめていくような動作——それがいつも少しだけ滑っていた。形と体の間に薄い膜があるような感触。それが今日はなかった。
灯火を消した。もう一度出した。同じ感触だった。光の大きさ、輝度、範囲——どれも自分が意図した通りに出た。以前は「大体このくらい」で妥協していた精度が、今は「ちょうどこのくらい」で出る。
魔力感知を試した。部屋の中の魔力の分布が、いつもより細かく返ってくる。窓の隙間から入る外の空気の魔力濃度が分かる。壁の材質による密度の違いが分かる。以前はそこまで拾えなかった。情報量が増えている。
恒一は術式を解いた。指先の感触がまだ残っていた。術式を使い終わった後、すぐに消える感触——それが今日は少し長く残っていた。術式と体の境界が、薄くなっている。座ったまま、しばらく考えた。
これが「再構築の精度が上がっている」ということなのか——ユミナが二ヶ月半でどれだけ下書きを更新し続けてきたかは、見ていた。毎日、作業の合間に。数日に一度ではなく、毎日。ユミナが恒一の構造を読むたびに、下書きは更新される。今回の再構築はその蓄積の上に乗っている。そのことと今感じている感触の変化が、一致する。
管理職の頃の癖で、数字を並べようとした。
一回目:二十年前の理論+欠損。二回目:八日間の観察+修正。三回目:二ヶ月半の蓄積+強化。
再構築の精度が線形に上がっているのではなく、下書きの質が変わっている、ということだ。恒一がこの身体で生きてきた時間の分だけ、精度が上がる。それがユミナの設計なのか副産物なのかは分からない。聞けばいいが——今日は聞かないことにした。理由は特にない。
もう一つ、確かめた。机の上に採取記録の写しが一枚置いてあった。この二ヶ月半、この世界の文字は形として認識はできていたが、意味として読んだことがなかった。試しに目を向けた。
読めた。採取日、搬入品の名称、重量——一行ずつ、意味として頭に入ってくる。難しい術語はまだ引っかかるかもしれないが、普通の文章なら読める。術式の感触と同じだ——文字と体の間の「膜」が薄くなっている。そもそも文字が読めないまま文献魔法が使えていたこと自体、筋が通っていなかった。
昼過ぎ、ユミナを探した。文献解析部門の作業室にいた。
扉を開けると、碑文の写しと鑑定書の束の中に埋まっていた。ランプが二つ点いていた。窓から入る光と合わせても、この部屋は暗い。目に悪い、と思ったが言わなかった。
「休養日だ」
「解析の締め切りがあります」ユミナは写しから目を離さずに言った。「恒一さんこそ、休んでください」
「今日は休んでいる」恒一は椅子を引いて座った。ユミナの作業を邪魔しない距離だった。「少しいていいか」
ユミナが少しの間、止まった。
「……いいですよ」
恒一は黙って座った。ユミナが作業を続けた。写しを繰る音、筆が走る音。この部屋の匂いは、石灰と墨と古い紙の混ざった匂いだった。二ヶ月半でほぼ嗅ぎ慣れた匂いだった。
ユミナを見ていた。観察するような目でではなく——いや、正直に言えば、観察していた。観察が職業病になっている自覚はある。
ユミナの消耗は、恒一には見えていた。顔の白さ、動作の遅さ、補助薬を飲む頻度——二ヶ月半で、基準値を体が覚えていた。今日のユミナは、どこにある。
確認した。
白さは、いつも通りだった。動作は、いつも通りだった。補助薬を先ほど一度飲んでいた——ここに来る前に廊下で見た。それもいつも通りだった。
おかしい、とは言えない。むしろ——おかしくなさすぎる。
恒一は計算した。昨日、再構築があった。三回目だった。
一回目の後——恒一は意識が戻るまでに時間がかかった。当時のユミナの状態は、後から聞いた話だが、相当な消耗があったという。あれは仕方ない。二十年分の魔力を使った、と言っていた。
二回目の後——馬車の轍の中でやった、と本人が言っていた。あの後のユミナの状態を、恒一は見ていた。数日間、明らかに悪かった。補助薬の頻度が上がっていた。歩くのがゆっくりになっていた。
三回目の今日——同じかそれ以上の作業をしたはずだ。崩落の下から構造を読み、解き、石の外に再構築した。下書きも前回より厚い。術式の規模は大きくなっているはずだった。
なのに、今日のユミナはいつも通りだった。
むしろ、いつも通りすぎた。
「ユミナ」
「なんですか」写しから目を離さずに答えた。
「今日の調子はどうだ」
「問題ありません」即答だった。「いつも通りです」
「……そうか」
恒一はユミナの顔をもう一度見た。補助薬を一日に何度飲んでいるか、ここ二ヶ月半で把握していた。今日の昼までの回数は、普段と変わらない。慢性的な消耗は続いているが、昨日の再構築による急激な悪化が見えない。
いつも通り、という答えが正直なら——何かがおかしい。
再構築の後にしては、消耗の増加幅が小さい。以前の観察と一致しない。計算が合わない。
では、計算の前提のどこかが間違っている。
再構築が消耗の原因だ、という前提が——正確なのか。
ユミナが言っていたのは「再構築の維持コスト」の話だった。ターレに来てしばらく経った頃に、半分だけ話してくれた——消耗の原因の一つとして、再構築がある、と。しかし今日の様子を見る限り、昨日に大きな再構築があったはずなのに、消耗の水準が平常と変わっていない。それは、再構築が消耗の主たる原因ではない可能性を示唆する。
では何が原因か。
その問いには、今は答えられない。答えられないまま考え続けるのは、管理職時代に覚えた悪い癖だった。材料が揃うまで、仮説は仮説のままにしておく。
「甘いものはあるか」
ユミナが顔を上げた。意外そうな顔だった。
「干し果実なら引き出しに」
「もらうぞ」
引き出しを開けた。麦色をした小さな粒が一袋入っていた。一つ口に入れた。
甘かった。朝の茶より、はっきりと甘かった。
昨日まで、こんなに甘くなかっただろうか。体が変わったのか、感覚が変わったのか、あるいは両方か。どちらか確かめる術はない。
ユミナが少し笑った。小さく、かすかに。
「甘いですか」
「甘い」
「そうですか」ユミナは写しに戻った。「それはよかったです」
その声に「よかった」の理由が少しだけ含まれていた気がした。しかし聞かなかった。確かめなかった。
部屋の外で港の音がした。午後の荷積みの声と、海鳥の鳴き声が混ざっていた。
ユミナの消耗の原因の計算は、今日のところは材料が足りない。しかし、少なくとも悪い方向ではない。それだけで良かった。




