第62話 代償
両腕が同時に動いた。
右腕が来て、左腕が続く——ではなかった。右と左が同じ瞬間に出た。これまでの読み方が全部無効になった。
ベックが盾で右腕を受けた。左腕が来た時、誰も間に合わなかった。
ベックが横に弾かれた。今度は数歩ではない。広間の中央まで飛んだ。石の床を二度滑り、柱の根元で止まった。
リガードが左から斬り込んだ。戦斧の刃が左腕の継ぎ目を叩いた——入射角が合わない。刃が滑る。リガードが体ごとずれて立て直した。
「角度が合わない」リガードが言った。独り言。
恒一にはその理由が見えた。旋転打撃は長柄を一方向に振り切ることで速度を乗せる。両腕同時に来ると、振り切る前に次が来る——右を叩いても左が来る。左を狙えば右が間に合わない。一点に集めるという前提が崩れている。ゴーレムがそれを学習しているのか、命令の中に「単腕攻撃が防がれた場合」の条件分岐が組まれていたのかは分からなかった。
ヘルマが地盤整流を続けていた。足元を隆起させ、踏み潰され、また隆起させる。ゴーレムの前進が半歩ずつ遅れていた。しかしヘルマの呼吸が変わっていた。吐く息が短く、間隔が詰まっていた。声ではなく体に限界が出ていた。
「ノル、もう一回」
返事がなかった。
振り向いた。ノルが柱の根元に片手をついていた。顔が青い。頭を垂れ、口の形だけで何かを続けていた——祈りか、息を整えることか。敵意感知の反動か、浄化を続けた消耗か。この階層の瘴気の濃さを全身で引き受けていた。
「立てるか」
「立てる」かすれた声だった。「ただ、もう——」
言葉が切れた。
代わりに恒一が前に出た。右腕と左腕が同時に来る——片方だけ流しても届かない。ベックが中央に倒れていた。リガードが右腕を叩いた。左腕が来た。恒一は剣の平を立てた。角度だけで流した。足が後退する。床の磨かれた平面——摩擦が足りない。
鈍い音がした——左腕が剣を押した音だった。体が壁まで飛んだ。背中が石に当たる。息が出た。
通信術式が鳴った。
ヘルマが術式の板を取り出した。地盤整流を維持しながら、片手で文字を読んだ。数秒、その場に立ったまま——表情が動かなかった。
「何と」恒一は壁から体を離しながら聞いた。
「停止命令を確認した。胸部の制御核に直接送信する——接触が必要だ。外部からは届かない」
ヴェルダからだった。
恒一は一度だけ胸部の赤い光を見た。脈打つリズムは変わっていない。外殻の奥。リガードの戦斧が継ぎ目を何度も叩いても、外殻そのものは割れていなかった。内部に接触する手段がない。
「了解」ヘルマが返した。「別の方法を探してくれ」
間があった。
「探す」
術式の板を閉じた。ヘルマが地盤整流に戻った——精度が落ちていなかった。それがかえって怖かった。限界が声に出ない人間は、倒れるまで倒れない。
ゴーレムが踏み込んだ。両腕が同時に出た。ヘルマが横に飛んだ——術式を維持したまま腕の軌道から外れた。恒一は剣を立てて左腕を流した。角度が足りない。体が飛んだ。
立ち上がった。脇腹に熱が走った。動けると判断して、前を向いた。
リガードが正面から当たっていた。戦斧を両腕で押さえてゴーレムの前腕を受け止めていた——流すのでなく、止めていた。足が床を削る。「止まらない」リガードが言った。一息ついた。「減速くらいはできる」
右腕が来た。リガードが受けた。左腕が来た。リガードの班の一人が受けた。ヘルマが足元を隆起させた。踏み潰された。また隆起させた。その繰り返しが続いた。止まらない。遅れるだけで、止まらない。
止める手段はない。解読は間に合っていない。体が続く者から先に削れていく。
音がした。
低く、重い音だった。天井からではなく、構造そのものから来る音——壁と天井の継ぎ目が鳴っていた。それと同時に、石の粉が細く落ち始めた。東の端の柱の接合点から、白い粉がまっすぐ落ちていた。
「天井が抜ける」リガードが叫んだ。「下にいるな!」
東の端を見た。柱の一本に亀裂が走っていた。上から下へ、真っ直ぐに。
石が落ちた。拳大。床に当たって砕けた。
次が来た。また来た。三つ目は丸太ほどの大きさで、東の端に落ちた。石が石に当たる音が広間に広がって消えた——7層の空気が音の伸びを飲み込む。
ヘルマが東の端に向かおうとした。柱を精霊で支えようとしていた。精霊が応答している間は、崩落を遅らせられる。
ノルが柱の根元から体を引きはがすように立ち上がった。ヘルマの後を追おうとした——足がふらついた。それでも前に出た。
二人が東の端に向かっていた。ゴーレムはまだ動いていた。両腕が同時に来た。リガードが受けた。その衝撃音が広間を通った——
亀裂が広がった。
石が石から剥がれる音がした。深い。低い。この二ヶ月で繰り返し聞いてきた音だった。この音が来た後、崩落が来る。早ければ三秒。
頭の中で計算した。
東の端まで距離がある。ヘルマとノルが向かっている位置。落ちてくる範囲——亀裂の角度から推定すると、東の柱から半径三歩程度。今の自分の位置。ゴーレムの位置——リガードの班が前面に立っていた。ベックが中央から立ち上がっていた。右肩を押さえているが、足は動いている。
ヘルマとノルの位置が、落ちてくる範囲の中に入っていた。
大声で叫べば間に合うかもしれなかった。しかしヘルマが精霊術に集中していた——声が届いても体が動くまでに時間がかかる。ノルは足がふらついていた。止まらずに来る。
ベックは外れていた。リガードの班は外れていた。ゴーレムは——ゴーレムは関係なかった。
二人はまだ気づいていない。前を向いていた。
走った。
術式を組みながら走った。前の降下で浮かんだ考えが戻ってきた——剣に纏わせれば、引っ張られる形になるか。完成形ではない。方向だけ合わせる。止まれなくてもいい。届けばいい。
走りながら術式を組んだ。火の術式を剣に流し込んだ。指先の感覚が変わった。熱ではなく、引力に近い何かが剣の先端に集まっていく感触だった。うまくいくかは分からない。
放った。
体が前に引かれた。走っているより速い。足が床を離れた。ヘルマとノルの背中が来た。
肩から当たり、弾かれるように二人の身体が前に飛んだ。
二人は崩落の範囲から外れた——そこまで見えた。ヘルマが前に転び、ノルがヘルマの腕を掴む。二人は——大丈夫。
しかし、自分の体は崩落の範囲に入っていた。
石が来た。
最初の一つが肩を叩いた——音が先に来た。
次の石が背中に乗った。
重い。
体が沈む。
膝が折れた。
床に当たった。冷たい。
頬に冷たさが来た。
ランプの光が見えた。
ゴーレムの赤い光も見えた。
それだけが鮮明だった。
広間の音が遠くなった。
リガードの声がした。何と言ったか聞き取れない。声の形だけが来た。怒鳴っていた。石の落ちる音に混じって、叫んでいた。名前を呼んでいた気がした。
ヘルマの顔が視界の端にあった。崩落の外に出ていた。立っていた。ノルも見えた——
視界が石で塞がれた。
こんな身なりなのに彼らを見て、若い奴が死ぬな、と思った。
声に出たかは分からなかった。どちらでもいい。45年で覚えた一番単純な結論だった。若い奴が先に行く。残る奴が引き受ける。出口まで誰かが送らなければいけない場合、それは上の役目だった。それだけのことだった。
「ごめん」
恒一は、自分から漏れたその言葉が誰への言葉かはわかっていた。結局、自らが引いた線で死ぬ。そして、その線を超えさせてしまう。管理職にあるまじき無責任さだ。
石の重さが全部外の話になった。
静かになった。




