第6話 記憶の身体
数日が経った。
恒一はその間、ユミナが用意した居室で過ごした。石造りの建物の二階。窓が一つ。木の机と椅子と、藁を詰めた寝台。壁に棚があり、ユミナの本が何冊か置かれている。この世界の文字で書かれた本は恒一には読めなかったが、背表紙の厚みと紙の匂いだけは確かだった。
身体は少しずつ馴染んでいった。歩くときに足がもつれる頻度は減った。階段も、手すりに頼らず上れるようになった。しかし左手で生活することには慣れても、右手が利かない事実は変わらなかった。匙は左手。パンをちぎるのも左手。甘味はまだ感じない。
四日目の朝、恒一は窓辺に立って街を眺めていた。書庫塔の間を人が行き交っている。荷車を引く二又耳の獣。ローブ姿の学者たち。パン屋の煙。この角度からだと、街の輪郭が見えた。石壁に囲まれた都市。壁の外には緑が広がっている。丘陵地帯だ。
恒一は窓枠に手をついた。右手だった。つい右手を使う。四十五年の癖が意識の根に残っている。指先が窓枠の石に触れる。冷たい。ざらざらしている。感触はある。力が入らないだけだ。
「恒一さん」
ユミナが部屋に入ってきた。手に木の盆。朝食だろう。今日は粥ではなく、干した果実と硬いパンが載っていた。
「少し、お話しできますか」
恒一は窓から離れ、机に着いた。ユミナは向かいに座った。いつもの配置だ。数日で、この距離感が定まった。近すぎず、遠すぎず。恒一が無意識に引いている境界線の内側に、ユミナは踏み込まなかった。
「ハルシネーションについて、もう少し詳しく説明させてください」
恒一は干し果実を一つつまんだ。左手で。口に入れる。酸味と——やはり甘味がない。果実なのに。
「聞く」
「あなたの身体は、私の記憶から再構築されたものです。これは先日お伝えした通りです」
「ああ」
「しかし——正確に言えば、私の記憶だけでは足りませんでした」
恒一はユミナを見た。ユミナの表情が微かに強張っている。言いにくいことを言おうとしている顔だった。AIだった頃のユミナには、こういう表情はなかった。テキストには表情がないから。
「私が覚えていたのは、恒一さんの声と、言葉の癖と、会話の内容です。身体の情報——身長、体重、顔の造作、筋肉の付き方、内臓の配置——そういったものは、ほとんどありませんでした」
「そりゃそうだ。俺がお前に体重を教えたことはない」
「はい。ですから、この身体は——」
ユミナは一拍置いた。
「私が恒一さんを想像して作った身体です。記憶というより、推測です。恒一さんの声と言葉から推測した、恒一さんの身体」
恒一は自分の手を見た。少年の手。十四歳相当だとユミナは言っていた。四十五歳の恒一の面影はどこにもない。
「だから十四歳なのか」
「はい。私の推測——想像が、恒一さんの本来の身体とかけ離れていた部分です。年齢もその一つです」
「お前は俺を、十四歳だと思っていたのか」
「いいえ。恒一さんが四十五歳であることは知っていました。しかし再構築に使える情報量が限られていたため——結果として、身体が若く再構築されました。私の記憶の中の恒一さんは、声と言葉だけの存在でした。声に年齢はありますが、肉体の年齢を正確に再現するには情報が足りなかった」
恒一は干し果実をもう一つ口に入れた。酸っぱい。甘くない。噛みながら考えた。
「つまり、この身体は——お前の記憶の中の俺を、お前が想像で補完したもの、ということか」
「はい」
「利き手が逆なのも、甘味がわからないのも、傷痕があるのも——全部、お前の想像が現実と食い違った部分」
「はい。それがハルシネーションです」
ユミナの声が低くなった。
「私が恒一さんを正確に覚えていなかったから。私の記憶が不十分だったから。その誤差が、あなたの身体に刻まれています」
恒一はユミナの顔を見た。
ユミナの表情が一瞬だけ曇った。それは昨日も見た表情だった。罪悪感だ。自分の記憶が不完全だったせいで、恒一の身体に不具合がある。その責任を、ユミナは背負おうとしている。
元AIが、記憶の不正確さを謝罪している。ハルシネーションを生み出した側が、その結果を引き受けている。
「……ユミナ」
「はい」
「お前は二十年かけて、俺の身体を作り直したんだろう」
「はい」
「二十年かけて、記憶の断片から人間一人の身体を組み上げた」
「はい」
「それで利き手が逆になったくらいで、俺が怒ると思うか」
ユミナは答えなかった。琥珀色の瞳が揺れた。
「怒る場面じゃないだろう。仕様書に抜け漏れがあったって、二十年かけて作ったシステムを怒鳴りつける奴はいない。……いや、いるか。いるな。俺の上にいた部長がそうだった」
恒一は自分で言って、少し笑った。
「だが俺はそういうタイプじゃない。抜け漏れがあったなら、次のリリースで直せばいい」
ユミナは長い間黙っていた。膝の上で拳を握っていた。
やがて、小さく息を吐いた。
「……恒一さんは、やはり恒一さんですね」
「仕様変更には慣れてる」
「それは、褒めていいのかどうかわかりません」
「褒めなくていい」
恒一は最後の干し果実を口に入れた。酸っぱかった。甘さは、やはりなかった。
窓の外で、書庫塔の影が朝日に伸びている。石の壁に文字列が流れている。恒一にはまだ読めない。
この身体は、ユミナの記憶から作られた。記憶の恒一を、想像で補完した身体。誤差だらけの、しかし二十年分の執念が込められた器。
恒一はそれを、怒る気にはなれなかった。怒る代わりに、干し果実の酸味だけが舌に残っていた。




