第59話 6層
二週間、5層の地形確認と装備の見直しを重ねた。ヘルマが経路を洗い直し、ノルが浄化系の術式準備量を増やし、ベックが盾に補強材を足した。恒一は5層での魔力感知の記録を整理して、6層との境界でどんな変化が起きるかを仮説として書いた。「より均質な密度、より高い充填量——術式精度はさらに落ちる可能性あり」。書いていた予測が正しかったことを、6層の入口を一歩踏んだ瞬間に確認した。
斜坑の底を踏んだ瞬間、空気が変わった。
深さの冷たさではなかった。年月の冷たさだった——長い時間をかけて積み重なった、人間の体温が届いたことのない場所の静止した冷たさ。ランプを掲げると、光が広がらずに足元に落ちた。壁が光を跳ね返さない。天井の端が暗い帯のまま続いている。6層は暗い、というより——光の到達を拒んでいた。
魔力感知を広げた。
飽和した。
術式を展開した瞬間から、すでに限界に近かった。5層では精度が落ちていた。6層では精度が落ちる前に、術式が押し返される感覚があった。均質で厚い密度が、感知の触手を飽和させる。
「5層より精度が落ちます。個別の反応を追う前に術式が飽和します——大きな密度変化だけを追います」
「分かった」ヘルマが言った。「精霊側の話をすると——」一度、目を閉じた。「応答が鈍い。地盤を読む時に使う精霊の声が、紙一枚越しに聞こえる感覚だ。深層ほど精霊の感応が落ちるとは聞いていたが、5層よりずっと薄い。あまり信頼しないほうがいい」
ヘルマが自分の感知能力の限界を口に出すことは珍しかった。恒一はその言葉を頭の中に置いた。
「ノル。敵意感知は」
少し間があった。
「あります」ノルが言った。5層の時と口調が違った。「浄化できるものが周りにある感じです——瘴気というより、積み重なりですね。長い年月で溜まったような。具体的な敵意はいまのところないですけど、この層の瘴気は濃い」
「それが理由だ」ヘルマが言った。「深くなるほど神聖魔法が鋭くなる。浄化の需要が増えるからだ」
ノルが「ああ」と言った。5層では静かになっていたが、6層でかえって何かが動いている——その腑に落ちた声だった。
ヘルマが歩き始めた。
足音が短く消えた。5層でも音が遠かったが、6層の消え方は違う——反響が返ってこない。音が出た瞬間に終わる。声を出すとすぐに飲み込まれる感覚があった。
通路は5層より広かった。高さもある。しかし広さは圧迫感を和らげなかった。光の届く範囲だけが現実で、そこから先は均質な暗さだった。
20歩ほど進んだ先で、壁の様子が変わった。
岩盤の上に薄く均質な層が乗っていた。石が積まれたのでも、岩が変質したのでもない——何かが塗り込まれたような表面だった。ノルが壁を叩いた。いつもの空洞確認の叩き方だったが、返ってきた音が平板だった。
「固さが違います」ノルが言った。
ヘルマが手の甲を当てた。「古い施工だ。自然ではないが、誰かが意図したとも言い切れない——どちらとも言い難い性質がある」
恒一も触れた。石の冷たさの下に、均質な詰まり方があった。叩いた時の反響が浅い。外側は岩盤で、内側は別の何かが詰まっているような感触だった。
さらに10歩進んだところで、壁面に細い刻み目があった。
縦の線が何本か、等間隔に並んでいた。自然の亀裂ではない——明らかに意図されたラインだった。文字でも記号でもなかった。ゴーレム碑文の文法とも違う。ただ、等間隔の縦線が三本、壁面に刻まれていた。
恒一は足を止めた。
ヘルマが振り返った。「何かあるか」
「刻み目があります。意図されたものですが、意味は分かりません」
「記録して先に進む」
刻み目の意味は今日のところは考えないことにした。報告書に書く——それだけを決めた。
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南に折れた通路で、空気に匂いが混じった。
鉱物の匂いの下に、水の気配があった。濡れた石の匂いと、その奥に何か生きているものの気配——5層には水の匂いがなかった。この匂いは動いていた。
前方の左に分岐があった。
魔力感知が変化を捉えた。
左の方向から、密度に揺らぎがあった。均質な厚みの中で、何かが動いている。形は読めない。大きさも距離も分からない。波紋だけが来た。
「左に何かいます。動いています——形と距離は不明です」
「水脈だ」ヘルマが小声で言った。「左には入らない。進路は右だ」
ベックが無言で盾を構えた。
進路を変えようとした瞬間、分岐の入口から何かが伸びてきた。
触手だった。腕ほどの太さで、先端が細い。表面が濡れていて、ランプの光をほとんど返さなかった。動きは急がなかった。迷いがなかった。通路の左壁に沿って伸びてきた。
ベックが半歩前に出た。盾の縁でそれを払った。
乾いた音が一度鳴って消えた。
触手が引いた。払われたのではなく、自分で判断して引いた。水音が少し大きくなった。
「退がる——」ヘルマが言いかけた時、右側の壁際から別の揺らぎが来た。
恒一が「右にも」と言うより早く、二本目の触手が床を這った。先の一本より細かった。先端が石の表面を叩く音が短く続いた——探るような動きだった。
ノルが動いた。
術式の発動音はなかった。呼吸一つで、ノルの周囲の空気が変わった。魔力感知が反応した——密度の揺らぎがノルの周辺から広がった。浄化の感触だった。具体的な何かを浄化したのではなく、6層に積み重なった瘴気の層に触れた——そういう感触だった。
二本目の触手が止まった。
一秒ほど動かなかった。それから、引いた。
水音が遠くなった。
恒一は魔力感知を左右に向けたまま後退した。密度の揺らぎが分岐の奥へ遠ざかっていく。方向だけが分かった。距離は分からない。
「退がる」ヘルマが言った。「今日はここまでだ」
誰も何も言わなかった。後退しながら足音だけが続いた。
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5層を戻る道で、足元の石が少しずつ温まってきた。
ノルが恒一の隣を歩いた。
「先輩。あれ、触手いくつあったんすかね」
「二本見えた」
「じゃあ他にもあるっすね。一本が壁際を這ってる間、本体はどこにいたんすかね」
答えなかった。水音がした方向と、触手が出てきた角度から、水脈近くの暗部に本体がいると推測していたが、確認する手段がなかった。推測を言語化することと、事実として報告書に書くことは違う。今日分かったことだけを書く。
ノルが壁を叩く手を再開した。6層を歩いている間、ずっと止まっていた手だった。
「でも、使えた気がするんすよ」ノルが少し経ってから言った。「浄化したわけじゃないけど、何かに触れた感じがした。5層では空振りだったのに、6層では応答があった」
「報告書に書いておけ」
「そうします」
4層の熱が足裏に戻ってきた頃、ヘルマが「6層での感知限界を数字で出せるか」と言った。
「5層と比較した密度変化の比率なら出せます」
「それで十分だ」
地上の光が見えてきた。ノルが「腹減ったっすね」と言った。ベックが何も言わなかった。ヘルマが「報告書が先だ」と言った。同じやりとりだったが、声の調子が少し重かった。
今日降りた。6層に何があるかを、少し知った。まだほとんど何も知らない。




