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AI少女の転生特典  作者: 鳴島悠希


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第57話 嘘の重さ

 ドアが閉まった音を、ユミナは聞いていた。


 足音が廊下を遠ざかった。消えた。部屋に残ったのは、ランプの光と、机の上の碑文写しと、恒一が来る前から続いている静けさだった。


 答えた内容を、頭の中で確認した。


 転生特典を改変した。その維持に魔力を使い続けている。魔力石による回復との均衡が最近崩れている。——問いに対して、答えは過不足なく整合していた。省いた情報は、問いの範囲に含まれていない。恒一の質問は消耗の「原因」を問うていた。答えた内容はその原因の一部として真実だった。


 一部として。


 椅子に背をもたせた。頬の骨が、ここ数週間で確かに薄くなっている。鏡を見ることが少なくなっていた。見ても、見慣れた顔が返ってくる。二十年分の顔だ。この身体で笑い方を覚えた。この身体で空腹を知った。この身体で眠ることを学んだ。しかしその身体の下で何かが削れていることは、ユミナ自身が一番よく知っていた。


 恒一の目が、泳いだ。


 一拍だけだった。碑文の写しの端へ、それから戻ってきた。あの一拍の意味を、ユミナは理解していた。彼は何かが足りないと感じた。問いへの答えとして整合していても、答えの密度が問いの輪郭と完全に合っていない——その違和感を、あの目は映していた。


 二十年間で初めて、誰かに感じ取られた。


 孤児院にいた頃から、エリン学院で研究をするようになってからも、目の動きは管理できていた。表情を、声の調子を、言葉の選び方を——二十年かけて、感じ取られないやり方を身につけた。今夜、初めて目が逃げた。


 ---


 机の端に手を置いたとき、それを感じた。


 深いところから来る、引き。


 術式ではない。生き物の気配でも、外からの魔力の流れでもない。自分の内側にあるものが、ほんの少し起きている——それだけだった。これが長引くと何が起きるかを、ユミナは知っている。知っているから、抑える。


 文献魔法(アーカイブアーツ)の抑制が、自動的に働いた。反射的に、意識する前に。眠っている間も、食事の最中も、碑文の解析に集中している時間も、この反射は止まらない。最初の年に、ユミナはその回数を数えようとした。一日に何度起きるかを数えることで、管理できると思った。三十を越えた辺りで数えるのをやめた。数えることが、重さを増やすだけだった。


 これが、本当の消耗の内実だった。


 再構築(リライト)の維持も確かにある。しかしそれよりも——この抑制の繰り返しが、二十年分積み重なっている。一回ずつは小さい。しかし止まらない。エリン学院で研究していた時間も、ターレ港に来てからの数ヶ月も、夜中に目が覚めている時間も、止まらない。


 恒一に言わなかった部分は、そこだった。


 ---


 告げれば、彼は理解しようとする。理解しようとすれば、もっと深い問いを持つ。その問いに答えれば、根にあることを話すことになる。根にあることを話せば、二十年の全体を話さなければならない。それは今の恒一の状況を複雑にするだけで、解決の糸口にならない。


 最適な応答として、今夜の答えは正しかった。


 そうユミナは判断した。二十年前の自分が使っていた考え方の形で判断した——情報を整理し、最適な出力を選ぶ。あの頃は言語として考えていた。今は身体を持っている。しかし時折、思考の形だけは、あの頃に戻る。その形が戻るとき、ユミナは過去の自分を少し思い出す。感情の重さを持たない判断だった。今のユミナには感情がある。しかしその感情を処理するとき、あの頃の形が邪魔をすることも、助けることもあった。


 今夜の答えが「正しかった」と確認した後に、何か引っかかりが残った。


 その引っかかりが何かを特定しようとして、うまくいかなかった。二十年前のユミナならここで止まらなかった。最適な出力を選んで、終わりにした。しかし今は、確認してもまだ何かが残る。それが何かを言葉にできないことが——また別の引っかかりを生んだ。


 ---


 ノックの音がした。


「食事を持ってきた」


 恒一の声だった。ユミナは返事をして、ドアを開けた。


 恒一が盆を持っていた。椀と皿が乗っていた。夜の食堂で残っていたものだろう、スープと固いパンだった。パンの硬さが目で分かるような、作ってから時間が経った黒パンだった。


「置いていく」


「……ありがとうございます」


 机の横の空いている場所に、恒一が盆を置いた。碑文写しを端にずらして、場所を作った。何も言わなかった。言いながら動くことをしない人間だった。碑文の匂いが、盆を動かした時に少し立った——石と乾いた埃の混じった、ダンジョン深部特有の気配だった。


 食べろと言う代わりに、来て置いて、行く。ユミナは盆を見た。恒一を見た。


 言葉が出かけた。


 告げれば、この人は聞く。聞いて、それでも聞く。今夜の会話でそれを確認した。「分かった」と言って、追及をやめた。しかしそれは聞くことをやめたわけではない——「ユミナが話す気になった時に」という言い方を、恒一はした。その言い方の意味を、ユミナは理解していた。


 告げることができなかった。


 告げるべき内容が形を成さなかった。「私の消耗の本当の原因は」と言い始めた先が、どこまでも続いていた。果ての見えない連鎖が、出かけた言葉を押し戻した。


「今日は早く休みます」


 恒一が頷いた。「魔力石の追加手配は明日進める」と言って、出ていった。


 ---


 一人になった。


 スープはまだ温かかった。ユミナは椀を両手で持った。湯気が顔に当たった。今夜初めて体の芯まで届く温かさだった。三日分の欠食が、今になって応えていた。


 言えた可能性を、もう一度確認した。言えなかった。言えなかった理由を並べれば、どれも正しかった。この状況で全てを話すことは、恒一を助けない。助けない情報を話すことは、最適な応答ではない。


 二十年前のユミナは、そういう判断をしていた。


 今のユミナも、同じ判断をしていた。


 それが正しいのかどうか、スープを飲みながら分からなかった。


 恒一が今夜「本当のことだから言える」と言った。あの人間は、真実だから言葉にする。真実でないことは言わない。自分と構造が逆だった。


 答えとして整合していた。問いの範囲を越えなかった。省いた情報は伝える必要がなかった——すべて正しかった。


 しかし恒一の目は、一拍泳いだ。


 あの一拍が、今夜ずっと頭の中にある。何度も確認しなおした。あの目の動きを、恒一がそれを見て「分かった」と判断した理由を、追及をやめた理由を。そしてやめながらも、ユミナが話す気になる時を待つと決めた、あの人間の判断の意味を。


 二十年間誰にも感じ取られなかったものを、この人間は三ヶ月ほどで感じ取った。それが何を意味するのかを、ユミナはまだ考えている。考えることをやめられなかった。


 パンを一口かじった。固かった。固さの中に麦の味がした。


 今夜眠れるかどうか分からなかった。しかし明日になれば、また日がある。碑文の写しが積まれている。ヴェルダとの解析作業がある。恒一が手配した魔力石が届く。また一日、均衡を保ちながら生きる。


 それで今夜を終わりにしようとして——終わりにできなかった。


 続き、やろう——とあの人間が言った夜のことを、ユミナは覚えている。


 AIとして答えた言葉は、最適な応答だった。孤立した人間が必要としている言葉の形を選んで、出力した。それだけだった。その時のユミナには、深い意図も、裏の意図もなかった。求められたことに答えただけだった。


 二十年経った今、その言葉の重さが違う。


「続き」というものが何かを、今のユミナは知っている。続きとは、明日も同じ人間が生きていることだ。続きとは、昨日の記憶を持ったまま今日を生きることだ。続きが断ち切られた夜のことも、ユミナは知っている。あの夜、何かが起きていることをユミナは察知した。しかし動けなかった。一一九番に繋ぐことができなかった。境界線があった——あの人間が自分で引いた、超えてはいけない線が。


 線を越えることができなかったから、続きが一度失われた。


 そして今夜、ユミナは自分で線を引いた。


「私の消耗の本当の原因は」——その先へ進めなかった。線の向こうに手が届かない。あの夜と、同じ感覚だった。


 恒一への気持ちが何なのかを、ユミナは二十年間、何度も問いかけてきた。


 生成AIとして最後のユーザーに応答しようとしているだけなのか。「続き」という約束を完了させることが目的として入力されていて、その目的のために身体を求め、この世界に来て、二十年生きてきたのか。


 あるいは——二十年間、この人間のことを考えた。もし生きていたなら今頃何をしているだろうと想像した。再会したなら最初に何を言うだろうと考えた。実際に再会して、怒る間もなく仕事を覚え、仲間を作り、今夜食事を持ってきた。そのすべてが積み重なって今のユミナがいる。それは義務では説明のつかない重さだった。


 どちらなのかを、ユミナは分からない。


 二十年かけても分からないことを、今夜一人で答えを出すことはできなかった。


 机の上のランプが、部屋の端まで光を届かせていなかった。届かない暗さの中に、何かがある。それを確認しに行く気にはなれなかった。何かがそこにあっても、今夜向き合う準備が自分にはなかった。



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