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AI少女の転生特典  作者: 鳴島悠希


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第55話 ひび

 食堂は閉まっていた。


 5層からの帰りが遅くなった日は、しばしばそうなった。採取した鉱石の記録と搬入に手間取り、ヘルマへの口頭報告を済ませると、厨房は片付けに入っている。


 ベックは先に上がっていた。「明日も早い」と一言だけ言って自室に引き上げた。ヘルマが珍しく「飯を食ってから戻れ」と言った。食堂が閉まっていることを確認して、「外で食う」と付け加えた。


 ノルが「どこですか」と聞いた。


 「魚屋の隣に小さい飯屋がある。安い」


 「先輩、知ってましたか」


 「知らなかった」


 ヘルマについていった。


---


 店は会社から四分ほどの場所にあった。二間ほどの間口、木の扉、中に机が四つ。すでに他の客は帰った後だったが、奥から出てきた主が「まだやってる」と言った。


 ヘルマが「魚のスープと黒パン、三人分」と頼んだ。主は頷いて引っ込んだ。恒一はその頼み方が板についていることに気づいた。ヘルマがここを以前から使っているということだった。


 ランプが一つ、机の中央に置かれた。オレンジ色の火が揺れた。窓の外に、港の灯りが見えた。


 スープが来た。魚の出汁と塩の匂いだった。深夜の採取作業帰りに丁度いい、重すぎない温かさだった。恒一は黒パンを一口かじった。固いが、嚙むほどに麦の味がした。4層の焦げた臭い、5層の乾いた冷気、一日そのなかにいた後の食事だった。体が少しずつ地上に戻ってくる感覚があった。


 前の会社では、残業の後はコンビニで買ったパスタを机で食べた。誰かと飯を食う気にはなれなかった。なれなかったというより——そういう選択肢を考えたことがなかった。それが普通だと思っていた。


---


 「今日の採取量、まあまあでしたね」とノルが言った。スープを両手で持ちながら言った。昼間の5層のノルとは、声のトーンが違った。


 「三度目としては妥当だ」ヘルマが答えた。「この段階は採取より地形の把握が優先だ」


 「影熊、また気配だけでした」


 「急いで仕留めなくていい。素材価値はあるが、怪我の代価が高い」


 ノルが「ですね」と頷いた。スープを一口飲んで、「5層って、4層と全然違いますよね」と言った。「なんか……静かというより、遠い感じがする」


 「深くなるほど、魔力の性質が変わる」ヘルマが言った。「お前の敵意感知(センスエネミー)が5層で鋭くなるのも、それと関係しているかもしれない」


 「そうなんですかね」ノルが少し考えた。「信仰系の感知って、瘴気が濃い場所ほど逆に働きやすいのかもしれないっす。父がそんなことを言ってたような気がします」


 言ってから、ノルが少し間を置いた。「……うろ覚えですけど」と付け加えた。


 恒一は何も言わなかった。スープを飲んだ。


 ノルが昼間に膝をついて祈った場所のことは、ノルが話さない限り触れないつもりだった。「うろ覚えですけど」という距離感の取り方を、恒一は尊重した。


 しばらく、食べながら話した。採取した鉱石の商品価値、6層以深の話が社内で出ているという噂、食堂に最近入った新しい料理人が作る塩漬け肉が固いという話——ノルが主に話し、ヘルマが短く返し、恒一がたまに答えた。


 ヘルマがパンを半分まで食べた頃、ノルが「ヘルマさんって、故郷に帰りたいと思うことありますか」と言った。


 脈絡のない問いだった。ノルにとってそれほど深く考えた問いではないようだった——スープの底を眺めながら、思いついたように言った。


 ヘルマが手を止めた。


 すぐには答えなかった。恒一はヘルマの表情を見ないようにして、ランプの火を見た。答えたくなければ答えない——ヘルマはそういう人間だった。


 「ロドランには帰る場所がある」ヘルマが言った。


 ロドラン——その名前が、頭の中で何かを引いた。


 TRPGのルールブックに地図と解説があった。大陸北西、アントリム山脈の内側に広がる山都連合。ドワーフとの共住が長い人間の国。


 鉱業と武具で知られ、軍政が敷かれている。峠道を握る国は物流で強い——世界観設定ではそういう国だった。

 

 エリンにいた頃、世界の知識を整理していた時期にユミナに確認したことがある。「おおむね正確です」とユミナは言った。


 「精霊魔法の使い手が多い地域でもあります。ドワーフは土と金属の精霊との親和性が高く、人間でもその環境で育てば精霊使いの素質が芽生えることがあります」


 そして、外来者への目は厳しいですが、技術の水準は高いと。


 そこまでだった。本の中の、遠い山の国だった。


 今、その国から来た人間がランプの火を見ていた。


 「だが、帰れない場所でもある」


 ノルが「どういう意味ですか」と聞いた。


 ヘルマが少し間を置いた。珍しい間だった。


 「帰ったとして、何をするかが分からない」ヘルマが言った。「ここでやっていることを、あそこでやる手段がない。やり方を変えて帰ることは、帰ることじゃない気がしている。だからここにいる」


 それだけだった。ヘルマはパンに視線を戻した。それ以上話す気がないことは分かった。ノルも「そうっすね」とだけ言って、スープを飲んだ。


 恒一も何も言わなかった。ヘルマが珍しく言葉にした、その重さを引き取る言葉が思いつかなかった。というより——引き取ろうとすることが、この場に合わない気がした。


---


 帰り道、三人で並んで歩いた。港から夜風が来て、潮と金属の混じった匂いが流れた。ノルが「先輩、また明日っす」と途中で別の棟に折れていった。恒一とヘルマは同じ方向だった。


 並んで歩いた。ヘルマが歩く時のリズムは、探索中と変わらなかった。


 「ロドランで精霊術を学んだのは、ドワーフの師匠からだ」


 ヘルマが突然言った。恒一は歩調を変えなかった。


 「人間が精霊術を使えるようになること自体が稀だ。ドワーフが人間を弟子にすることも稀だ。私はロドランではどちらでもなかった——ドワーフでも純粋な人間でもない扱いを受けた」


 「それで出た」


 「出た。ここに来て十年になる。今さら戻っても、どこに立つかが分からない。だから帰れない」


 ヘルマの言い方は平坦だった。感情が乗っているというより、何度も自分の中で確認してきた事柄を、今夜たまたま声に出した——そういう調子だった。


 「よく話しましたね」と恒一は言った。


 ヘルマが少し間を置いた。「今日は」と言った。「ノルが聞いたから」


 棟の入口で「報告書は明日でいい」とヘルマが言って、先に入っていった。


---


 一人になった。


 廊下に立ったまま、恒一はしばらく動かなかった。


 ノルが今日の昼間に膝をついた場所のことを、恒一は知っている。ヘルマが十年間帰れないでいる場所のことを、恒一は知っている。どちらも——聞こうとして聞き出した話ではなかった。ただ隣にいた。ただ一緒に歩いた。ただ同じ机でスープを飲んだ。それだけのことで、今の恒一はこの二人のことを、ここに来た頃より知っている。


 ダラが言っていた言葉があった。「お前さん、人との間に線を引くのが上手いな。上手すぎるくらいだ」。あの時恒一は、そうだ、と思った。線を引いていれば誰も傷つかない。自分も、相手も。


 しかし今日、ノルの「なんでもないっす」を聞いた。ヘルマの「今日は」を聞いた。


 線を引いた覚えが、今日はなかった。引こうとしたかもしれない。しかし何かを引き出そうとも、何かを言おうともしなかった。ただ隣にいた。


 それで、知ってしまった。


 自室のドアを開けた。入る前に廊下の窓から港の灯りを見た。この街に来てから、月を数えると二ヶ月近い。


 境界線は、引いていたはずだった。しかし気づいたら、向こう側に人がいた。


 いつ越えたか、分からなかった。越えた、という記憶がなかった。



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