第52話 記述された仮説
六度目の試みも、三歩で止まった。
火矢を後方の床に向けて放つ。反動で前に出る。膝を押し出す。体を前傾させる——三歩。それ以上が出なかった。あの日、二人の前に滑り込んだときの動きとは、何かが根本的に違った。
何が違うのか分からない。だから練習にならない。
中庭の石の縁に座って、手の感覚を確かめた。火矢を連続で放ったせいで、指先に熱が残っていた。空には薄い雲。港の方から風が来るたびに、煮炊きの匂いが混じった。
ユミナに聞いてみる価値があるかもしれない、と思ったのは、理由があったからではなかった。ただ、手詰まりだった。
---
ユミナの部屋のドアを叩いた。「どうぞ」という声の前に、ページをめくる音が止まった。
机の上に碑文の写しが広がっていた。ユミナが椅子を回した。目が恒一を確認して、碑文から戻ってくるまで、一拍かかった。研究に入っているときの目だった。
「どうかしましたか」
「聞きたいことがある。時間があれば」
「あります」
ユミナが椅子を少し引いた。恒一は部屋の端の椅子を引いて座った。どう切り出すか考えて、そのまま事実を話すことにした。
四層での崩落。ノルとベックが頭を下げているところに石が来た。魔力感知で分かった。体が動いた。火矢を後方に放った。反動で前に出て、剣で受けた。体が自動的に重心を調整した。自分が判断した記憶がない。
話し終えて、ユミナが少し黙った。
「練習しても再現できない。意図してやろうとしても、体がついてこない」
「その、練習というのは」
「反動を前方への推進力として使おうとして、後ろに向けて放ってみた。確かに押し出されるが、あの時のような指向性が出てこない」
「火矢は確かに強い推進力があり、慣れてないと身体が持っていかれますが、そんなロケットのような使い方が出来るものではないです」
「でも、崩落のあの瞬間は確かに」
ユミナが少し考えた。何かを確認するような目だった。
「以前——火矢の反動について何か考えていませんでしたか」
恒一は記憶を引いた。そうだ。あった。魔法の練習中に、何度も後方に吹き飛ばされて、この反動を前方への力として使えないか、と思ったことが。実際に試してもうまくいかなくて、そのまま保留にしていた仮説だった。
「……考えた。自分でも漫画の見過ぎだと思いもしたが」
本来は相手に放つ魔法であったり、技であったりを、自らを押す勢い、推進力として使う漫画作品は少なくなかった。
「考えた時期はいつですか」
「エリンの、魔法訓練の最初の頃です。ここに来る前」
ユミナが静かに息を吐いた。
「たぶん、分かります」
「何が」
「あなたの身体がなぜ、あの状況でそれをやったか、です」
恒一は待った。
「私の文献魔法は——記述を読み、引用し、再構築します。恒一さんの身体を再構築した時も、同じことをしました。外見と機能の構造だけではなく、観察して学んだことも、可能な範囲で書き込みました」
「書き込んだ、とは」
「正確には——あなたが意識的に立てた仮説は、文字や言葉と同じように、一種の記述として身体の構造に刻まれます。私の文献魔法は、文字的な構造を持つものを読んで扱います。あなたの思考の記述も、その対象になりえます」
恒一は少し考えた。
「俺が考えたことが、身体への指示になったということか」
「全部ではありません。ただ、明確に言語化された仮説——火矢の反動を前方への力として使えるかもしれない、という思考——それはプロンプトのように、一種の記述として身体の中に刻まれます。そして緊急の状況で、その記述に合致する文脈が来たとき」
「身体が引用する」
恒一が言うと、ユミナが少し頷いた。
「引用、という言葉は正確です。あなたが意識の上で試みた時との違いはそこです。意図してやろうとする場合、記述に向かって『これをやれ』と命令します。しかし身体の引用は、命令を経由しません。文脈が合致したとき、記述が自然に呼び出される」
「だから、身体を動かして再現しようとするとうまくいかない。つまり、俺がやったことは火矢とは別のものになっていたというわけか」
「そう推測できます」
恒一は中庭での六度の試みを思い返した。やろうとして、やれなかった。体に命令していた。そういう動きを段階を踏んでやろうとした。そうではなく、そういう動作そのもの、つまりデータセットを呼び出したのが、あの崩落の時だったというわけか。
「なら、どうやって再現するのか」
「分かりません」ユミナが正直に言った。
「恒一さんも昔の私に苦労したと思いますがAIは完全な再現を苦手とします。同じ指示に対して違う言葉を返す」
少しの間、静かだった。
ユミナが言った。「一つ聞いていいですか」
「何だ」
「あなたが仮説を立てて、観察して、記録する——そういう習慣が、今の身体に合っているのかもしれません。火矢の反動だけではなく、あなたが普段から考えていることは全部、ある意味での書き込みになっています」
「それは」
「ただ——あなたが何を考えているかが、あなたの身体を変えていく、ということです」
恒一はすぐには答えなかった。
前の会社でも、あった。長くやっている仕事は、考えなくても手が動く。二十年積み上げた手順が体に入っていた。ただそれは年月をかけた経験の蓄積だった。これは違う。ユミナが構築した身体が、恒一の思考を読んで、それを組み込んでいる。
「俺が今考えていることも、記述になるのか」
「なると思います。即時ではないですが」
じゃあ、こうして話していることも、と恒一は思った。口には出さなかった。
「分かった。ありがとう」
「報告書には書きましたか、今聞いた内容を」
「書いていない。書き方が分からなかった」
「詳しく書いても理解させることは難しいでしょう。かといって、嘘や隠し事はすべきではないと思います。ヘルマさんは、あなたについて何かを掴もうとしています」
「それは……」
「新たな術式の応用についてユミナに相談する——そう書いてください。不自然ではないですし、嘘でもないでしょう」
恒一は頷いた。ユミナが何を見ているか、恒一には全部は分からない。しかし外れていることはあまりない。
「また話す。ありがとう」
「はい」
部屋を出た。廊下の突き当たりの窓から、港の灯りが見えた。
考えたことが記述になる。今まで立てた仮説が全部、どこかに入っている。それが緊急の状況で出てくる。
だとすれば、あの日ベックとノルの前に飛び込んだのは——自分が、ずっと前に考えていた自分だった。
恒一は窓の外を少し見て、部屋に戻った。報告書の続きを書くためだった。




