第50話 4層
下りるたびに、空気が重くなる。
一層は冷たく、菌類と鉱物の匂いだった。二層では湿度が加わった。三層では古い石の匂いが底に混じった。そして四層——三層の末端から続く急傾斜の通路が水平になった、その直後から、靴底を通して床が微妙に暖かくなった。
ヘルマが手を上げた。全員が止まった。
「温度が上がっている」
恒一も感じていた。感覚ではなく、魔力感知が捉えていた。地盤から染み出す魔力の密度が、三層とは比べものにならない。熱を帯びた重さがあった。
「地盤からの魔力放射が三層より強いです。熱を帯びた反応が前方と右に複数——三から四体。横移動しています」
「どちらに向かっている」
「こちらには来ていません。縄張りを巡回しているか」
ヘルマが壁に左手を当てた。目を閉じた。精霊との交信。数秒で終わった。
「地熱帯に入っている。この先の床下に熱脈がある。重さをかけると薄い箇所が割れる。私が常時確認する。踏む場所は私が指示する」
「熱脈というのは」
「地下から熱が噴き上がる通路だ。床が薄い箇所がある」
ベックがすでに剣を抜いていた。ノルが後方で小声で言った。「三層よりやばい感じがする」
恒一は黙ってセンスオーラを維持した。三層とは反応の質が違う、と思っていた。三層の変異動物の反応は硬く、密度が均一だった。四層の反応は——熱っぽく、揺らいでいる。生きている地盤の上で動く生き物の、密度の揺らぎだった。
三十歩ほど進んで、通路が広くなった。天井が高い。壁面の亀裂から細い蒸気が漏れている。石が焦げているような臭いが混じった。
前方に、変異動物がいた。
蟹に似ていた。鋏が四本、脚が八本。甲殻が赤みを帯びた褐色——火に長く晒した金属の色だった。体長は一ひろ強。体表に触れたら火傷するだろうと、見ただけで分かった。
「熱蟹だ」
ヘルマが短く言った。
「甲殻が蓄熱している。素手で触れるな。刃が柄まで伝わると火傷する。腹部の、脚の付け根が外殻より薄い」
ベックが剣の握りを確認した。革で巻いた手袋のまま、柄を持ち直した。
「前方に三体。センスオーラでは、腹部の脚の付け根が他より反応が薄いです」
「聞こえた」
ベックが踏み込んだ。先頭の熱蟹が鋏を横に振った。ベックが後ろに下がって避けた。鋏の先が壁を掠めた。焦げた石の臭いが一段強くなった——鋏の縁が壁を焦がしていた。
「右の個体が回り込もうとしています」
ノルが同時に言った。恒一も見えていた。右の熱蟹が壁際を移動して、ベックの側面を取ろうとしていた。
「ベック、右」
ベックが半歩横にずれた。右の熱蟹の鋏が空を切った。ベックの剣が脚の付け根を打った。甲殻と外皮の継ぎ目——そこだけ、刃が通った。熱蟹が傾いた。追撃が当たった。動かなくなった。
残り二体が向き直ったとき、地面が鳴った。
低い音だった。雷ではない。もっと深く、腹の底に響く音。地盤全体が揺れていた。
「退け」
ヘルマが叫んだ。恒一は魔力感知を足元に向けた。床下の熱脈——圧力が上がっていた。自然に、一定のリズムで。縄張りとも戦闘とも関係なく、この層の地盤が動いていた。
天井の一角から石が落ちた。拳ほどの大きさだった。続けて、もっと大きな塊が落ちてきた。右側の壁から、さらに石が崩れた。
「ベック」
ノルの声だった。
ベックが右肩に石を受けていた。大きくはなかった。しかし直撃だった。片膝をついた。剣を支えに使って立ち上がろうとした。
ヘルマの左手が上がった。霊脈整流——地盤に精霊の力が通った。天井がそれ以上崩れるのを、かろうじて抑えた。足元の揺れが弱まった。しかし完全には止まらなかった。ヘルマの呼吸が荒くなった。
ノルがベックのそばに跪いた。両手を肩に当てた。祈祷文——声にならない口の動き。神聖魔法が肩に広がった。
魔力感知が弾けた。
ヘルマの霊脈整流が届いていない天井の亀裂——そこから複数の塊が同時に剥がれていた。大きかった。ベックが石を受けた場所より大きい。落ちる先は、今まさに二人が頭を下げているその場所だった。
二人は気づいていなかった。
恒一の体が動いた。
考えてから動いたのかどうか、そのとき自分でも分からなかった。火矢を、真後ろの床に向けて放った。反動が来た。いつも自分を後方に吹き飛ばしてきた、あの力だ。しかし体が前を向いていた。押し出された。床を踏んだ——踏み直したのか、体が自動的に重心を取ったのか——気づいたとき、二人の前に入っていた。
剣を横に構えた。ダラの剣。斬るためではなかった。面で受けるために。
一つ目の石が剣の平に当たった。手首が痺れた。体が自動的に傾いて衝撃を逃がした——恒一が意図した動きではなかった。二つ目が左肩を掠めた。三つ目は角度が変わって右に逸れた。一つ目を受けた剣が、落下の軌道をわずかに変えていた。
石が止まった。
「——っ」
ノルが顔を上げた。目の前に恒一が立っていた。左肩を押さえていた。足元に砕けた石が散らばっていた。
「天井からです」
恒一が短く言った。ノルが天井を見た。さっきまで二人がいた場所の上に、抜け落ちた穴があった。
ベックが顔を上げた。穴を見た。それから恒一を見た。何も言わなかった。
ヘルマが地盤を維持したまま、こちらを見ていた。術式を止めていなかった。恒一の動きを、最初から最後まで見ていたということだった。何も言わなかった。
「コウイチ、左肩は」
「掠めただけです。動きます」
「続けろ」
ノルがベックに向き直った。両手をもう一度肩に当てた。祈祷文を再開した。
「折れていません。強打です。ひびが入っている可能性がある」
「歩けるか」
ベックが立った。
「歩ける」
「退路を確保する」ヘルマが四人を見た。「来た道を戻る」
恒一は魔力感知を切り替えた。来た道——上の通路の天井の状態を確認した。熱脈の圧力が上がってから、亀裂の走り方が変わっていた。霊脈整流が届いていない区画の天井が、均等に亀裂を広げている。次の揺れで、また崩れる。
隣の通路はどうか。探った。右の分岐——天井の亀裂が小さい。床下の熱脈がやや遠い。
「班長。来た道の天井は霊脈整流が届いておらず、亀裂が広がっています。右の分岐の方が天井の安定度が高い。退避路にするなら右側を通るべきだと思います」
ヘルマが振り向いた。地盤を維持しながら、恒一を見た。
「確認しているのか、今」
「魔力感知で。完全ではないですが、来た道より亀裂が少ない」
一秒の間があった。
「右だ。全員、右の通路へ」
四人が動いた。熱蟹の残り二体が向き直ってきた。ヘルマが言った。
「無視しろ。退避優先」
恒一が先頭で右の分岐に入った。頭の中の地図を辿った。右の通路——突き当たりを左、そこから三層への上り口に続くはずだ。ノルがベックを支えながら後ろを歩いた。ヘルマが最後尾で霊脈整流を引き延ばした。後退しながら、地盤への干渉を動かし続けた。
七十歩ほど進んだとき、後ろで崩落の音がした。来た道の通路だった。石が積み重なる音。大きかった。誰も振り返らなかった。
突き当たりを左に曲がった。三層への上り口が見えた。
上り切ると、空気が変わった。温度が下がった。熱脈の圧力が届かなくなった。ヘルマが術式を止めた。壁に手をついた。呼吸を整えた。
「ベック、肩は」
「動く」
「ノル、精査しろ」
「はい。——ひびが入っている可能性があります。今日はここで終わりにした方がいい」
「そうする」
ヘルマが四人を見回した。
「全員、報告書を書け。——コウイチ、右の通路を選んだ根拠と、石を受けたときに使った術式の組み合わせを詳しく書け」
「はい」
三層を上り、一層を抜けて地上に出た。夕方の潮風が顔に当たった。恒一は一度、深く息をした。熱と焦げた石の匂いが、まだ肺の底に残っている気がした。
四層は、三層の延長ではなかった。匂いが違う、温度が違う、地盤が違う——そういう量の違いではなかった。地盤が動いていた。圧力を持ち、自分のリズムで揺れ、人間の都合を関知しなかった。その中に入って動くのは、静止した迷路を歩くこととは、種類が違う話だった。
ベックの肩の強打も、崩落も、誰かの判断の誤りではなかった。それでも、起きた。
恒一はその事実をどこに置けばいいか、まだ決まっていなかった。




