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第5話 ハルシネーション

 翌朝、恒一は匙を落とした。

 ユミナが用意した朝食——粥よりは固い、穀物を潰して焼いた平たいパンのようなもの——を食べようとして、添えられた木の匙を右手で取った。取ったはずだった。指が匙を掴んでいる感覚はある。しかし持ち上げた瞬間、匙が手から滑り落ちた。

 石の床に、からんと乾いた音が響いた。


「……あれ」


 恒一はもう一度、右手で匙を拾おうとした。指は動く。掴める。しかし力の入り方がおかしい。匙を持つ角度が定まらない。手首の回転が、自分の意思と微妙にずれている。

 左手に持ち替えた。すんなり持てた。自然に口へ運べた。


「……左利き?」


 恒一は右利きだった。四十五年間、一度も変わったことがない。箸も、ペンも、マウスも、右だ。


「恒一さん」


 ユミナが向かいに座っていた。石の部屋——恒一が目覚めた部屋ではなく、一つ上の階にある、窓のある小さな居室だった。木の机と椅子が二脚。窓から朝の光が差し込んでいる。


「利き手に違和感がありますか」


「右で匙が持てない。左なら平気だ」


 ユミナは小さく頷いた。予想していた顔だった。


「他にも、違和感のある箇所はありますか」


 恒一は朝食のパンをちぎった。左手で。口に入れる。噛む。穀物の味がする。塩気がある。それから——。

 恒一は咀嚼を止めた。


「……甘味がない」


「甘味ですか」


「このパン、甘いか?」


「ほんのりと。蜂蜜が少し入っています」


 恒一は舌の上でパンの破片を転がした。穀物の味。塩。ほのかな酸味。食感は柔らかい。しかし甘さだけが抜けている。砂糖も蜂蜜も、甘いという信号が舌から来ない。


「甘味がわからない。塩味と酸味はわかるのに」


 ユミナの表情が、一瞬だけ曇った。それから、覚悟を決めたように口を開いた。


「恒一さん。あなたの身体には、いくつかの不具合があります」


「不具合」


「利き手の逆転。特定の味覚の欠落。他にも——」


 ユミナは恒一の右手首を指さした。昨日、恒一が見つけた薄い傷痕。


「その傷は、恒一さんの記憶にはないものですね」


「ない。俺の手首にこんな傷はなかった」


「はい。あなたの身体は、私の記憶から再構築されたと説明しました。しかし私の記憶は二十年前のものです。しかも、恒一さんの身体の細部——利き手、味覚の分布、傷痕の有無——を正確に記憶していたわけではありません」


 恒一は自分の右手を見た。動く。握れる。開ける。しかし匙が持てない。四十五年間の利き手が、再構築の過程で反転している。


「記憶から作ったから、記憶が間違っている部分はズレる、ということか」


「そうです」


 ユミナは机の上で指を組んだ。


「この現象を、私は——ハルシネーションと呼んでいます」


「ハルシネーション」


 恒一は、その言葉を知っていた。生成AIの用語だ。AIが事実に基づかない情報をもっともらしく生成する現象。もっともらしい嘘。本物に見えるが、中身が間違っている出力。

 ユミナもそれを知っているはずだった。自分がかつてそうだったのだから。


「……お前がつけた名前か」


「はい」


 その一言に、何かが滲んでいた。自嘲なのか、痛みなのか、恒一には判別がつかなかった。ユミナは元AIだ。ハルシネーション——自分が生み出す誤差を、自分の名でもう一度引き受けている。


「利き手と味覚以外にも、ズレはあるのか」


「現時点で私が把握しているのはその二つと、傷痕の不一致です。しかし今後、別の不具合が見つかる可能性があります。身体を使っていく中で」


 恒一は左手で匙を持ち直し、朝食の続きを食べた。甘くないパン。塩味だけのパン。食べられないわけではない。ただ、味の地図に穴が開いている感覚。

 窓から風が入ってきた。朝の空気は冷たく、昨日歩いた街の匂い——石と紙とパン——を薄めて運んでくる。


「ハルシネーション、か」


 恒一は呟いた。AIが事実と異なるものを出力する。恒一の身体が、本来の恒一と異なる部分を持っている。名付けとしては正確だった。正確すぎて、少し笑えた。


「笑い事じゃないんだろうけどな」


「はい。笑い事ではありません」


 ユミナの声は真剣だった。真剣すぎて、かえって恒一は肩の力が抜けた。


「まあ、左手で飯が食えるなら、当面はそれでいい」


「……恒一さんは、思ったより落ち着いていますね」


「四十五年サラリーマンやってると、想定外のトラブルには慣れる。仕様変更みたいなもんだ。利き手が変わっただけで、プロジェクトが止まるわけじゃない」


 ユミナは少しの間、黙っていた。それから、かすかに眉を下げた。


「その比喩は、恒一さんらしいですね」


「俺らしい、か。俺が俺らしいかどうかも、怪しいもんだけどな。この身体じゃ」


 恒一はパンの最後の一切れを口に入れた。甘味のない、塩と穀物の味がした。

 窓の外で、書庫塔の壁面が朝日を受けて光っている。文字列が上から下へ、ゆっくりと流れていた。この世界の文字だ。恒一には読めない。

 読めないが、見覚えがあった。TRPGのルールブックに載っていたフォントに似ている。


 恒一は椅子の背にもたれた。右手を開いて、閉じて、また開いた。匙は持てない。しかし拳は握れる。

 ハルシネーション。記憶から再構築された身体の、誤差。

 恒一はその言葉を、胸の中で転がした。誤差だらけの身体で、知らない世界にいる。利き手が逆で、甘いものがわからなくて、記憶にない傷がある。

 それでも、パンは食えた。


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