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第46話 3層

 匂いが変わったのは、二層を通過してすぐだった。


 一層の匂いは冷たく、菌類と鉱物が混ざっていた。二層に入ると密度が上がり、水気が加わった。そして三層——通路の傾斜が急になるある一点を境に、匂いの質が変わった。鉱物の気配は残っていた。しかしその下に、もっと古いものが混じっていた。石が百年、千年、光を見ずに積み重なったような——言葉にしにくい匂いだった。


 恒一は立ち止まりたかったが、止まらなかった。前を歩くヘルマが、止まらなかったからだ。


「三層だ」


 ヘルマが言った。説明でも警告でもなく、確認だった。


「ここからは地盤の状態が変わる。私が常時霊脈整流(レイレクティファイア)を張る。足元に違和感を感じたら即座に報告しろ。飲み込まれることがある」


「飲み込まれる」


「地盤が急に柔らかくなる箇所がある。沈む。抜け出せないわけではないが、時間がかかる。時間は命だ」


 恒一は足元を意識した。石の感触。固い。今のところ。


 通路を進んだ。天井が高くなった。一層より高い。しかし開放感はなかった——天井が高い分、闇が深かった。灯火(ライト)の届かない領域が増えた。恒一は魔力感知(センスオーラ)の出力を一段上げた。消耗が増えるが、見える範囲を広げる必要があった。


 五十歩ほど進んだところで、ヘルマが右手を上げた。


 全員が止まった。


 ヘルマの左手が壁を探った。目を閉じた。精霊との交信——数秒、静止した。


「……地盤が動いている。前方の通路、右側の壁から二ひろ以内は歩くな。地盤が薄い」


 恒一は魔力感知(センスオーラ)で前方を確認した。変異動物の反応は——一体。前方五十歩ほど。動いていない。静止している。


「前方に変異動物が一体。静止中。大きい」


「大きい、というのは」


「反応が——これまでの個体より、ずっと大きいです。一層の個体の五倍以上の反応量があります」


 ヘルマの眉が動いた。


「種類はわかるか」


「わかりません。ただ、反応が熱を帯びています。一層や二層の個体とは質が違う」


「ベック」


 ベックがすでに剣を抜いていた。音がしなかった。


 前に進んだ。ゆっくりと。恒一は右側の壁から距離を取りながら、魔力感知(センスオーラ)の更新を続けた。前方の反応が——動き始めた。


「動きました。こちらに向かっています」


 変異動物が現れた。


 通路の幅いっぱいだった。四足の獣だった。体表に灰色の突起が並んでいる——鱗ではなく、骨格が皮膚を突き破ったような形状だった。頭が大きく、低く構えている。足が六本——太くて短い。体長は四、五ひろか。それだけの体積が、通路を塞いでいた。


「退け」


 ヘルマが言った。恒一とノルが後ろに下がった。ベックが前に出た。


 獣が突進した。速度があった。あの体積で、それだけ動けるのかと恒一は思った。ベックが横に跳んだ。獣の突進が外れた。壁に衝突した——石の壁が凹んだ。砕けはしなかったが、亀裂が入った。


「左の壁、崩れる可能性」


 恒一が叫んだ。ヘルマが即座に左手を向けた。霊脈整流(レイレクティファイア)——亀裂の走った壁に精霊の力が入った。崩落が止まった。しかし注意がそちらに向いたヘルマの足元が、わずかに沈んだ。


「班長の足元」


「わかっている」


 ヘルマが右足で地面を踏み直した。地盤が応えた。固まった。しかし一瞬、体勢が崩れた。


 獣が向き直った。今度はベックではなく、ヘルマに向かっていた。


「ノル」


敵意感知(センスエネミー)——方向変わります、今です」


 恒一が一歩前に出た。剣を抜いた。斬るためではなかった。獣の視線を引く——「こっちにいる」と知らせるために。


「こっちだ」


 大声を出した。獣の頭が動いた。恒一を見た。一瞬の判断——ヘルマとどちらを狙うか。


 その一瞬で、ベックが動いた。


 獣の横に回り込んで、剣を振り下ろした。重い一撃だった。骨格の突起の隙間——わずかに柔らかい脇腹に当たった。獣が低くうなった。横にぶれた。壁に当たって、止まった。


「ノル、浄化」


 ノルが前に出た。両手を広げた。声にならない祈祷文。獣の周囲の瘴気が濃くなっていた——傷ついた変異動物は瘴気を濃く出す。ノルの神聖魔法が広がった。瘴気の濃度が下がった。


 獣がもう一度立ち上がろうとした。


「右の関節」


 恒一が言った。見えていた。ベックの攻撃で、獣の右の前脚の二番目の関節に歪みが出ていた。次に動けば、その関節に体重が集中する。


 ベックが右の前脚を狙った。剣が当たった。骨格の突起の間を正確に通った。獣が崩れた。今度は立ち上がらなかった。


 静かになった。


 恒一は魔力感知(センスオーラ)を広げた。他の反応はなかった。獣一体だけだった。


「終わりだ」


 ヘルマの声。平静だったが、呼吸が少し乱れていた。地盤の安定と壁の崩落阻止を同時にやった負荷だった。


「ヘルマ班長、異常はありますか」


「問題ない。——ノル、瘴気の状態は」


「もう少しかかります。でかいっすね、これ」


 ノルが倒れた獣を見ていた。


骨棘獣(ボーンスパイカー)か」


「たぶん。前に入った時は遭遇しなかったが、縄張りが移動したかもしれない。——コウイチ、関節を指摘したのは、前から見ていたのか」


「ベックの最初の攻撃から見ていました。当たった場所の反応が他より弱かったので」


魔力感知(センスオーラ)で関節の状態まで見えるのか」


「正確には見えていません。感触です。魔力の反応が均一でない箇所があった。そこが弱いと仮定しました」


 ヘルマが少し考えた。


「仮定が当たった」


「今回は」


「今回は、でいい。事実だけ報告書に書け」


 浄化が終わった。素材の回収をした。三層の変異動物は骨格の突起が硬く、加工すれば防具の材料になるとヘルマが言った。ベックが慎重に回収した。重かった。


 帰り道は来た道を戻った。恒一が道案内した。地盤の危険箇所を避けながら。二層に上がった時、空気が変わった。三層の古い匂いが薄れた。恒一は気づかないうちに息を詰めていたらしく、二層に入った瞬間に肺が楽になった。


「深くなるほど、匂いが違いますね」


 歩きながら恒一が言った。


「気づいていたか」


「三層に入った瞬間から。何か——古いものの匂いがしました。一層や二層とは違う種類の」


 ヘルマが少し黙った。


「精霊の密度が変わる。深層ほど、地盤に古い魔力が溜まっている。それが匂いに出る——私たちは精霊の気配として感じるが、感知系の術式を持っていれば別の形で来るかもしれない」


魔力感知(センスオーラ)でも、三層は何かが違うと感じました。反応の……色が違う、とでも言えばいいか」


「面白い表現だな」


 ヘルマが短く言った。それだけだった。


 地上に出た。ターレ港の潮風。西の空が赤くなっていた。今日は時間がかかった。


 ドラク商会に戻った。報告書を書いた。三層の変異動物との遭遇。地盤の状態。壁の亀裂と崩落阻止。恒一の関節の仮定とベックの攻撃結果。全部書いた。


 書き終えて、ヘルマに渡した。ヘルマが読んだ。


「お前の報告書は毎回、事実と仮定を分けている。よい習慣だ」


「仮定が外れた場合に、事実だけが残るようにするためです」


「そうだ。——次回、三層の調査を続ける。今日確認した地盤の危険箇所を地図に落としておけ」


「はい」


 恒一は地図に記録した。今日の足跡と、危険箇所の位置と。


 三層はドラク商会が持つ探索権の、いちばん深いところだった。この先には、会社として降りられない層がある。今日の戦闘を思い出した——あの獣一体でヘルマの地盤制御が一瞬崩れた。深くなるほど、精霊の応答が変わると言っていた。


 もっと深い場所では、どうなるのか。


 恒一にはまだ、想像しかできなかった。



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