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第45話 会社の暮らし

 社員寮の朝は、早かった。


 六時前には廊下に足音が響いていた。探索班は入坑時刻が決まっている。入坑の二時間前には装備の確認と朝食を済ませなければならない。恒一が目を覚ます前に、隣の部屋からすでに物音がしていた。壁が薄かった。隣の入居者が何時に起きて、どんな順番で支度をするかが、おおよそわかるくらい薄かった。


 恒一は天井を見た。石造りの天井だった。前の会社の社員寮とは違う——あそこはコンクリートで、夜中に配管の音がした。ここは石と砂漆喰の匂いがする。冷たく、乾いた匂いだった。


 (サラリーマンに戻った気分だな)


 内心で思った。ベッドから起き上がった。


 食堂で朝食を取った。パンと干し野菜のスープ。いつも同じだった。バリエーションは野菜の種類が変わる程度で、量は一定だった。恒一は量に慣れた。この身体の必要量が、以前の——前世の——身体より少ないのは最初から知っていた。食べ過ぎると動きが鈍くなる。ちょうど今の量が合っていた。


 ヘルマがすでにいた。食べながら今日の探索区画の地図を確認していた。恒一が向かいに座った。


「今日は二層の北通路だ。昨日の調査で、東通路の水脈移動の影響が北にも広がっているかもしれない」


「確認のための調査ですか」


「採取の前段階だ。状況によっては即撤退する。コウイチ、魔力感知(センスオーラ)は短い間隔で頼む。水の浸み込みは地盤の反応が遅れて出る」


「はい」


 ベックが来た。椅子を引いて座った。パンを一枚取って、黙って食べた。ノルがその後ろから入ってきて、「おはようございます先輩方」と言いながら恒一の隣に滑り込んだ。


 これが朝だった。毎日ほぼ同じだった。


 前の会社にも同じような朝があった。定時に出勤して、席に着いて、前日の残件を確認する。同じ顔が同じ席に座る。ただしあそこでは、誰かが欠けても死んでいるとは限らなかった。ここでは——欠けた場合の意味が違う。


 それだけが違う。それだけ、という言い方がおかしいのはわかっていた。


 探索から戻ったのは昼過ぎだった。北通路の地盤は安定していた。水脈の影響はまだ届いていなかった。今後の監視が必要、という結論をヘルマが報告書にまとめた。恒一は採取量の記録と、魔力感知で確認した変異動物の位置を補足した。書き終えてヘルマに渡した。


「字が上手くなった」


 ヘルマが言った。先週、字の練習をしろと言われてから毎日書いていた。ミレオスの文字は前世の文字とは別の体系で、最初はほとんど読めなかった。今は通常業務の報告書を書ける程度には身についていた。


「ありがとうございます」


「褒めていない。使えるようになった、という話だ」


 ヘルマが報告書を閉じた。これで今日の仕事は終わりだった。


 休憩の時間だった。探索から戻った午後は、翌日の準備か、自由に使うかのどちらかだった。恒一は装備の手入れをしてから、寮の自室に戻った。この一時間が、一日の中でいちばん自分のものだった。


 ユミナの部屋に寄った。


「今日の探索は問題なかった。北通路の地盤が安定していることを確認した」


「東通路の水脈移動の影響を確認するためですね。ヴェルダさんも同じ情報を欲しがっていました——碑文に水脈の記録があって、現在の状況と照合したいと」


 ユミナの顔色は今日も良かった。エルセアに来てから、魔力石の補給が安定していた。劇的な改善ではなかったが、エリンにいた頃より悪化していない。それだけで十分だった。


「調子はどうだ」


「問題ありません」


 いつもと同じ答えだった。恒一はそれ以上聞かなかった。境界線の話ではなかった——聞いて変わることと、聞いても変わらないことの区別が、少しずつわかってきていた。


 夜、食堂でノルと夕食を取った。


 二人きりだった。ヘルマはすでに食べ終えていた。ベックは部屋で食べると言っていた。恒一とノルが向かい合って、スープと黒パンを前に座っていた。


「先輩って、仕事慣れてますよね」


 ノルが言った。パンをちぎりながらだった。


「どういう意味だ」


「なんていうか——報告書の書き方とか、ヘルマ班長への報告の仕方とか。状況確認して、事実並べて、推測と分けて伝える。あれって教わってもすぐできるもんじゃないっすよ。俺、最初全然できなくて」


「慣れた、というだけだ」


「どこで慣れたんすか。先輩、うちに来る前、ギルドしか経験ないって言ってたじゃないですか」


 恒一は少し考えた。


「ユミナの弟子として、師匠の研究補助をしていた。記録と報告はそこで覚えた」


「ああ、なるほど。あの人、厳しそうだもんな——」


 ノルが言いかけて止めた。「すんません、ユミナ導師のこと」と付け足した。


「厳しくはない。正確なだけだ」


「同じじゃないっすか」


「違う。厳しいのは基準を上げることだ。正確なのは基準を変えないことだ」


 ノルが少し考えた顔をした。


「……先輩、たまにすごいこと言いますね」


「そうか」


「俺にはわかんないっすけど、なんか、ちゃんとしたこと言ってる気がする」


 14歳の見た目の自分に、17歳のノルが感心している。内心では苦笑した。前の会社なら、部下から「課長の言うこと、たまにすごいっすよ」と言われていた。立場は逆になったが、感想は同じだった。


「ノル、お前はどうしてダンジョンに入っているんだ」


「父が死んだ5層より深く潜りたい、ってのはあります。でもそれだけじゃなくて——」


 ノルがスープを一口飲んだ。


「なんか、潜ってると、ちゃんと生きてる気がするんすよね。地上だと、色々考えすぎちゃって。父のこととか、教国のこととか、神官の勉強続けるかとか。ダンジョンの中は考えることが決まってる。生きて帰るか、仲間が生きて帰れるか。それだけ」


 恒一はスープを飲んだ。


 わかる気がした。前の会社で最後の数年、仕事だけが唯一確かな時間だった。締め切りがあって、数字があって、やるべきことが明確だった。家に帰ると何もなかった——やるべきことが消えると、自分がどこにいるかわからなくなった。


 ダンジョンは、そういう意味では正直な場所だった。やるべきことが、命の形で提示される。


「父より深い階層に潜った時、何をするつもりだ」


「わかんないっす。でも行ってみたい。父が見た景色の、その先を」


 ノルが笑った。照れ隠しの笑い方だった。


「先輩は、なんでダンジョンに入ってるんすか」


「ユミナの消耗を抑えるための素材が必要だ。ここに来た理由はそれだけだ」


「それだけ、ってすごいっすよね」


「何が」


「他の人みんな、もっといろんな理由が混ざってるじゃないですか。金とか名声とか、深く潜りたいとか。先輩は一個しかないじゃないですか。ぶれないっすよね」


 恒一は何も言わなかった。


 ぶれていないのか、他に理由を持つほど余裕がないのか、自分でも判断がつかなかった。ユミナを守るために来た。それは本当だった。しかしこの数週間、探索の仕事が嫌いではなかったことも本当だった。報告書を書く時間も、ヘルマの評価も、ベックの「助かった」も、ノルとの夕食も——どれも嫌いではなかった。


 それが「理由」になるかどうかは、まだわからなかった。


「ごちそうさまです、先輩」


 ノルが立ち上がった。「明日も探索っすね。俺、敵意感知(センスエネミー)もっと早く出せるように練習してます。先輩の感知と合わせれば、前より早く変異動物の接近がわかるはずなんで」


「頼む」


「じゃあお先に」


 ノルが食堂を出た。恒一は残ったスープを飲み干した。


 サラリーマンに戻った気分だ、と朝に思った。しかし夜になってみると、少し違うとも思った。前の会社では、こういう夕食はなかった。向かいに誰かが座って、仕事の話ではないことを話す夕食。そういうものを持っていなかった。


 食器を返して、寮の部屋に戻った。


 明日はまた二層だった。北通路の続き。変異動物の縄張りと地盤の状態を確認する。報告書の形式は覚えた。道の覚え方も慣れた。魔力感知(センスオーラ)の間隔も、少しずつ最適化されてきていた。


 電灯を消した。石造りの天井が暗くなった。


 廊下の足音が遠ざかっていった。



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