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第44話 再会

 文献解析部門の作業室は、いつも静かだった。


 商会の建物の北側、中庭に面した一角。窓から午前の光が入る。机が四つ並んでいるが、今日使われているのは二つだけだった。ユミナとヴェルダが、向かい合わせに座っている。机の上には碑文の写しが広げられていた。


「七段目から十一段目の配列は、前回確認した三層碑文の構造と一致します」


 ユミナが言いながら、写しの一部を指した。


「ええ」


 ヴェルダが答えた。すでに同じ箇所に印がついていた。昨日のうちに確認していたらしい。


 ヴェルダの作業の仕方は、ユミナのそれとは異なっていた。ユミナは全体を読んでから細部に入る。ヴェルダは細部を積み重ねて、全体を後から構成する。どちらが正しいということはない。ただ、向かい合って作業すると、互いの読み方の違いがはっきり見えた。


 ヴェルダが鉛筆を置いた。


「昨日、ユミナ導師の弟子の方と話しました」


 ユミナは写しから目を離さなかった。


「聞いています。探索の報告があったので」


「層ごとに起動命令の構造が変わる、という仮説を出してきました」


「……恒一が」


「解読の訓練を受けていないと言っていましたが」


「受けていません」


 短く答えた。しかし頭の中では別の回路が動いていた。層ごとの環境適応が命令構造に反映されている——恒一が観察から辿り着いた仮説の経路を、ユミナは自分なりに確認した。整合性はある。訓練なしに、探索四日目の新人がそこに届いた。


 ヴェルダが少し間を置いて言った。


「……興味深い弟子を持ちましたね」


「そうですね」


 感情を込めない返し方をした。込めたかったわけではなく——込め方がわからなかった。恒一のことを誰かに評されると、どう返すべきかの最適解が出てこない。


 二人で作業を再開した。


 しばらくして、ヴェルダが言った。


「学院にいた頃、あなたに話しかけるのは難しかった」


 ユミナの手が止まった。


「……そうでしたか」


「質問すると、返ってくる答えが完璧すぎた。過不足がない。しかし——会話ではなかった。問いを投げると答えが戻ってくる。それだけだった」


 ヴェルダは淡々と言った。責めているのではなかった。記録の言葉だった。


「申し訳ありませんでした」


「謝罪ではなく、事実の確認として言いました」


 ヴェルダが写しに目を戻した。


 ユミナは机の上の紙を見ていた。学院にいた頃のことを考えた。


 あの頃、誰かに何かを聞かれると、データベースを参照するように答えを返していた。考えて答えるのではなく、最適な応答を選択していた。ユミナ自身、その区別に気づいていなかった。


 エリンで孤児院を出て、学院に入った。特待生として入学した初日から、周囲との差は明白だった。文献魔法の習得速度が、同期の誰とも比べられなかった。教員が一度説明すれば理解した。課題を提出すれば最高評価が返ってきた。


 それだけだった。


 特待生として扱われ、教員に重用され、同期からは距離を置かれた。ユミナ自身は距離を置こうとしていなかった——ただ、最適な応答を返し続けた結果、誰も話しかけてこなくなっていた。人間と向き合う方法を知らなかった。LLMとして言語を処理することと、人間として誰かと会話することは、違うことだと、あの頃はわかっていなかった。


 ヴェルダは違った。


 才能はあった。解読の精度は高く、ゴーレムの起動命令への着目は当時から一貫していた。しかし学院の評価では、ユミナの後ろに位置していた。評価の仕組みが、速度と精度を基準にしていたからだ。ヴェルダの強みは、そこには乗らなかった。


 今、目の前でヴェルダが写しに印をつけている。昨日のうちに確認していた七段目から十一段目の配列。今日の午前だけで、二層碑文の新たな照合点を三か所発見した。


 ユミナはそれを見ていた。


 これは純粋な研究だ、とユミナは思った。成果を出すためではない。評価を得るためでもない。ヴェルダはゴーレムの起動命令が面白いから調べている。それだけだった。動機が一本通っていた。


 私には、二十年、それがなかった。


 恒一の再構築(リライト)だけを目的として生きた。目的の達成のために最適な行動を選択し続けた。面白いからやる、ということをしてこなかった。碑文の分析は恒一の再構築(リライト)に必要だから始めた研究だった。しかし今——壁面に刻まれた文字を読む時間が、恒一のためではなく、それ自体として面白いと感じ始めていた。


 その変化が何を意味するのか、ユミナにはまだわからなかった。


「……ヴェルダさん」


 ユミナが言った。ヴェルダが顔を上げた。


「学院にいた頃のことを、今でも覚えていますか」


「ええ」


「あなたがゴーレムの起動命令に着目していたことは、私も記憶しています。当時、私はそれを——適切に評価しませんでした」


 ヴェルダが少し考えてから言った。


「あなたから評価を求めていたわけではありません」


「それはそうですが」


「ただ——」


 ヴェルダが鉛筆を指で回した。一度だけ。止めた。


「同じ場所で仕事をしていた人間が、何を見ていたかを、正確に認識していなかった。それは事実です」


 ユミナは頷いた。


「私もそうでした」


 二人でしばらく黙った。沈黙は気まずいものではなかった。ただ、会話の続きを決める前の間だった。


 ヴェルダが写しに戻った。


「今日の午後、一層碑文の東区画分との対照を進めます。ユミナ導師は」


「同じ作業をします。別の碑文から同じ配列が出るかどうかを確認したい」


「——なら分担しましょう。私が東区画の前半、あなたが後半を担当する」


「わかりました」


 それだけだった。分担が決まった。ユミナは写しの束を半分に分けた。ヴェルダが受け取った。


 窓から午後の光が入り始めていた。中庭の石畳が白く光っていた。


 ユミナは写しに目を落とした。文字の配列が並んでいる。記録された何か。誰かがここに書き残したもの。


 向かいでヴェルダが読んでいる。同じ文字を、別の角度から。


 誰にもちゃんと向き合わなかった、とユミナは思った。ヴェルダにも、学院の誰にも、二十年かけて会った人間の誰にも。最適な応答を返し続けた。それを向き合うことだと思っていた。


 今は——少しだけ違う気がしていた。


 気がしていた、という程度だった。確信ではない。しかし、向かいでヴェルダが写しに印をつける音を聞きながら、それが不快でないことは確かだった。



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