第42話 判断
二層は、一層とは別の場所だった。
通路の幅は同じか、むしろわずかに広い。しかし天井が低くなった。立ち上がれば頭が届きそうな高さ。恒一は背が低いので問題なかったが、ベックは何度か屈んで進んだ。空気が重かった。一層の冷たく湿った空気とも違う——もっと密度がある。肺に入るたびに、少し抵抗がある。
「深くなるほど空気の質が変わる」
ヘルマが前を歩きながら言った。聞かれる前に答える口調だった。
「呼吸がきつくなったら報告しろ。意識しないと気づかないまま消耗する」
「はい」
「ノル」
「敵意感知、起動中です。今のところ近くに反応なし」
二層の通路は、一層と構造が異なっていた。分岐が少ない。代わりに通路が緩く湾曲していた。真っすぐに見えて、少しずつ方向が変わる。方向感覚を維持するには、角度の変化を蓄積していく必要があった。恒一は歩きながら計算していた。いま、入口からどちらの方角を向いているか。
「コウイチ。現在の方向は」
「南南東。入口から見て、一層の南区画とほぼ同じ方向に進んでいます」
「合っている」
変異動物の気配は、最初は少なかった。魔力感知に引っかかる反応が、一層よりも散漫だった。居ないのではなく——恒一はそう感じた——どこかにまとまっていない。一層の変異動物は縄張りを持ち、定点に留まる個体が多かった。二層の反応は、散らばっていた。
三十分ほど進んだところで、変化が起きた。
反応が、動いていた。
一体ではなく、複数。三体、四体——数えるうちにも増えた。七、八体。二層の奥の方から、こちらへ向かって動いている。いや、違う。こちらを目指しているのではない。
「ヘルマさん」
恒一が低い声で言った。ヘルマが振り返った。
「魔力感知で確認中です。前方から変異動物の反応が複数——ただし、こちらに向かっているのではないと思います」
「どういうことだ」
「移動方向が一定ではありません。奥から手前へ、一方向に向かっているように見えますが——横にも散っています。何かから離れているような動き方です」
ヘルマが立ち止まった。右手が上がった。全員が止まった。
ヘルマが壁に左手を当てた。目を閉じた。数秒、動かなかった。精霊への問いかけ——恒一には声も動作も見えなかったが、それをやっていることは何度か見て知っていた。
ヘルマの眉がわずかに動いた。
「……地盤が湿っている」
低い声だった。自分へ向けた言葉のように聞こえた。
「一層より湿度が高い、というだけですか」
ヘルマは答えずに、もう少し手を壁に当てていた。
「違う。局所的に水分が増えている。地盤の中に水が入り込んでいる——地下水脈が近い」
恒一は天井を見上げた。ところどころ、岩肌の表面が濡れていた。水が滲んでいる。点ではなく、面として。一層でも湿っている箇所はあったが、こういう形ではなかった。
「変異動物が逃げているのは——」
「水が来るからかもしれません」
恒一が言い終える前に、自分でそこに辿り着いた。
「地下水脈が動いている。変異動物はそれを感知して、水のない方へ移動している。この通路は、低い方向に進んでいます」
ヘルマの目が少し変わった。
「根拠は」
「通路の傾斜です。入坑してから緩やかに下り続けています。湾曲と傾斜が重なって、気づきにくくなっていますが——体感で、入口より三から四ひろ低い位置にいると思います。水は低い方に流れる」
沈黙があった。三秒か、五秒か。ヘルマが再び壁に手を当てた。今度は時間をかけた。
「……水脈の移動が確認できた。量は小さいが、方向が悪い。この先の地盤に向かっている」
ヘルマが手を離した。全員を見た。
「撤退する」
ノルが一瞬「え」と言いかけた。しかし口を閉じた。ベックはすでに来た方向を向いていた。
「コウイチ、先頭。一層出口まで最短で戻れ」
恒一は頷いて、前に出た。来た道を頭の中で逆走した。湾曲の角度、分岐の位置、天井の高さが変わる地点——全部記録してある。歩きながら思い出しているのではなく、体が向かう方向を知っていた。
五分かかったか、かからなかったか。一層の通路に入った。天井が高くなった。空気の圧が変わった。恒一は少しだけ呼吸が楽になるのを感じた。
そのとき、後ろから音がした。
低い、地鳴りのような音だった。一秒、二秒続いて、止んだ。次に水の音が混じった。遠かったが、確かに聞こえた。流れる音。
「速くしろ」
ヘルマの声は平静だったが、歩幅が広くなっていた。
入坑口まで出た。地上の光。恒一は出口で立ち止まって、後ろを確認した。ヘルマ、ノル、ベックの順で出てきた。全員の顔を見た。怪我はない。
しばらく、誰も何も言わなかった。
「今のは」
ノルが言った。
「地下水脈の浸水だ。規模は小さいが、あの通路は使えなくなった」
「もし進んでたら」
「最悪、引き返す通路が塞がれていた可能性がある。水が満ちれば、出られなくなる」
ノルが口を閉じた。
ヘルマが恒一を見た。
「変異動物の動きに気づいたのは」
「魔力感知でです。個体数の増減より、移動方向が一定だったのが気になりました」
「通路の傾斜は」
「意識して測っていたわけではないですが——歩くうちに、来た道との感触の差が蓄積されていました。下り坂の感覚は、体が覚える」
ヘルマが少しの間、黙った。
「……新入りにしては目がいいな」
それだけだった。評価でも称賛でもなく、観察の言葉だった。しかし恒一にはそれで十分だった。
ドラク商会に戻った。報告書を書いた。二層東通路の地下水脈移動。通路の傾斜と変異動物の移動パターン。浸水の音を確認した時刻。採取量はゼロ。しかし——無事帰還。ヘルマの三原則の二番目を、今日も果たした。
夜、ユミナの部屋の扉を叩いた。
「今日は二層に入った」
「怪我は」
「ない。途中で戻った」
「……何かあったんですね」
問い方だった。確認ではなく、わかっている上での。
「地下水脈の移動。変異動物の動きで気づいた」
ユミナが少し考えた。
「二層の地下水脈は、文献解析部門でも把握しきれていません。流路が複雑で、碑文の記録と現状が一致していない部分が多い」
「古い記録と今が違う?」
「ダンジョンは変化します。静止していない。百年前の地図は、今のダンジョンの地図とは別物です」
恒一は頷いた。変化し続けているもの、という理解が加わった。均衡しているが、その均衡は固定されていない。
「今日の情報は報告書に入れるか」
「入れてください。文献解析部門に共有します」
それだけだった。恒一は自分の部屋に戻った。
ベッドに腰を下ろした。今日の帰りの通路を、もう一度頭の中で辿った。湾曲して緩やかに下っていく道。地鳴りと水音。
変異動物が逃げていた方向を正しく読めたのは、経験ではなかった。会社で似たことを見てきた——会議室の人間が一斉に出口の方を向く時、廊下で何かが起きている。誰も明示しないが、体は知っている。変異動物は同じことをしていた。ただ、規模が命に関わるだけで。
読めたから良かった。
読めなかったら——考えて、止めた。今日の仕事は終わっている。




