表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
42/82

第42話 判断

 二層は、一層とは別の場所だった。


 通路の幅は同じか、むしろわずかに広い。しかし天井が低くなった。立ち上がれば頭が届きそうな高さ。恒一は背が低いので問題なかったが、ベックは何度か屈んで進んだ。空気が重かった。一層の冷たく湿った空気とも違う——もっと密度がある。肺に入るたびに、少し抵抗がある。


「深くなるほど空気の質が変わる」

 ヘルマが前を歩きながら言った。聞かれる前に答える口調だった。

「呼吸がきつくなったら報告しろ。意識しないと気づかないまま消耗する」

「はい」

「ノル」

敵意感知(センスエネミー)、起動中です。今のところ近くに反応なし」


 二層の通路は、一層と構造が異なっていた。分岐が少ない。代わりに通路が緩く湾曲していた。真っすぐに見えて、少しずつ方向が変わる。方向感覚を維持するには、角度の変化を蓄積していく必要があった。恒一は歩きながら計算していた。いま、入口からどちらの方角を向いているか。


「コウイチ。現在の方向は」

「南南東。入口から見て、一層の南区画とほぼ同じ方向に進んでいます」

「合っている」


 変異動物の気配は、最初は少なかった。魔力感知(センスオーラ)に引っかかる反応が、一層よりも散漫だった。居ないのではなく——恒一はそう感じた——どこかにまとまっていない。一層の変異動物は縄張りを持ち、定点に留まる個体が多かった。二層の反応は、散らばっていた。


 三十分ほど進んだところで、変化が起きた。


 反応が、動いていた。

 一体ではなく、複数。三体、四体——数えるうちにも増えた。七、八体。二層の奥の方から、こちらへ向かって動いている。いや、違う。こちらを目指しているのではない。


「ヘルマさん」

 恒一が低い声で言った。ヘルマが振り返った。

魔力感知(センスオーラ)で確認中です。前方から変異動物の反応が複数——ただし、こちらに向かっているのではないと思います」

「どういうことだ」

「移動方向が一定ではありません。奥から手前へ、一方向に向かっているように見えますが——横にも散っています。何かから離れているような動き方です」


 ヘルマが立ち止まった。右手が上がった。全員が止まった。


 ヘルマが壁に左手を当てた。目を閉じた。数秒、動かなかった。精霊への問いかけ——恒一には声も動作も見えなかったが、それをやっていることは何度か見て知っていた。


 ヘルマの眉がわずかに動いた。


「……地盤が湿っている」


 低い声だった。自分へ向けた言葉のように聞こえた。


「一層より湿度が高い、というだけですか」


 ヘルマは答えずに、もう少し手を壁に当てていた。


「違う。局所的に水分が増えている。地盤の中に水が入り込んでいる——地下水脈が近い」


 恒一は天井を見上げた。ところどころ、岩肌の表面が濡れていた。水が滲んでいる。点ではなく、面として。一層でも湿っている箇所はあったが、こういう形ではなかった。


「変異動物が逃げているのは——」


「水が来るからかもしれません」

 恒一が言い終える前に、自分でそこに辿り着いた。

「地下水脈が動いている。変異動物はそれを感知して、水のない方へ移動している。この通路は、低い方向に進んでいます」


 ヘルマの目が少し変わった。


「根拠は」


「通路の傾斜です。入坑してから緩やかに下り続けています。湾曲と傾斜が重なって、気づきにくくなっていますが——体感で、入口より三から四ひろ低い位置にいると思います。水は低い方に流れる」


 沈黙があった。三秒か、五秒か。ヘルマが再び壁に手を当てた。今度は時間をかけた。


「……水脈の移動が確認できた。量は小さいが、方向が悪い。この先の地盤に向かっている」


 ヘルマが手を離した。全員を見た。


「撤退する」


 ノルが一瞬「え」と言いかけた。しかし口を閉じた。ベックはすでに来た方向を向いていた。


「コウイチ、先頭。一層出口まで最短で戻れ」


 恒一は頷いて、前に出た。来た道を頭の中で逆走した。湾曲の角度、分岐の位置、天井の高さが変わる地点——全部記録してある。歩きながら思い出しているのではなく、体が向かう方向を知っていた。


 五分かかったか、かからなかったか。一層の通路に入った。天井が高くなった。空気の圧が変わった。恒一は少しだけ呼吸が楽になるのを感じた。


 そのとき、後ろから音がした。


 低い、地鳴りのような音だった。一秒、二秒続いて、止んだ。次に水の音が混じった。遠かったが、確かに聞こえた。流れる音。


「速くしろ」


 ヘルマの声は平静だったが、歩幅が広くなっていた。


 入坑口まで出た。地上の光。恒一は出口で立ち止まって、後ろを確認した。ヘルマ、ノル、ベックの順で出てきた。全員の顔を見た。怪我はない。


 しばらく、誰も何も言わなかった。


「今のは」

 ノルが言った。

「地下水脈の浸水だ。規模は小さいが、あの通路は使えなくなった」

「もし進んでたら」

「最悪、引き返す通路が塞がれていた可能性がある。水が満ちれば、出られなくなる」


 ノルが口を閉じた。


 ヘルマが恒一を見た。


「変異動物の動きに気づいたのは」


魔力感知(センスオーラ)でです。個体数の増減より、移動方向が一定だったのが気になりました」


「通路の傾斜は」


「意識して測っていたわけではないですが——歩くうちに、来た道との感触の差が蓄積されていました。下り坂の感覚は、体が覚える」


 ヘルマが少しの間、黙った。


「……新入りにしては目がいいな」


 それだけだった。評価でも称賛でもなく、観察の言葉だった。しかし恒一にはそれで十分だった。


 ドラク商会に戻った。報告書を書いた。二層東通路の地下水脈移動。通路の傾斜と変異動物の移動パターン。浸水の音を確認した時刻。採取量はゼロ。しかし——無事帰還。ヘルマの三原則の二番目を、今日も果たした。


 夜、ユミナの部屋の扉を叩いた。


「今日は二層に入った」

「怪我は」

「ない。途中で戻った」

「……何かあったんですね」


 問い方だった。確認ではなく、わかっている上での。


「地下水脈の移動。変異動物の動きで気づいた」


 ユミナが少し考えた。


「二層の地下水脈は、文献解析部門でも把握しきれていません。流路が複雑で、碑文の記録と現状が一致していない部分が多い」

「古い記録と今が違う?」

「ダンジョンは変化します。静止していない。百年前の地図は、今のダンジョンの地図とは別物です」


 恒一は頷いた。変化し続けているもの、という理解が加わった。均衡しているが、その均衡は固定されていない。


「今日の情報は報告書に入れるか」

「入れてください。文献解析部門に共有します」


 それだけだった。恒一は自分の部屋に戻った。


 ベッドに腰を下ろした。今日の帰りの通路を、もう一度頭の中で辿った。湾曲して緩やかに下っていく道。地鳴りと水音。


 変異動物が逃げていた方向を正しく読めたのは、経験ではなかった。会社で似たことを見てきた——会議室の人間が一斉に出口の方を向く時、廊下で何かが起きている。誰も明示しないが、体は知っている。変異動物は同じことをしていた。ただ、規模が命に関わるだけで。


 読めたから良かった。


 読めなかったら——考えて、止めた。今日の仕事は終わっている。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ