第41話 地下の生態
四日目の探索は、東区画だった。
入坑口で許可証を提示した。門番の男が書類を確認して、顎で中を示した。「十七番班、ドラク商会、一層東区画、四名」と台帳に記録する。筆記の音が響いた。恒一は列の後ろをついて入りながら、内心では前の職場の出退勤記録と重ねていた。記録して管理して、数字で把握する。やることは同じだ。媒体が違うだけ。
坑内に入ると、まず匂いが変わった。
ターレ港の空気——塩と金属と汗と魚の脂——が切れて、石と湿り気と何か別のものに入れ替わる。冷たく、重く、かすかに甘いような腐るような。正確な言葉が恒一にはなかった。後になってわかった——菌類と鉱物の混ざった匂いだ。
「今日は採取が中心だ」
ヘルマが歩きながら言った。説明というより、確認の口調だった。
「南区画と違って変異動物の密度は低い。ドラク商会のこの層での主な収入源は発光鉱石と薬用菌になる」
「変異動物が少ない、というのは完全にいないわけではない?」
「縄張りを持つ個体が一定数いる。ただし南区画より小型で、行動圏が狭い。縄張りを避けて動けば衝突は最小限に抑えられる」
通路が広くなった。南区画より天井が高い。壁の一部が——青白く、ぼんやりと発光していた。
恒一は足を止めかけて、堪えた。止まることへの許可をヘルマから得ていない。視線だけを向けながら歩き続けた。壁の凹凸の間に、光の粒が集まっている。点ではなく、面として。鉱石の露出部分が全体に光を放っていた。明るいというほどではない。しかし暗がりの中で、目の端に残り続けた。
「精霊魔法で鉱脈の位置がわかるんですか」
「感じる、という方が正確だ。土の精霊は地盤の状態を教えてくれる。鉱石が集まっているところは、地盤の感触が違う」
ヘルマが壁に手を当てた。手のひらが壁面を静かになぞった。目を閉じた。数秒後、ヘルマの指が一点を示した。
「ここだ」
ベックが道具袋から金属製のノミを二本取り出した。一本をヘルマに渡して、もう一本は自分で持った。ベックはほとんど何も言わなかったが、動作は正確だった。どこに立って、どの角度でノミを入れるか——それだけ見れば、何度もやってきた作業だとわかった。
恒一は後ろで見ていた。ヘルマのノミが壁に当たる音が響く。金属が石を叩く乾いた音。一度、二度。欠片が落ちた。青白い光の破片が、地面に転がった。それだけで少し明るくなった。
「五年以上手をつけていなかったポイントだ」
「それだけ時間が必要なんですか」
「鉱石が魔力を凝縮するには、それくらいかかる。この層の地盤には薄く魔力が染み込んでいる——長い時間をかけて、鉱石に凝縮される。人間の寿命よりずっと長い話だ」
恒一は光の破片を見た。五年以上かけて育った光。ノミが当たるたびに欠片が落ちて、地面に散らばった。
「先輩」
ノルの声が後ろから来た。
「ちょっといいっすか。ここ、薬用菌が出てますよ」
恒一が振り返った。ノルが通路の壁際にしゃがみ込んでいた。指さした場所を見た——石の亀裂に沿って、灰色の小さな傘が密生していた。傘の直径は三センチほど。隙間を埋めるように、びっしりと生えていた。
「これ、父が教えてくれたやつっす。瘴気分解菌——浄化術式をかけると分解酵素が活性化して、周囲の軽い瘴気を分解する。採取して乾燥させると浄化薬の材料になります」
「ノルが採取の仕方を知っているのか」
「神官の家は薬の知識も持つんで。父が現役の時に少し習いました」
ノルは道具袋から細いナイフを取り出した。傘の部分だけを丁寧に切り取っていった——根を残して。恒一はそれを見て、理由を問う前に気づいた。根を残さなければ、次は生えない。
「菌糸が残っていれば、条件が整えばまた生えます。根こそぎ取ると次が来ない」
「採取の仕方まで覚えているんだな」
「習ったことは忘れないっすよ」
ノルは軽い調子で言った。しかし手は止まらなかった。傘を一つ切り取るたびに、根の状態を指で確認して、次に移る。父から習った動作が、そのまま手に刻まれているようだった。
恒一は魔力感知を薄く広げたまま、その場で考えていた。
発光鉱石——地盤の魔力が長い時間をかけて凝縮する。薬用菌——瘴気を分解して、暗く湿った石の隙間に適応している。変異動物——通常の動物が地下の特殊な環境に長年かけて変異した。
この三つが、互いに影響し合っている。
地盤の魔力が鉱石を育て、鉱石の微弱な発光と魔力放出が環境を形成する。その環境に特化した菌類が育ち、菌類が瘴気を分解することで変異動物が棲む空間が維持される。
一つの生態系だ。誰かが設計したのではない。長い時間をかけて、この場所が自分で均衡を見つけた。
(Wizardry、いや世界樹の迷宮か。ダンジョンに独自の生態系が成立している設定——あれは架空の話だと思っていた)
内心で思って、すぐに切り替えた。ここでは現実だった。TRPGの名称とこの世界の名称が一致していることは前から知っていた。ゲームの設定とこの世界の理が重なることも、今に始まった話ではない。しかし今日のように、地下の生態系という細部まで一致していることには——まだ慣れなかった。
「コウイチ。周囲の確認は」
ヘルマが採取を続けながら言った。
「東方向に変異動物の反応が一体。縄張りの端かもしれません。近づかなければ問題ないと思います」
「距離は」
「三十歩以上あります」
「ならいい。引き続き確認を続けろ」
恒一は魔力感知を更新した。東の反応は動いていなかった。縄張りの中心に留まっているか、あるいは休んでいるか。しばらく見ていると、微細に位置が変わった。巡回しているらしかった。範囲は狭い。
採取が続いた。ヘルマとベックの鉱石採取が進み、ノルの薬用菌の布が少しずつ埋まっていった。恒一は周囲の確認と、採取の進捗の記録を担当した。何体目の欠片を取り出したか、菌の採取量、東の変異動物の位置の変化。記録というのは、見続けることだった。
帰り道。ヘルマが「先頭を歩け」と言った。
恒一は頭の中の地図を辿った。来た道を逆に辿る。東区画は南区画より通路が単純だったが、一か所だけ注意が必要な分岐があった——光の向きが変わって、空間の印象が入口側と出口側で異なって見える地点だ。
「ここは右です。入ったとき、右の壁に縦に走る染みがありました。左にはない」
「正解だ。——ここで左に行く奴は、二十歩先で行き止まりに当たる」
ヘルマの声は淡々としていた。良い悪いの評価ではなく、事実の確認だった。
地上に出た。
午後の陽光。外の空気が乾いていた。ダンジョンの冷気と湿気が体から剥がれていく感覚があった。ターレ港の潮風が来た。恒一は少しの間、外の光の中に立った。目が慣れるまでかかった——入坑から帰るたびに、毎回少し時間がかかる。
ドラク商会の倉庫に戻った。ベックが素材を仕分けした。発光鉱石は品質確認のために鑑定室へ回される。薬用菌はノルが布ごと乾燥棚に並べた。
「今日の採取量は」
ヘルマが台帳を開きながら言った。
「発光鉱石が品質C相当。薬用菌が乾燥前でひと握り強の量です。変異動物との接触はなし——東通路の縄張り個体との距離を保って回避しました」
「縄張り個体の位置は次回も記録しておけ。変わっているかもしれない」
「はい。今日の観察では、東通路第二分岐から先の壁際を中心に、緩やかに巡回していました。次回は同じ地点から確認します」
ヘルマが書き取った。少し間を置いてから言った。
「お前の報告は使える」
それだけだった。褒め言葉というより、確認だった。恒一はそれで十分だと思った。
宿に戻って、ユミナの部屋の扉を叩いた。
「今日は東区画の採取だった。変異動物とは接触しなかった」
「発光鉱石のポイントが使われているとは——文献解析部門でも把握しています。五年以上使われていなかった鉱脈が回復したと、先月報告書で確認しました」
「ユミナも鉱脈の情報を持っているんだな」
「壁面の碑文を分析しています。構造を把握するには、産出物の分布も必要なので」
ユミナが本から目を上げた。今日は顔色が昨日より良かった。恒一はそれを確認して、何も言わなかった。
「……ヴェルダさんと一緒に読んでいる古い時代の記録に、ダンジョンの生態系について書かれた断片があります。長い時間をかけて均衡した、と記録されていました。ただし断片的で、全体が見えていません」
「誰かが記録したのか」
「残した者の素性は、まだわかりません」
それだけだった。ユミナはそれ以上は言わなかった。恒一も問わなかった。
自分の部屋に戻った。ベッドに腰を下ろして、今日のことを頭の中で整理した。
鉱石、菌、変異動物。三つが互いに関係して、一つの均衡を成している。設計された形跡はない。ただ長い時間の積み重ねで、自然にそうなった。
ユミナが言った「記録した者の素性が、まだわからない」という言葉が残っていた。
誰かが記録した——ということは、誰かがそこにいた。
あの地下の、均衡が成立するより前か、成立した後か。
いずれにせよ、記録しようとした者がいた。
恒一はそこで思考を止めた。今日の仕事の話ではなくなっていた。目を閉じた。
ダンジョンの暗さが瞼の裏にあった。青白い光の破片。ノルの手が動いて菌を切り取る音。ヘルマのノミが石を叩く乾いた響き。その奥に、東通路の縄張り個体が、巡回を続けているはずだった。




