第40話 1層
三日目の探索で、初めて変異動物と遭遇した。
一層の南区画。前回の東区画より通路が入り組んでいた。分岐が多い。天井が低い箇所と高い箇所が交互に現れる。恒一は分岐のたびに壁の形状と目印石の位置を確認した。頭の中に地図が広がっていく。左、右、左、直進、右。
「コウイチ。ここまでの道順は」
ヘルマが足を止めて振り返った。確認だった。毎回やる。
「入口から左、二つ目の分岐を右、突き当たりを左、直進して坂を下り、三つ目の分岐を右。ここまで約四百歩」
「合っている。——帰り道は」
「逆順です。右、坂を上り、右、左、左。入口まで四百歩」
ヘルマが頷いた。ベックが前方を見たまま、わずかに首を動かした。聞いていたらしい。ノルが後ろで小声で「マジかよ」と呟いた。
「歩数まで覚えてんすか先輩」
「数える癖がある」
「癖って——それもう才能っすよ」
「静かにしろ」
ヘルマが低い声で制した。ノルが口を閉じた。ヘルマの右手が上がった。停止の合図。四人が止まった。
恒一は魔力感知を広げた。前方——二十歩ほど先。反応が三つ。小さい。しかし動いている。
「前方に三体。動いている」
恒一が低い声で報告した。ヘルマが頷いた。
「ノル」
「——敵意感知。三体、敵意あり。こっちに気づいてます」
ノルの声が変わっていた。軽さが消えて、硬くなっていた。仕事の声だった。
「種類は見えるか」
「石鱗蜥っす。たぶん一層の常駐種」
ヘルマが判断した。
「ベック、前。俺が左。コウイチ、後方で見ていろ。ノル、浄化の準備」
四人が動いた。ベックが前に出た。片刃の幅広い剣を抜いた。音がしなかった。抜き方が——滑らかだった。鞘と刃の摩擦を最小にする抜き方。慣れた動作だった。
ヘルマが左に移動した。壁に手を当てた。足元の地面がわずかに震えた。地盤硬化。ベックの足場を固めている。
通路の先から、変異動物が現れた。
蜥蜴に似ていた。しかし犬ほどの大きさがある。体表が灰色の鱗で覆われている。目が四つ。前脚が六本——いや、四本の前脚と二本の中脚。体の構造が、通常の蜥蜴とは違っていた。三体が横に並んで、こちらに向かってくる。通路の幅いっぱいに広がっている。
ベックが一歩踏み出した。
先頭の一体が飛びかかった。低い姿勢から、地面を蹴って——速い。しかしベックの方が速かった。剣が横に振られた。重い一撃。蜥蜴の側面に当たった。鱗が割れる音。蜥蜴が壁に叩きつけられた。動かなくなった。
二体目が右から来た。ベックが盾——左腕に巻いた革の腕盾で受けた。蜥蜴の爪が革を引っ掻いた。ベックが盾を押し返して、蜥蜴の体勢を崩した。その隙に剣を振り下ろした。二体目が倒れた。
三体目が床を這って、ベックの左側面に回り込もうとした。
「左」
恒一が声を出した。見えていた。三体目の動き。ベックが一体目と二体目に意識を向けている間に、三体目が壁際を低く這って回り込んでいた。
ベックが反応した。左に半歩動いて、剣の柄で蜥蜴の頭を打った。蜥蜴が跳ね上がった。その瞬間、ヘルマの足元から地面が隆起した。小さな土の壁が蜥蜴の退路を塞いだ。蜥蜴が一瞬止まった。ベックの剣が落ちた。三体目が動かなくなった。
静かになった。
「終わりだ。——ノル」
ヘルマの声。ノルが前に出た。三体の蜥蜴の死骸に手を翳した。目を閉じた。唇が動いた——祈祷文だった。声にはならない、口の形だけの祈り。
恒一は魔力感知で感じていた。ノルの周囲の空気が変わった。浄化。死んだ変異動物から瘴気が漏れ出すのを抑えている。神聖魔法。ユミナの文献魔法とも、ヘルマの精霊魔法とも違う。ノルの魔力は——祈りの形をしていた。
「浄化完了っす」
ノルの声が戻った。軽い口調。切り替えが早い。
「素材を回収する。ベック」
ベックが腰の袋から道具を取り出した。蜥蜴の鱗を剥がし始めた。手際がいい。何度もやっている動作だった。恒一は見ていた。鱗の剥がし方、肉と皮の分離、内臓の処理。ベックは恒一が見ていることに気づいていたが、何も言わなかった。見て覚えろ、ということだろう。
「コウイチ。報告」
ヘルマが言った。
「変異動物、蜥蜴型、三体。南区画の第三分岐から右に五十歩の地点。通路幅は二人分。天井は低い。三体とも正面から接近。一体目と二体目はベックが正面から処理。三体目は左側面から回り込みを試みたが、ヘルマの|地盤操作で退路を塞いで処理。ノルが浄化。戦闘時間は——」
恒一は考えた。体感で。
「一呼吸以内」
「……細かいな」
ヘルマの声に、かすかな感心があった。
「位置と数と動きの報告は合っている。一つだけ抜けている。——三体目の回り込みに気づいて声を出したのは、お前だ。それも報告に含めろ」
「俺の声は報告に入るんですか」
「当たり前だ。班員の行動は全員分記録する。自分を含めてだ。——お前が声を出さなければ、ベックは一呼吸遅れていた。その一呼吸で爪をもらっていたかもしれない。声を出したことは、事実として記録に残す」
恒一は頷いた。自分の行動も記録する。前の会社の業務日報と同じだ。何をやったか、何が起きたか、自分は何をしたか。
ベックが素材の回収を終えた。革袋に鱗と牙を入れて、口を縛った。立ち上がって、恒一を見た。
「助かった」
二文字。ベックの口から出た最長の言葉だった。恒一は頷いた。
探索を続けた。南区画の奥に進んだ。変異動物との遭遇はもう一度あった。洞鼠の二体。ベックが一撃で二体とも倒した。恒一が報告した。今度は自分の行動も含めて。
帰り道。恒一が先頭を歩いた。
「帰りはお前が道案内しろ」
ヘルマの指示だった。恒一は頭の中の地図を辿った。右、坂を上り——いや、来るときに一箇所、分岐を間違えそうになった場所がある。壁の染みが似ている二つの分岐。右の方には苔が多かった。苔の量で判別する。
「ここは右です。左の壁に苔が少ないから」
「正解だ。——ここで間違える奴は多い。苔の量に気づいたのは、お前が初めてだ」
ヘルマの声に、今度は明確な評価があった。
地上に出た。午後の陽光。目が慣れるまで少し時間がかかった。ダンジョンの暗さに目が慣れ始めていた。
ドラク商会に戻った。一階でベックとノルと別れた。ベックは素材を倉庫に運んだ。ノルは恒一に手を振った。
「先輩、今日の戦闘マジですごかったっす。声出すタイミング完璧だったっすよ」
「たまたまだ」
「たまたまでも助かったのは事実っすから。——ベックさんが『助かった』って言うの、俺半年いて初めて聞いたっすよ」
恒一は少し驚いた。ベックはあまり話さない人間だとは思っていたが、「助かった」が半年で初めてとは。
「あの人、普段は何も言わないんだ」
「言わないっす。でも見てますよ、全部。——先輩のこと、認めたんだと思います」
ノルが走っていった。恒一は一人で二階に上がった。ヘルマの前に座って、口頭で報告した。ヘルマが書き取った。荒い筆跡で、しかし必要なことは全部書いた。
「報告は以上か」
「以上です」
「明日は休みだ。二日探索、一日休み。これがうちのローテーションだ。——休みの日に何をするかは自由だが」
ヘルマが恒一を見た。
「字を覚えろ。半人前のままでいるな」
「はい」
ドラク商会を出た。宿への道を歩いた。港の方から潮風が吹いてきた。腰のダラの剣が重い。腕が少し震えていた。戦闘はしていない。しかし魔力感知を長時間張り続けたことで、頭が疲れていた。魔力を使う疲労は、体の疲労とは違う。頭の芯がじんと痺れるような感覚。
宿に戻った。ユミナの部屋の扉を叩いた。
「今日、変異動物と戦った。——俺じゃないけど」
「怪我は」
「ない。班長とベックが全部やった。俺は後ろで見ていただけだ」
「見ていただけ、ではないはずです」
ユミナの声は静かだった。恒一を見る目が——わかっている目だった。恒一が何をしたか、聞かなくてもわかっている。観察し、記録し、声を出して仲間を助けた。ユミナには——恒一のやり方が見えている。
「……まあ、少しは役に立ったかもしれない」
「そうですか」
ユミナの口元が、ほんのわずかに動いた。恒一はそれを見て、自分の部屋に戻った。
ベッドに座った。目を閉じた。ダンジョンの暗さが瞼の裏に残っていた。蜥蜴の灰色の鱗。ベックの剣が空気を裂く音。ノルの唇が動く祈祷文。ヘルマの足元から隆起する地面。
そして——「左」と叫んだ自分の声。
あの瞬間、恒一は考えていなかった。見えたから、声を出した。三体目が回り込んでいるのが見えて、体が勝手に声を出した。前の会社で、部下が見落としている数字に気づいたときと同じだ。見えたものを伝える。それだけのことだ。
しかし——ここでは、それが命に関わる。




