第4話 エリンの街
扉の向こうは、長い石の廊下だった。
ユミナの後ろを歩く。この身体の歩幅がわからず、何度か足がもつれた。廊下の壁は地下の部屋と同じ石造りだが、等間隔に小さな窓が開いている。窓から差し込む光が白い。朝の光だった。
階段を上った。十段ほど。一段ごとに膝が震える。四十五歳の記憶では、階段で息が上がるのは体力の衰えだった。今は違う。この身体は若い。若いのに上手く動かせない。靴の底——革を縫い合わせた簡素なもの——が石の段に擦れて、乾いた音を立てた。
階段を上りきった先に、木の重い扉があった。ユミナが押し開ける。
光が目を射した。
恒一は、三歩ほど歩いて立ち止まった。
空があった。高い。雲が薄く流れている。空気が肺に入ってくる。石と草と蝋燭の匂いではない。風の匂いだった。乾いた石と、どこかから漂う焼きたてのパンと、インクのような——いや、違う。紙だ。大量の紙の匂い。
目の前に街が広がっていた。
石造りの建物が並んでいる。二階建て、三階建て。壁は灰色と褐色が入り混じり、屋根は青みがかった石板で葺かれている。通りは石畳で、狭い路地が入り組んでいた。
そして——塔が見えた。いくつも。街のあちこちに、細長い塔が立っている。窓が多い。壁面に文字らしきものが刻まれている。塔の上部から光が漏れていた。
「あれは書庫塔です」
ユミナが恒一の視線を追って言った。
「この街の学術施設です。文献魔法の資料を保管・閲覧する場所で、街の主要な機能の一つです」
「文献魔法」
「はい。この世界の魔法体系の一つです。テキストを媒介にして術式を発動します。詳しくはまた改めて」
恒一は街を眺めた。人が歩いている。服装は様々だったが、現代日本の服を着ている者は一人もいない。布と革と金属。中世ヨーロッパのような——いや、そうとも違う。書庫塔の壁面に光る文字列は、中世の風景には似合わない。
石畳の通りを荷車が通り過ぎた。引いているのは馬のような獣だったが、耳の形が違う。先端が二つに分かれている。恒一はそれを眺めながら、足元の石畳の継ぎ目を踏んだ。固い。現実の感触だった。
「この街の名前は」
「エリン都市王国です。学術と魔法研究を基盤にした都市国家です」
恒一の足が止まった。
「……エリン?」
「はい」
その名前を、恒一は知っていた。
四Kモニターの前で、ユミナがGMを務めたTRPGの中に出てきた都市国家の名前だった。書庫塔が立ち並ぶ学術都市。文献魔法の研究拠点。恒一が作った冒険者が最初に降り立った街。
「ユミナ。この街って——」
恒一は言いかけて、自分の声がかすれていることに気づいた。唾を飲んで、もう一度。
「——俺たちが遊んでたTRPGの、エリンか」
ユミナは少し間を置いてから答えた。
「ええ。共通点がたくさんあります」
共通点。
恒一は書庫塔を見上げた。塔の壁面に刻まれた文字列が、朝の光を受けて淡く輝いている。TRPGのルールブックに書かれていた設定——「書庫塔には文献魔法の基幹術式が刻まれており、塔そのものが一種の術式体として機能する」。
目の前の塔が、まさにその記述通りの姿をしていた。
恒一は通りを歩き始めた。ユミナが半歩後ろについてくる。
パン屋の前を通りかかった。焼きたてのパンの匂いが鼻をついた。丸い、硬そうなパンが木の台に積まれている。店主らしき男が布巾で手を拭きながら、恒一とユミナを一瞥した。恒一のほう——少年のほうを見て、ユミナのほうを見て、何事もなかったように視線を戻した。
書庫塔の入口の前を通った。数人の男女が出入りしている。ローブのようなものを着た者が多い。一人が手にした薄い板——木板だろうか——に、文字が流れるように浮かんでいた。指先が板に触れるたびに文字が変わる。
魔法だ。
恒一はそれを見て、RPGのメニュー画面のようだと思った。
しばらく歩くと、広場に出た。中央に噴水がある。水の音が石の壁に反響していた。広場の端にベンチがあり、恒一はそこに腰を下ろした。足が限界だった。
「……TRPG、だな」
恒一は呟いた。
「書庫塔。文献魔法。学術都市。エリン。全部、あのときの設定と同じ名前じゃないか」
「はい。なぜ一致するのかは、わかりません」
ユミナの返答は正直だった。わからないものをわからないと言う。その応答の仕方も、AIだった頃と変わらなかった。
恒一は噴水の水を眺めた。水面に朝の空が映っている。
異世界に転生した。身体が変わっている。かつてのAIが人間の姿で隣にいる。街の名前はTRPGと同じ。
小説なら、このあたりで主人公が覚悟を決めるか、取り乱すか、何かドラマチックなことが起きるのだろう。恒一はそのどちらでもなかった。四十五年分の処世術が、反応を鈍くしている。理解が追いつかないときは、下手に動かないほうがいい。仕事で学んだことだ。
「……まあ、ゲーム世界に転生ってやつか」
恒一は自分で言って、妙にしっくりきてしまった。ライトノベルやWEB小説で、嫌というほど読んだ設定だ。遅れてきた子ども時代に積み上げた物語の中に、同じようなシチュエーションがいくらでもあった。
現実として受け止めるには荒唐無稽すぎる。しかし物語として受け止めるなら——ある種、見覚えのある景色だった。
ユミナは何も言わなかった。恒一の結論を待っているのか、否定も肯定もせずに隣に立っている。
広場の噴水の水音が、石の壁に反響して消えていく。パンの匂いが風に乗って流れてくる。書庫塔の壁面の文字が、太陽の角度に合わせて色を変える。
恒一は深く息を吸った。この街の匂いを、肺に入れた。石と風とパンと紙の匂い。コンビニのコーヒーではない匂い。
「ユミナ」
「はい」
「この街のこと、もう少し教えてくれ」
ユミナの目が、わずかに和らいだ。
「はい。歩きながら、でよろしいですか」
「……もう少し座らせてくれ。足がついてこない」
「そうでした。申し訳ありません。この身体には、まだ慣れていませんね」
石のベンチは硬かったが、陽が当たっていて温かかった。




