第38話 先輩
約束の刻に一階に降りると、ヘルマはもう立っていた。
昨日と同じ格好だった。革の腕当て、厚手の上着、腰に短剣。ただし今朝は背中に布袋を背負っていた。探索用の装備だろう。袋の口から道具の柄がいくつか突き出ている。
「時間通りだな」
ヘルマの声に感心の色はなかった。当然のことを確認しただけ。恒一は頷いた。
「今日はダンジョンには入らない。その前にやることがある」
「何を」
「お前がどの程度動けるか、見る」
ヘルマが歩き出した。恒一は後を追った。ドラク商会の裏手に、空き地があった。石壁に囲まれた四角い空間。地面は土。壁に沿って木箱がいくつか並んでいる。
「ここはうちの訓練場だ。——大層なものじゃない。地面と壁があるだけだ」
ヘルマが空き地の中央に立った。腕を組んだ。
「剣を抜け」
恒一はダラの剣を抜いた。幅広のロングソード。重い。両手で持つ。ダラに教わった構え——低く、重心を落として。
ヘルマが恒一の構えを見ていた。足元から、腰、肘、手首、指先。視線が下から上に移動して、また足元に戻った。
「ダラの教え方だな。重心が低い。踏み込みより受けに向いた構えだ。——お前の体格には合っている」
「ダラに教わりました」
「知っている。——振れ」
恒一は剣を振った。横薙ぎ。ダラが教えた通り、切るのではなく重さをぶつける振り方。剣が空気を叩いた。鈍い音。
「もう一度」
もう一度振った。縦。斜め。横。五回振った。腕が痺れた。まだこの剣の重さに体が追いついていない。
「止め。——次。火矢を見せろ」
ヘルマが壁を指した。恒一は右手を上げた。肘から先を管にする。指先に魔力を集めて——射出。
赤い光が飛んだ。壁の石に当たった。小さな焦げ跡。煙も上がらなかった。
「……弱いな」
「弱いです」
「嘘はつかないんだな、お前」
「嘘をついても仕方ないので」
ヘルマが鼻を鳴らした。笑ったのかもしれなかった。
「剣は素人に毛が生えた程度。魔法は蝋燭の火に毛が生えた程度。——ダラは何を見てお前に剣を渡したんだ」
恒一は答えなかった。答えられなかった。ダラが何を見たのか、恒一自身にもわからない。
「まあいい。戦闘力は後からついてくる。先に確認したいことがある」
ヘルマが木箱の一つから石を三つ取り出した。拳大の石。それを地面の三箇所に置いた。三角形の配置。
「いいか。お前は今、この空き地に入ったばかりだ。——この三つの石がどこにあるか、目を閉じて指さしてみろ」
恒一は目を閉じた。暗闇の中で、三つの石の位置を思い出した。右手前。左手前。中央奥。地面の色が違っていた場所。ヘルマの足跡が向かった方向。石を置いたときの腕の動き。
恒一は三方を順番に指さした。目を開けた。
ヘルマの表情が——変わっていた。驚きではない。確認だった。予想していた答えが返ってきた、という顔。
「三つとも合っている。——ダラが見たのは、これだな」
「何のことですか」
「位置の把握。空間の記憶。お前は入った場所の構造を覚えている。意識してやっているのか」
恒一は考えた。意識しているかと問われれば——していない。しかし覚えている。前の会社でもそうだった。会議室の席順、書類の位置、棚の配置。一度見れば覚えた。それが役に立つ場面が、課長としての仕事にはいくつもあった。
「……癖です」
「癖か。ダンジョンでは、その癖が命を救う」
ヘルマが石を拾い上げた。
「ダンジョンの中は暗い。灯りは限られる。地形は複雑で、同じような通路が続く。迷ったら死ぬ。——方向感覚と空間記憶が強い人間は、それだけで価値がある」
ヘルマは恒一の前に立った。腕を組んだ。目が——少しだけ、柔らかくなっていた。
「お前の役割は戦闘じゃない。もちろん戦えるに越したことはないが、今の実力では前に出したら死ぬ。——お前にやってもらうのは、観察と記録だ」
「観察と記録」
「ダンジョンの中で何が起きているか。地形がどうなっているか。敵がどこにいるか。退路がどこにあるか。それを見て、覚えて、報告する。——できるか」
「できます」
今度は即答だった。それは——恒一がもっとも得意とすることだった。観察して、状況を把握して、判断する。エリンでの護衛依頼で、恒一がやっていたことと同じだ。
「よし。——もう一つ。精霊魔法は知っているか」
「名前は聞いています。ユミナから」
「見たことは」
「ありません」
ヘルマが右手を前に出した。掌を下に向けた。目を閉じた。
恒一は魔力感知を広げた。ヘルマの周囲の魔力が——動いた。しかし文献魔法とは違った。ユミナの術式は体内の魔力を制御して発動する。ヘルマの場合、魔力はヘルマの体からではなく——地面から来ていた。
地面が震えた。
わずかな振動。足裏に伝わった。恒一の足元の土が、ゆっくりと硬くなっていった。泥のように柔らかかった地面が、石のように固まった。ヘルマの足元を中心に、直径三歩ほどの範囲。
「地盤硬化。土の精霊に頼んで、地面を固めてもらう。ダンジョンの中は崩落が多い。足場が不安定な場所で、これがないと進めない」
ヘルマが手を下ろした。地面の硬さは残っていた。恒一は足で踏んだ。石の床を踏んでいるようだった。
「精霊魔法は、精霊に『頼む』魔法だ。文献魔法のように術者が制御するんじゃない。精霊が応じてくれるかどうかは、関係による。——俺はロドランで土と金属の精霊と付き合ってきた。だから土と金属にしか頼めない」
ロドラン。ヘルマの出身地。山都連合の一角。ドワーフが多く住む地域だと、ユミナから聞いたことがある。人間が精霊魔法を使うのは珍しいとも聞いた。
「ロドランでは、人間も精霊魔法を使うんですか」
ヘルマの目が一瞬動いた。恒一の質問に——何かが触れたのだと感じた。
「使う奴もいる。少ないがな」
声が短かった。それ以上聞くなという声だった。恒一は踏み込まなかった。
「班の他の二人は、明日合流する。一人は戦闘要員。もう一人は支援兼治療。——お前を入れて四人だ。五人目はまだ欠員だ」
「欠員」
「三ヶ月前に一人辞めた。怪我をして。——死んではいない。だが、もう潜れない体になった」
ヘルマの声は平坦だった。しかし平坦さの裏に、押し込められたものがあった。班長として、部下が潜れなくなった。その事実を、ヘルマは淡々と述べる。淡々と述べるしかないのだと、恒一には聞こえた。
「午後は装備の確認をする。お前の剣の状態と、携行品の不足を洗い出す。——それと」
ヘルマが恒一を見た。
「報告書は朝までだ。探索から戻ったら、翌朝までに報告書を出す。字が書けないなら、俺が聞き取って書く。最初はそれでいい。だが——」
ヘルマの声が少し強くなった。
「いつまでも書けないままでいるな。字は覚えろ。報告書を自分で書けない人間は、半人前だ」
「わかりました」
「返事がいい。——返事だけで終わるなよ」
恒一は苦笑した。前の会社の上司に言われたことがある。返事はいいが行動が遅い、と。あの上司は恒一が嫌いだったが、指摘は正しかった。
午後。ヘルマは恒一の装備を一つずつ点検した。ダラの剣。ショートソード。水筒。携帯食。予備の靴紐。火打ち石。
足りないものを書き出していった。——書き出したのはヘルマだ。恒一はその文字を見た。読めない。しかし、ヘルマの筆跡は荒かった。力の入った太い線。急いで書いている字。丁寧さより速さを優先する書き方。この人は書類仕事が好きではないのだろう。
「ランプ用の油が要る。あと予備の包帯。どっちも一階の倉庫にある。自分で取ってこい。場所は受付に聞け」
「はい」
「あと——これを持っておけ」
ヘルマが腰の袋から何かを取り出した。小さな石だった。親指の先ほどの大きさ。灰色の、何の変哲もない石。
「目印石だ。ダンジョンの壁や地面に置いておく。帰り道の目印になる。三層までならこれで足りる。なくすなよ。支給品だから、なくしたら報告書だ」
恒一は石を受け取った。軽い。ただの石にしか見えない。
「これで道がわかるんですか」
「わかる奴にはわかる。精霊魔法か魔力感知が使えれば、置いた場所を感知できる。——お前は魔力感知が使えるんだろう。なら、自分で置いた石を追える」
恒一は石を握った。たしかに——微かな魔力の残響がある。石自体に魔力があるのではなく、ヘルマが触れたことで、ヘルマの魔力の痕跡が移っている。恒一の魔力感知でも、注意すれば感じ取れる程度の微かさだった。
「明日の朝、朝一で班の連中を紹介する。——遅れるなよ」
「遅れません」
「いい返事だ」
ヘルマが背を向けた。出口に向かいながら、足を止めた。振り向かずに。
「コウイチ」
「はい」
「ダラの剣を持っているからって、特別扱いはしない。お前はうちの新入りだ。新入りは新入りとして扱う。——それでいいな」
「それがいいです」
ヘルマの背中が少し動いた。笑ったのかもしれなかった。それから歩いていった。地面を踏みしめる足音が、角を曲がって消えた。
恒一は訓練場に一人で残った。足元の地面はまだ硬かった。ヘルマの地盤硬化が残っている。踏んでみた。硬い。この硬さの上なら、剣を振っても足元がぶれない。
ダラの剣を構えた。振った。五回。十回。腕が痺れた。しかし足元は動かなかった。ヘルマが固めた地面の上で、恒一は一人で剣を振り続けた。
日が傾く頃、宿に戻った。
階段を上がるとき、隣の部屋の扉が開いていた。ユミナが中にいた。机の上に紙が広がっている。午後にドラク商会の文献解析部門で説明を受けてきたはずだ。
「どうだった」
恒一が聞いた。ユミナは紙から目を上げた。
「……壁面碑文の蓄積量が、想像以上でした。エリンの学院にはない記録がある」
ユミナの目が——光っていた。研究者の目だった。新しい資料を前にした人間の目。恒一はその目を見て、少し安心した。ユミナがここに来た理由は消耗を遅らせる素材の確保だ。しかしそれだけではなく、ユミナの研究にとっても、この場所には意味がある。
「そっちは」
「班長に鍛えてもらった。——明日から本番だ」
「班長は」
「厳しいが、理不尽ではない人だ」
同じ言葉を繰り返した。しかし今度は——「たぶん」がなかった。




