第37話 会社という組織
翌朝、朝一の刻よりかなり早くドラク商会に着いた。
恒一の癖だった。前の会社でも、約束の十分前には着いていた。遅刻はしない。しかし早すぎもしない。十分前——前世からの基準だった。四十五年間の習慣は、体が変わっても残っている。
一階の受付に昨日の女がいた。恒一が入ると、少し驚いた顔をした。
「早いな」
「癖です」
女が二階を指した。恒一は階段を上がった。ユミナはまだ来ていない。宿を出るとき、「先に行っています」と伝えてきた。ユミナには別の用があるらしい。研究資料の整理だと言っていた。
二階の事務所にグレンがいた。昨日と同じ机。ただし今朝は帳簿ではなく、紙の束を前に広げていた。恒一を見て、顎で椅子を示した。
「座れ。契約書の前に、うちの仕組みを説明する」
グレンが机の上の紙を一枚取り上げた。ダンジョンの断面図だった。壁にかかっている地図の簡略版。
「中央ダンジョンは現在確認されているのが十二層。うちが探索権を持っているのは一層から三層だ。四層以降は大手が押さえている。探索権は毎年の競売で更新される。金を積めば深い層を取れるが、深い層は人が死ぬ。人が死ねば補充に金がかかる。金を稼ぐために人を入れて、人が死んで金が減る。——この循環に嵌まって潰れた会社をいくつも見てきた」
グレンの声は淡々としていた。経営者の声だった。
「うちは堅実にやる。三層までの素材で利益を出して、余力があれば四層の権利を競りに行く。今年は——まだ余力がない」
「社員は何人ですか」
「八十二人。探索に出るのが四十人。残りは加工、取引、事務、文献解析。——お前が入って八十三人だ。嬢ちゃんが入って八十四」
グレンが二枚目の紙を出した。
「給与体系。基本給が月に十五リーヴ。探索に出た日は日当が二リーヴ追加。素材の売上から成果報酬が出る。これは班の成績に連動する。個人の取り分は班長が決める」
十五リーヴ。エリンでの冒険者ギルドの仕事は完全成果報酬だった。良い依頼があれば稼げるが、なければ収入がない。基本給があるだけで——安定が違う。前の会社の月給を思い出した。手取り三十三万。管理職手当込み。それに比べれば——比べても意味がないか。通貨が違う。世界が違う。
「エリンのギルドでの報酬と比べると」
「ギルドは博打だ。当たれば大きいが、外せばゼロ。うちは固定給がある代わりに、天井も低い。大金持ちにはなれない。だが飯は食える」
飯は食える。それだけで十分だった。前世の恒一も、大金持ちになりたかったわけではない。飯が食えて、屋根があって、仕事がある。それで二十年やってきた。
「班の構成は」
「通常は五人一組。班長一人、戦闘要員二人、支援要員一人、記録要員一人。お前は——」
グレンが恒一を見た。
「戦闘要員としては未熟だ。支援もまだ足りない。記録は——字が読めないと話にならない。とりあえず、ヘルマの班に入れる。あいつに鍛えてもらえ」
「ヘルマ」
「ヘルマ。うちの班長の一人だ」
「嬢ちゃんの方は文献解析部門だ。ダンジョンの壁面碑文、遺物の銘文、素材の鑑定記録。文献魔法が使える人間はうちに三人しかいない。導師級が来てくれるなら、正直助かる」
グレンが三枚目の紙を出した。契約書だった。
「読めるか」
「読めません」
「正直だな。——読み上げるぞ」
グレンが契約書を読み上げた。雇用期間は一年。更新は双方の合意。業務内容はダンジョン探索および付随する業務。負傷時の治療費は会社負担。死亡時の弔慰金は基本給の六ヶ月分。
「死亡時の弔慰金、か」
「ダンジョンは人が死ぬ場所だ。そこは曖昧にしない」
グレンの声に、わずかな硬さがあった。自分も七層で片腕を失った男の声だった。
「禁止事項。単独探索の禁止。班長の指示なき深層移動の禁止。素材の私的横流しの禁止。——この三つを破ったら即時解雇だ。命に関わるものと、会社の信用に関わるもの。どちらも譲れない」
恒一は頷いた。理解できる規則だった。前の会社にも就業規則があった。守らなければ解雇。当たり前のことだ。
「質問は」
「一つ。——ユミナと同じ班に入ることはありますか」
グレンが片眉を上げた。
「文献解析の人間がダンジョンに降りることはある。壁面碑文の現地調査や、遺物の現場鑑定だ。その場合は探索班に同行する。嬢ちゃんがヘルマの班に同行する可能性はある。——だが、常時ではない」
「わかりました」
「昨日の答えと一貫しているな」
グレンが小さく笑った。恒一は——気づいた。グレンは昨日の「ユミナを守る為」を覚えている。面接での一言を、きちんと記憶している。この男は、人の言葉を聞き流さない。
「署名はどうする。字が書けないなら、拇印でいい」
恒一は親指に墨をつけて、契約書に押した。指紋がにじんだ。前世では電子署名だった。ここでは拇印。やっていることは同じだ。責任を負うという意思表示。
「よし。今日からお前はドラク商会の社員だ。——ヘルマを呼ぶ。待ってろ」
グレンが席を立って部屋を出た。金属の右手が扉の枠に当たって、硬い音がした。
恒一は一人で部屋に残った。壁の地図を見た。ダンジョンの断面図。一層から三層までに書き込みが密集している。その下の四層以降は、書き込みがまばらだった。情報が少ない。探索権がないから、情報も入らない。
壁にかかった古い剣を見た。刃が欠けた剣。グレンがまだ両腕で剣を振っていた頃の剣。この男は、あの剣で戦い、片腕を失い、経営者になった。ダラと同じだ。身体を張った人間が、次の世代を送り出す側に回っている。
廊下から足音が聞こえた。二つ。グレンの重い足音と、もう一つ——もう少し軽い、しかし地面を踏みしめるような足音。
扉が開いた。グレンの後ろに、女が立っていた。
恒一より頭一つ高い。いや、この体が小さいのだ。女は中背だが、肩幅があった。短く切った茶色の髪。日に焼けた肌。目は——鋭い。しかし鋭さの中に、観察する冷静さがあった。腕を組んでいる。革の腕当て。指先に土が残っていた。
「こいつが新入りか」
低い声。しかしグレンのような太さではなく、芯のある声だった。
「ヘルマ。こいつはコウイチ。ダラの紹介だ」
「ダラの?」
ヘルマの目が変わった。恒一の腰の剣を見た。一瞬で認識した。グレンと同じ反応だった。この会社では、ダラの名前は重い。
「……ダラの剣を持っている新入り、か。期待していいのか」
「期待はするな。鍛えろ」
グレンが言った。ヘルマが鼻を鳴らした。不満ではなかった。了解の合図だった。
「いいか新入り。明日から俺の班だ。朝一で一階集合。遅れたら置いていく。持ち物は——」
ヘルマが指を折った。
「水筒、携帯食、筆記用具——ああ、字が書けないなら絵でもいい。記録は取れ。あと、その剣の手入れ道具。ダンジョンの中は湿気が強い。手入れを怠ると錆びる」
「わかりました」
「返事は短くていい。——もう一つ。ダンジョンで大事なことは三つだ」
ヘルマが恒一の目を見た。
「報告。帰還。報告書。何があっても報告しろ。何があっても帰ってこい。帰ってきたら報告書を書け。——この三つができない奴は、長く持たない」
報告、帰還、報告書。恒一は前の会社を思い出していた。報連相。報告・連絡・相談。言葉は違うが、構造は同じだ。組織で動く以上、情報の共有が生命線になる。前の会社では比喩だったが、ここでは文字通り——生命線だった。
「よろしくお願いします」
恒一が頭を下げた。ヘルマは少し驚いた顔をした。昨日の受付の女と同じ反応だった。この街では、新入りが頭を下げるのは珍しいのかもしれない。
「……よろしく。班には他に二人いる。追って紹介する」
ヘルマが出ていった。足音が階段を下りていく。
グレンが恒一を見ていた。
「いい班長だぞ。厳しいが、理不尽ではない。——あいつの下で学べ。ダラが何を教えたかは知らないが、ダンジョンは地上とは違う」
「はい」
「嬢ちゃんには別途、文献解析の責任者から説明がある。午後に来るように伝えてくれ」
恒一は頷いて、部屋を出た。
階段を下りながら、考えていた。基本給。班構成。禁止事項。報告・帰還・報告書。契約書に拇印を押した感触がまだ親指に残っている。
前の会社を辞めたのは、体を壊したからだった。心臓が限界だった。退職届を出して、荷物をまとめて、誰にも見送られずにビルを出た。あの日の空は曇っていた。
今日の空は——恒一は一階の扉から外を見た。青かった。冬の青。港の上に広がる、雲の少ない空。
ユミナと同じ会社。しかし別の部署。毎日一緒にダンジョンに降りるわけではない。エリンでは常に隣にいた。ここでは——離れる時間が生まれる。
それは不安だった。しかし同時に——必要なことだとも思った。ユミナを守ると言った。守るためには、ユミナの隣で庇われているだけではだめだ。自分の足で立てる場所を作らなければ。
宿に戻って、ユミナに午後の件を伝えた。ユミナは紙束から顔を上げて、「わかりました」と言った。それだけだった。しかし——恒一が部屋を出ようとしたとき、ユミナが声をかけた。
「恒一さん」
「ん」
「班長は、どんな人でしたか」
「……厳しいが、理不尽ではない人だ。たぶん」
「そうですか」
ユミナの声に、わずかな安堵があった。恒一が良い上司の下についたこと。それがユミナにとって——安心材料なのだと、恒一は思った。
明日の朝、朝一で。ヘルマの班に合流する。
恒一は自分の部屋に戻って、ダラの剣の手入れを始めた。




