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第34話 ターレ港

 匂いが変わった。

 十二日目の朝、馬車が最後の丘を越えた瞬間に、空気が別のものになった。潮。それは昨日から感じていた。しかし今朝の空気にはそれだけではない何かが混じっている。金属の錆びた匂い。獣脂を煮詰めたような甘い重さ。焦げた石炭。魚を干す生臭さ。それらが潮風に攪拌されて、一つの塊として鼻腔を満たした。

 エリンの空気とはまるで違う。学術都市の乾いた石と羊皮紙と茶葉の匂いは、もうどこにもなかった。


 丘の下に、街が広がっていた。

 最初に目に入ったのは港だった。灰色の海に突き出す石造りの突堤が何本も並んでいる。その間に船が詰まっている。帆柱の林。ロープの網目。荷を降ろす人影が蟻のように動いている。突堤の根元から街が陸側に広がり、建物の屋根が重なり合って斜面を覆っていた。赤い瓦。灰色の石壁。煙突から立ち上る煙が何十本も空に向かっている。

 エリンが書物の街なら、ここは煙の街だった。


「ターレ港です」


 ユミナの声は事務的だったが、窓の外を見る目にわずかな緊張があった。ユミナにとっても、この街は未知なのだ。二十年を過ごしたのはエリンであって、エルセアではない。


 馬車が坂道を下った。揺れが大きくなった。石畳の道。エリンの石畳より荒い。車輪が跳ねるたびに、荷台の箱が音を立てた。

 街に入ると、音が変わった。

 人の声。怒鳴り声。荷車の車輪が石を擦る音。金槌が金属を打つ音——鍛冶か、あるいは船の修繕か。犬の吠える声。子供の叫び声。それらが壁と壁の間で反響して、厚みのある騒音になっていた。エリンの街も静かではなかったが、音の質が違う。エリンは人の声と足音の街だった。ターレ港は、人と金属と獣と水の街だった。


 馬車が停まった。終着点。石造りの馬車溜まりに、大小の馬車が何台も並んでいた。荷馬車が多い。荷台に木箱を積み上げた商用のもの。客馬車は少数だった。

 恒一は座席から立ち上がった。長旅で固まった腰が軋んだ。——四十五年ぶんの疲れ方だった。この体は十四歳だが、腰の痛がり方は以前と同じだ。背筋を伸ばして、荷物を持って、馬車を降りた。


 地面に足を着けた瞬間、匂いがさらに濃くなった。石畳の隙間から立ち上る湿気。排水溝を流れる水の匂い。近くの屋台から漂う——何かを焼いている。肉ではない。魚だ。串に刺した魚を炭火で焼いている。脂が炭に落ちて煙になる、あの匂い。

 腹が鳴った。


「……腹が減った」


 ユミナが馬車を降りてきた。恒一の言葉を聞いて、わずかに眉を動かした。


「先に宿を探すべきです」


「わかってる」


 わかっている。しかし匂いは理屈より先に腹に届く。

 ユミナは通りを見渡した。恒一も同じように見た。通りは広い。エリンの路地より倍はある。しかし人と荷車の密度が高く、実際に歩ける幅は狭かった。行き交う人間の格好もエリンとは違った。腕まくりをした労働者が多い。革の前掛けをした職人。肩に工具を担いだ男。荷を背負った女。汗と泥と油にまみれた人間たちが、恒一とユミナの脇を次々と通り過ぎていく。学者然とした人間はほとんど見えない。

 ここは学術都市ではない。これは——労働の街だった。


 恒一の中で、古い感覚が動いた。会社員時代。朝の駅前。スーツの群れ。あの人波と似ている。全員がどこかに向かっている。全員が何かの仕事を持っている。全員が忙しい。

 エリンでは、恒一は「異世界に来た人間」だった。ここでは——ここでは、働く人間の一人になれるかもしれない。


「ドラク商会は港の東区画にあるはずです。ダラさんの紹介状には住所が書かれていました」


「今日行くのか」


「いえ。今日は宿を確保して、街の構造を把握するべきです。明日の朝、訪問するのが適切です」


 ユミナの段取りは相変わらず正確だった。恒一は頷いた。


 二人は通りに出た。人の流れに合わせて歩いた。恒一は腰のダラの剣が人に当たらないよう、右手で鞘を押さえた。剣を腰に佩いた人間は恒一だけではなかった。通りを歩く人間の三割ほどが武器を持っていた。剣、槍、斧。エリンでは冒険者以外の武装は珍しかったが、ここでは日常の風景のようだった。

 魔力感知(センスオーラ)を軽く広げた。人混みの中に魔力の反応がいくつもある。エリンでは学院関係者に集中していた魔力の気配が、ここでは通りを歩く人間に散らばっている。密度は低いが、数が多い。冒険者——いや、冒険会社の社員たちだろう。魔法を使う人間が、ここでは労働者として街に溶け込んでいる。


「恒一さん」


 ユミナが足を止めた。通りの脇に、木の看板が出ている。宿の看板だった。錨の絵と、読めない文字。


「あれは」


「『碇亭』。船乗り向けの安宿です。——もう少し先に、もう少しまともな宿があるはずです」


 ユミナの「まとも」の基準がどこにあるのかは聞かなかった。恒一はユミナの後ろについて歩いた。


 通りが広場に出た。広場の中央に、大きな石の台座があった。その上に——何かの像が乗っている。人の形だが、風化して輪郭が曖昧になっていた。台座の周囲に人が座っている。荷物を置いて休んでいる旅人。水を売る子供。果物を並べた布。

 広場の向こう側に、別の通りが延びていた。そちらは馬車溜まりの周辺より少し静かだった。宿屋と思しき建物が並んでいる。看板の文字は読めないが、布団を干してある窓が見えた。


 ユミナが一軒の宿に入った。恒一も続いた。

 薄暗い入口。木の床。カウンターの向こうに、太った男が座っていた。顎に無精髭。目の下に隈。


「部屋。二つ。隣り合わせで」


 ユミナが言った。声が——エリンの学院で聞いたのとは違う調子だった。低い。短い。必要な情報だけを伝える声。恒一は気づいた。ユミナは場所に合わせて声を変えている。学院では学者として、ギルドでは導師として、ここでは——旅慣れた客として。


 太った男が値段を言った。ユミナが硬貨を出した。男が鍵を二つ渡した。それだけのやりとりだった。名前も聞かれなかった。


 階段を上がった。二階。廊下の壁に潮のしみがあった。鍵を開けて部屋に入った。狭い。エリンの宿より狭い。しかし窓があった。窓を開けると、港が見えた。帆柱の林。灰色の海。その向こうに、水平線。

 風が入ってきた。潮と金属と魚と煙の匂い。ターレ港の匂い。


 恒一は窓辺に立った。港を見下ろした。突堤の一つに、大きな荷物が積み上げられていた。木箱ではない。革袋だった。中身はわからないが、荷降ろしをしている人間が慎重に扱っていた。ダンジョンの素材だろうか。恒一の目は——四十五年の目は——荷の流れと人の配置を観察していた。動線がある。荷の受け渡しに手順がある。チェックしている人間がいる。検品、仕分け、運搬。これは——物流だった。ダンジョンから上がってきたものが、港を通じて外に出ていく。


 ダラが言っていた。「ダンジョンは金になる」。金になるとは、こういうことだった。


 隣の部屋のドアが閉まる音がした。ユミナが自分の部屋に入った。壁一枚を隔てて——エリンと同じ配置。街は変わっても、二人の距離は変わらなかった。


 恒一は窓から離れた。荷物を下ろした。ダラの剣を壁に立てかけた。ベッドに座った。硬い。しかし十二日間の馬車の座席よりはましだった。

 腹がもう一度鳴った。


 さっきの焼き魚の匂いを思い出した。ここは港町だ。魚がうまいに決まっている。前世では——海沿いの定食屋で食べたアジフライが、妙に記憶に残っている。なぜアジフライなのかはわからない。たぶん、誰かと一緒に食べたからだ。誰と食べたかは——思い出せない。


 壁の向こうから、かすかに紙の音がした。ユミナがもう何かを読んでいる。


「ユミナ」


 壁越しに声をかけた。


「はい」


「飯、行こう」


 少しの間があった。紙の音が止まった。


「……そうですね。先に食事にしましょう」


 恒一は立ち上がった。腰のダラの剣を佩き直した。ポケットの中の紹介状を確認した。明日の朝、ドラク商会に行く。新しい仕事が始まる。新しい街で、新しい人間と。

 焼き魚の匂いが、窓から入ってきた。


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