第32話 出立
東門の前に、馬車が停まっていた。
幌付きの乗り合い馬車。四頭立て。荷台の後ろに座席が並んでいる。客はまだ少ない。荷物を積み込んでいる商人が一人。旅装の女が一人。御者が馬の世話をしている。
冬の朝。空気が冷たい。息が白い。東門の石壁が朝日を受けて、長い影を落としている。
恒一とユミナは門の手前で立っていた。荷物は二人とも小さい。恒一は革の肩掛け袋。腰には冒険者登録時から帯びているショートソード。体格に合った軽い剣で、護衛依頼のときも腰にあった。ユミナは背負い鞄。その中に冊子と着替えと保存食。旅人としては最低限の装備だった。
足音が聞こえた。石畳を叩く足音。片方が少しだけ重い。
「来たか」
ダラだった。
朝のダラは、いつもと少し違って見えた。事務室の椅子に座っているときとは姿勢が違う。外を歩くダラは——背が高かった。恒一より頭二つ分。広い肩。右足を僅かに庇う歩き方は同じだが、外の光の下では、かつて冒険者だった身体の残像が見えた。
「わざわざ来てくださったんですか」
「朝の散歩だ。たまたま門の前を通っただけだ」
嘘だった。ダラの靴は磨いてあった。いつもの事務室では磨かない。
ダラはユミナを見た。ユミナはダラに頭を下げた。
「ダラさん。紹介状のこと、ありがとうございます」
「礼は向こうに着いてから言え。——導師さま、体には気をつけろ。お前さんが倒れたらこいつも困る」
ユミナが一瞬だけ目を見開いた。ダラの言葉は——消耗のことを知っているような口ぶりだった。知っているのかもしれない。ダラは観察する人間だ。ユミナの顔色の変化くらい、見ていても不思議ではない。
「……はい」
ユミナは短く答えた。ダラはそれ以上踏み込まなかった。いつもの距離感だった。
ダラが恒一のほうに向き直った。腰の後ろから、布に包まれた細長いものを出した。
「餞別だ」
恒一は受け取った。布を解いた。
剣だった。丈は短め——しかし刃が広い。幅が手の平ほどある。柄は長く、両手でも片手でも握れる。鞘は革で、使い込まれた色をしている。刃を少しだけ抜いた。銀色の刃が朝日を反射した。厚く、重い。ショートソードとはまるで違う質量が、腕に伝わった。
「お前さん、体は小さいが力は強い。動きも速い。——なら、軽い剣で手数を稼ぐより、重い剣で重さをぶつけるほうが向いている」
ダラは腕を組んだ。
「ダンジョンの中は狭い。長すぎる剣は振れない。だが短すぎると変異動物の間合いに入らなきゃならん。その剣は丈が短めで取り回しが効く。刃が厚くて幅が広いから、刃こぼれにも強い。——ダンジョン向きの剣だ」
恒一は剣を両手で持った。重い。ショートソードの三倍はある。しかし——柄が長いぶん、重心が手元に近い。振り回すのではなく、重さを乗せて叩き込む剣だった。柄の木が手に吸いつく。長年使い込まれた道具の感触だ。
「俺が現役のとき使ってた剣だ。膝を壊してからは振れなくなったが、刃はまだ生きている」
ダラがこの剣でダンジョンに潜っていた頃——膝を壊す前の、冒険者としてのダラ。その手の温度が、柄に残っている気がした。
「ダラさん——」
「礼は要らないと言ったろう。その剣で殴れ。切るんじゃない、殴るんだ。お前さんの体と速さなら、それで十分だ。あと——」
ダラは腕を組んだ。朝日を背にしたダラの顔は逆光で影になっている。
「死ぬなよ。あと書類はちゃんと出せ。グレンは書類にうるさい」
恒一は笑いそうになった。最後の言葉が——ダラらしかった。死ぬなよ、と書類を出せ、が同じ重さで並んでいる。
「出します」
「よし」
ダラは頷いた。それから——右手を出した。大きな手。恒一はその手を握った。ダラの手は温かかった。分厚い掌。冒険者の手だった。
握手は短かった。三秒。ダラが手を離した。
「行け」
恒一は頷いた。剣を腰に佩いた。ショートソードより重い。鞘の革が腰骨に食い込む。この重さに慣れなければならない。
馬車に向かって歩き出した。ユミナが隣を歩いている。荷物を積んだ。座席に座った。幌の隙間から、東門が見えた。門の前にダラが立っていた。大きな背中——ではなく、正面だった。こちらを見ている。
馬車が動き出した。車輪が石畳を噛んだ。馬の蹄が規則的に鳴る。
隣の座席でユミナが窓の外を見ていた。学院の方角だろう。書庫塔の先端が城壁の上に突き出ている。二十年間見上げてきた塔。ユミナの横顔には何も浮かんでいなかった。しかし——目だけが、長く塔を追っていた。
馬車が東門をくぐった。門の外に出た。石畳が途切れて、土の道に変わった。車輪の音が変わる。硬い石の音から、柔らかい土の音に。馬の蹄が立てる音も変わった。街の音が遠ざかっていく。代わりに、風の音と草のざわめきが近づいてきた。
恒一は——振り返らなかった。
振り返れば、ダラが見えるだろう。門の前に立っている五十二歳の元冒険者。右足を庇いながら、こちらを見ている姿。見たら——戻りたくなる。ここにいたいと思ってしまう。昨夜、「嫌いじゃなかった」と思った街に。
パン屋の匂い。書庫塔の光。ギルドの椅子の軋み。ダラの茶。それらが背中の後ろにある。
振り返らない。前を向く。それが——出発するということだ。
馬車は土の道を進んだ。エリンの城壁が後ろに遠ざかっていく。恒一は前を見ていた。冬枯れの草原が左右に広がっている。道は南に伸びている。空が広い。雲が高いところを流れていた。
商人が荷物の上に座って居眠りを始めた。旅装の女は本を読んでいる。御者が馬に低く声をかけている。旅の日常だった。恒一にとっては、初めての旅だった。
馬車が城壁から離れた頃、ユミナが口を開いた。
「恒一さん」
「ああ」
「街道の間に、いくつか教えたいことがあります」
恒一はユミナを見た。ユミナの表情はいつもの事務的な顔に戻っている。しかし声には——教える人間の声があった。導師の声とは少し違う。もっと個人的な。
「ダンジョンでは灯火と魔力感知だけでは足りません。最低限の戦闘術式を覚える必要があります」
「戦闘術式」
「火矢。それから氷矢。どちらも文献魔法の基礎戦闘術式です。本来は学院で資格を取ってから習得するものですが——」
ユミナは少しだけ声を落とした。
「導師が弟子に教える分には、資格の問題はありません。エリンの学院の管轄外であれば、なおさら」
学院の管轄外。エリンを離れた今、ユミナは学院の規則に縛られない。それは——自由でもあり、後ろ盾を失うことでもあった。
「火矢は、灯火の応用です。指先に集めた魔力を、光ではなく熱に変換して射出する。原理は同じです。出力と方向制御が加わるだけ」
「だけ、か」
「……『だけ』は言い過ぎました。しかし恒一さんには灯火の下地があります。街道で練習すれば、ターレ港に着くまでには形になるはずです」
ユミナの声に、計算があった。十二日間の街道。毎日練習すれば、基礎的な火矢が使えるようになる。ダンジョンに入る前に——最低限の戦闘手段を手にできる。
ユミナはそこまで見越して、街道での訓練を計画していたのだろう。
恒一は腰の剣に手を触れた。ダラの餞別。革の鞘が指に当たる。重い。
剣と火矢。体術と判断力。ユミナとの連携。
それが——エルセアでの恒一の武器になる。
「わかった。教えてくれ」
「はい。最初の宿場で休憩を取ったら、始めましょう」
ユミナはそう言って、鞄から小さな冊子を取り出した。術式の図解が描かれている。火矢の基本構造。文字列が頁の上に並んでいる。恒一にはまだ読めない文字だが、図形の部分は理解できた。矢印と円。魔力の流れを示す記号。
ユミナが指で図を追いながら、術式の概念を説明し始めた。灯火との違い。魔力の変換効率。射出時の方向制御。声は静かだが、教える速度が速い。情報が密だ。恒一は聞きながら、頭の中で整理した。前世の研修と同じだ。まず全体像を把握する。細部は実践で覚える。
馬車は揺れながら南に進んでいた。冬の風が幌の隙間から入ってくる。冷たいが、日差しがある。草原の向こうに低い山並みが見えた。空が高い。
ユミナの説明を聞きながら、恒一は右手の指先に意識を向けた。灯火を灯すときの感覚。指先に集まる熱。それを光ではなく——熱のまま、前方に押し出す。
まだ何も起きない。しかし指先が微かに温かくなった。
「その感覚です」
ユミナが言った。恒一の指先を見ていた。
「あとは出力と方向。それは——実際に撃ってみないとわかりません」
恒一は頷いた。腰の剣に手を触れた。ダラの餞別。革の鞘。
剣と火矢。体術と判断力。ユミナとの連携。
それが——エルセアでの恒一の武器になる。
馬車の窓から見える景色が変わり始めていた。草原の色が少しずつ濃くなっている。南に下るほど、冬の気配が薄れていく。エリンは北寄りの街だった。エルセアは南東。気候も、街も、制度も違う場所。
恒一は前を見ていた。エリンの城壁は、もう見えなかった。




