第31話 最後の夜
準備は三日で終わった。
ユミナは学院に休職届を出し、研究資料を封印した。部屋の荷物は冊子が数冊と着替えと筆記具。二十年暮らした街を離れるには、驚くほど少ない荷物だった。
恒一はギルドに一時離脱届を出した。受付の女が「また戻ってくるの?」と聞いた。「わからない」と答えた。正直な答えだった。
馬車は明日の朝、東門前から出る。レヴァン街道を南下する定期便。乗り合い馬車で、他の客もいる。馬車賃は払い済みだ。
今夜が——最後の夜だった。
夕食を終えた後、恒一は一人で外に出た。
ユミナは部屋にいる。最後の荷造りをしている。恒一は「少し歩いてくる」とだけ言った。ユミナは頷いた。
冬の夜だった。
エリンの通りには灯りがある。精霊魔法で維持されている街灯。青白い光が石畳を照らしている。前世の街灯とは色が違う。蛍光灯の白でも、LEDの白でもない。もっと柔らかい。水の底を歩いているような光だった。
恒一は書庫街を歩いた。
書庫塔が見える。夜の書庫塔は、昼とは違う表情をしていた。壁面の文字列が暗闇の中で発光している。青と白の淡い光。文字列が時折明滅する。研究者が夜間も作業をしているのだろう。文字列の光が——呼吸をしているように見えた。
この塔を初めて見たのは、いつだったか。第四日目だ。ユミナに連れられてエリンの街を歩いた日。「学術都市」とユミナが言った。恒一は書庫塔の壁面の光を見上げて、「ゲームの設定と同じだ」と思った。あれから——ひと月と少し。
ひと月。前世の時間感覚では、ほとんど何も変わらない期間だ。会社で言えば、月例会議が一回あっただけ。しかしこのひと月で——恒一は冒険者になった。書庫の整理を覚え、依頼をこなし、変異動物を追い払い、灯火を覚え、魔力感知を練習した。ダラと茶を飲んだ。紹介状をもらった。
書庫街を抜けて、ギルドの前に出た。
夜のギルドは賑やかだった。扉の向こうから声と笑いが漏れている。灯りが窓から溢れている。冒険者たちの夜はこれからだ。酒と食事と、明日の依頼の話。恒一は一度もあの輪に入らなかった。ダラに指摘された通り——線を引いていた。
ギルドの扉を見た。木の扉。蝶番の錆。この扉を何度くぐっただろう。最初の日、ユミナと一緒に入った。受付に「坊や、一人?」と言われた。ユミナが「彼は私の弟子です」と言った。あの一言から始まった。
扉には手をかけなかった。中に入れば、誰かに声をかけられるかもしれない。声をかけられたら——何と言えばいい。「明日発つ」と言えばいいのか。しかし、声をかけてくる冒険者はいなかっただろう。恒一は誰とも親しくなっていない。
ギルドを離れて、市場通りに入った。
夜の市場は閉まっている。昼間は人と荷物で溢れていた通りが、静かだった。石畳の上に、露店の骨組みだけが残っている。布が畳まれ、木枠が積まれている。明日の朝、また開く。恒一がいなくても。
干し肉を買った露店。香辛料の匂いが鼻を突いた店。ユミナが立ち止まって薬用の粉を買っていた薬種屋。その隣の、安い蝋燭を売っている小さな店。恒一はこの市場で買い物の仕方を覚えた。この世界の硬貨の単位を覚えた。金貨と銀貨と銅貨。釣り銭を数える手つきが、最初は危なっかしかったことを思い出した。
パン屋の前を通った。
シャッターは降りている。しかし——匂いがした。小麦と酵母の匂い。明日の朝のパンを仕込んでいる。シャッターの隙間から、薄く光が漏れている。中で誰かが働いている。
恒一は立ち止まった。
この匂いを、覚えている。宿に向かう道で、ユミナと並んで歩くとき、いつもこの匂いがあった。冬の冷えた空気の中に、焼きたての小麦の温かさ。恒一がこの街で嗅いだ匂いの中で、一番好きな匂いだった。
好きだった。
その言葉が、恒一の中で静かに響いた。
前世で——この種の感覚があっただろうか。住んでいる街の匂いを好きだと思ったことが。アパートの最寄り駅の匂いは排気ガスとコンビニの換気扇の匂いだった。嫌いではなかったが、好きでもなかった。何も思わなかった。
恒一は歩き出した。パン屋を過ぎて、学院通りに入った。
夜の学院通りは静かだった。白い石畳が青白い街灯に照らされている。昼間の権威的な空気はない。ただ石の道が伸びている。学院の正門は閉まっていた。門の上に灯りが一つ。番人の灯りだろう。
この通りを歩いたとき、食堂でユミナの評判を聞いた。「天才」と「異端の疑い」。穀物の味のするパンを噛みながら、知らない言葉の断片を拾った。あの二面の噂は、明日からも続くのだろう。ユミナがいなくなったからこそ、噂は膨らむかもしれない。しかしそれは、もうユミナの肩には乗らない。少なくとも、この街を離れている間は。
ユミナは二十年間、この通りを歩いてきた。八歳で学院に入り、噂の中を歩き、研究室に閉じこもり、論文を書いた。その二十年を——恒一は三日前に初めて、重さとして理解した。
学院通りを抜けて、エリンの東壁に向かった。
城壁は夜でも見えた。石の壁が暗い空を背景に黒く立っている。東門は閉まっている。門番の灯りが小さく揺れている。明日の朝、あの門から出る。
恒一は城壁の下に立った。石壁に手を当てた。冷たい。冬の石。指先から冷えが伝わってくる。
四十五年間、どこかを離れるとき、惜しいと思ったことがなかった。
実家を出たとき。アパートを引き払ったとき。部署が変わったとき。どこに行っても同じだった。場所に感情を持たなかった。場所は機能だった。住む場所。働く場所。眠る場所。それ以上の意味はなかった。
——ここが、嫌いじゃなかった。
その言葉が、胸の底から浮かんできた。
エリンが。この石造りの、埃っぽい、本と魔法と冬の風の街が。嫌いじゃなかった。
書庫塔の光。ギルドの喧騒。パン屋の匂い。ダラの茶。シルトルの早口。学院通りの白い石畳。宿の食堂の豆の煮込み。
嫌いじゃなかった——という言い方が、恒一らしかった。好きだ、とは言えない。まだ。四十五年間引いてきた境界線が、感情にも引かれている。好悪を明言しない。どちらにも傾かない。安全な中立。
しかし——嫌いじゃなかった、は中立ではない。中立なら何も感じない。感じた上で、否定形でしか表現できない。それが恒一の精一杯だった。
恒一は城壁から手を離した。指先が冷えている。息が白い。
振り返った。エリンの街並みが見えた。書庫塔の光。家々の窓の灯り。通りの街灯。小さな街だった。前世の東京に比べれば、地方の町程度の規模だ。しかしこの街に——恒一は初めて、どこかに「いた」という感覚を持った。
住んでいた、ではない。いた。存在していた。場所が恒一を認識し、恒一が場所を認識した。パン屋が恒一の顔を覚えていた。ギルドの受付が恒一の名前を知っていた。ダラが恒一を見ていた。
明日、ここを離れる。
恒一は宿に向かって歩き出した。石畳を踏む足音が、夜の通りに響いた。自分の足音だけ。
境界線に——ひびが入っている。
ダラが言った。線は越えるための目印にもなる。あの言葉が、今夜になって響いていた。
エリンに来て、恒一は線を何本か引いた。ユミナとの間に。ダラとの間に。ギルドの冒険者たちとの間に。しかし同時に——線の向こうにあるものを、初めて見た。茶の杯。紹介状。パンの匂い。笑い声。
線を引くことしか知らなかった人間が、線の向こうに何があるかを知った。それが——ひびだった。
宿が見えた。二階の窓に灯りがある。ユミナの部屋だ。まだ起きている。荷造りか、研究か。
恒一は宿の扉を開けた。暖かい空気が顔に触れた。蝋燭の灯りと、木の匂い。階段を上がった。
ユミナの部屋の前を通ったとき、扉の隙間から光が漏れていた。立ち止まった。声をかけようか、と思った。かけなかった。明日の朝、一緒に門を出る。それで十分だ。
自分の部屋に入った。荷物は小さな革袋一つにまとまっている。着替えと保存食と、少しの金。机の上に紹介状。
寝台に座った。靴を脱いだ。足が冷えている。毛布を引き寄せた。
目を閉じた。明日からは、知らない街道を歩く。知らない港町に着く。知らないダンジョンに潜る。知らないものばかりだ。
しかし——隣に、知っている人がいる。
恒一は眠った。エリン最後の夜は、静かだった。




