第30話 準備
朝食の席で、切り出した。
宿の食堂。木の机に、パンと茶と干し肉の皿。朝の光が窓から差して、机の上に四角い影を作っている。他の宿泊客はまだ降りてきていない。食堂には恒一とユミナの二人だけだった。
恒一はパンをちぎりながら——ちぎる手を止めた。
「ユミナ。話がある」
ユミナが茶の杯を持つ手を止めた。恒一を見た。琥珀色の瞳。朝の光を受けて、少しだけ明るく見える。
「はい」
「エルセアに行こうと思う」
ユミナの瞳が、微かに揺れた。しかし声は静かだった。
「……エルセアに」
「中央ダンジョンがある。ダンジョン産の魔力石は、この大陸で一番濃い」
恒一はパンを机に置いた。言葉を選んだ。用意してきた言葉ではなく、今この場で出てくる言葉を。
「文献魔法使いの消耗に効くと聞いた。魔力石を砕いた溶液か、原石を身につけることで魔力の回復を促せるらしい。——ユミナ。お前の消耗に、効くかもしれない」
ユミナの手が、杯を握ったまま止まっていた。指が白い。力が入っている。
長い沈黙があった。食堂の窓の外で、通りを歩く人の足音が聞こえた。荷車の車輪。鳥の声。朝のエリンの音。
「……どこで、聞いたんですか」
「ダラさんから。それから、ギルドの二階の書架で自分で調べた」
「ダラさん」
ユミナは杯を机に置いた。小さな音。茶の表面がわずかに揺れた。
「エルセアの冒険会社に入れば、現地で魔力石が買える。エリンの市場価格の三分の一か四分の一だ。収入も上がる。——ダラさんがドラク商会という会社への紹介状を書いてくれた」
恒一は内ポケットから紹介状を出した。畳んだ羊皮紙を机の上に置いた。ユミナの目がそれに落ちた。
「提案だ。命令じゃない。ユミナが判断してくれ。俺は——材料を揃えただけだ」
恒一はそう言って、ユミナの反応を待った。
ユミナは紹介状を見ていた。見ていたが、文字を読んでいるのではなかった。視線が紙の上を滑っている。焦点が合っていない。考えている。何かを——処理している。
やがてユミナが顔を上げた。
「恒一さん」
「ああ」
「中央ダンジョン産の魔力石が消耗に効くという情報は——正しいです。私も知っていました」
恒一の手が、膝の上で止まった。
知っていた。ユミナは——知っていた。
「なぜ、言わなかった」
声が、予想より硬くなった。恒一は自分の声の硬さに驚いた。
ユミナは目を伏せた。一拍。
「エリンでは手が届かなかったからです。市場価格で金貨十枚。私の研究給では——」
「それだけか」
恒一は自分の口から出た言葉に、また驚いた。踏み込んでいる。境界線を越えている。しかし——止められなかった。
ユミナの指が、机の上で小さく動いた。紹介状の端に触れて、離れた。
「……それだけでは、ありません」
ユミナの声が、少しだけ低くなった。
「エリンを離れれば——私は学院の導師ではなくなります。少なくとも、今のような立場ではいられない。休職という形は取れますが、審議会の状況を考えると……戻れる保証はありません」
恒一は黙って聞いた。
ユミナの声は静かだった。事務的だった。しかしその事務的な声の裏の真意が恒一には聞こえた。
——ユミナは、そのために学院にいたのか。
恒一の頭の中で、断片が繋がった。
ユミナが二十年かけて導師の地位を築いたのは、研究のためだけではなかった。恒一がこの世界に来たとき——身元も戸籍もない、言葉も読めない十四歳の少年が、エリンで安全に暮らせる基盤を用意するためだった。導師の弟子。それがあるだけで、ギルドで登録ができた。保証人がいた。宿が借りられた。街の人間が恒一を「あの導師さまの弟子」として受け入れた。
再構築を行った時点で、ユミナは学院を離れることもできたはずだ。異端の嫌疑。審議会の圧力。孤立。それらすべてに耐えながら、ユミナはエリンに留まった。恒一の居場所を作るために。
恒一はパンの皿を見ていた。見ていたが、パンは見えていなかった。
「ユミナ」
「はい」
「エルセアでは、冒険会社に所属すれば身元は会社が保証する。宿舎も出る。ダラさんの紹介状がある。——お前が学院にいなくても、俺は大丈夫だ」
ユミナが恒一を見た。恒一も見返した。
「お前の消耗が止められるなら、学院の肩書きはいらない。——そもそも、お前がそのためにあの場所に残っていたなら」
恒一は言葉を探した。正確な言葉を。
「それは——もう、十分だ」
ユミナの表情が変わった。
二十年間かけて作った顔——丁寧で、事務的で、隙のない顔——に、亀裂が入った。小さな亀裂だった。目元が震えた。唇が開きかけて、閉じた。眉の角度が変わった。
恒一はその変化を見ていた。見逃さなかった。
ユミナは右手で顔を覆った。左手は机の上に残っている。その左手が、微かに震えていた。
「——すみ、ません」
「謝るな」
「……はい」
手が降りた。目が赤かった。しかし涙は出ていなかった。泣くことを、どこかの段階で止めたのだろう。ユミナは息を吸った。深く。吐いた。
「恒一さん。提案を、受けます」
静かな声だった。震えが残っていたが、意志があった。
「エルセアに行きましょう。中央ダンジョンの魔力石——確かに、私の消耗に対する最善の選択肢です。学院の件は……休職届を出します。審議会の照会についても、書面で対応できます」
ユミナの声が、徐々に事務的な声に戻っていった。戻っていくのを、恒一は見ていた。壁が修復されていく。しかし——さっきの亀裂を、恒一は見た。あの一瞬の揺らぎを。
「準備に何日かかる」
「三日あれば。研究資料の整理と、学院への届出。あとは——荷物はそれほどありません」
「俺もギルドに届を出す。ダラさんに報告する。馬車の手配も調べておく」
ユミナは頷いた。
二人は朝食の残りを食べた。パンはもう冷めていた。干し肉を噛んだ。塩気が強い。茶を飲んだ。ぬるくなっている。冷めた朝食だったが——恒一は全部食べた。ユミナも、いつもより多く食べた。パンを三切れ。いつもは二切れで止める。小さな差だが、恒一は見ていた。
「街道で十日から二週間だと聞いた。馬車が出ている」
「この時期なら十二日前後です。レヴァン街道を南下して、分岐点で東に折れます。途中に宿場が四つ。食料は宿場で調達できますが、保存食も持っていくべきです」
ユミナの声が変わっていた。さっきの震えはもうない。情報を整理して伝える声。導師の声。二十年間使ってきた、最も慣れた声。
しかし恒一は——その声の裏に、別のものを聞いていた。安堵だった。エリンを離れることへの安堵。学院の審議会から、ザイラントの監察官の視線から、距離を取れることへの。ユミナは口にしなかった。しかし声の速度が少しだけ速い。情報が滑らかに出てくる。体が前のめりだ。ユミナ自身も、エルセアに行く理由があった。恒一の消耗対策とは別の、ユミナ自身の理由が。
「費用は」
「馬車賃が一人金貨一枚。食費は一日銀貨二枚ほど。合わせて一人金貨三枚程度です。二人分で六枚。——恒一さんの貯蓄と私の研究給で、足ります」
「半分出す」
「いえ、私が——」
「半分出す」
恒一は繰り返した。ユミナが口を閉じた。
「二人で行くんだ。費用も二人で出す」
ユミナは恒一を見た。何かを言おうとして——やめた。小さく頷いた。
食堂を出るとき、ユミナが立ち止まった。
「恒一さん」
「ああ」
「ダラさんに——お礼を、言ってもらえますか。紹介状のこと」
「自分で言えばいい」
「……そうですね」
ユミナは小さく笑った。笑い方がぎこちなかった。慣れていない動作だ。しかし——笑った。
恒一は階段を上がった。部屋に戻って、内ポケットから紹介状を出した。机の上に置いた。羊皮紙の角が朝の光を受けている。
窓を開けた。冬の空気が入ってくる。冷たい。しかし今日は風が穏やかだった。通りの向こうに書庫塔が見える。壁面の文字列が朝の光に薄く光っている。
三日。三日で準備を終えて、エリンを発つ。
恒一は窓の外を見た。書庫塔。学院通り。石畳。パン屋の煙突から、薄い煙が上がっている。
この街で恒一が得たものは——ダラとの出会いも、ギルドでの仕事も、灯火も、冬のパンの味も——全部、ユミナの二十年の上に載っていた。
その重さを、恒一は忘れないようにしようと思った。
紹介状が机の上で、朝の光を受けていた。




