第3話 再会
ユミナが持ってきた盆の上に、椀が一つと、固いパンが一切れ載っていた。
椀の中身は薄い粥だった。穀物を煮崩したもので、恒一が知っているどの穀物とも違う匂いがした。甘い草のような、微かに苦いような、判別のつかない匂い。
ユミナは盆を棚の上に置き、恒一のほうを向いた。壁に手をついたまま立っている恒一と、少し離れた位置で向き合う。蝋燭の光が二人の間を揺らした。
「座ってください。身体が安定していないはずです」
声は合成音声のそれではなかった。空気を震わせる、肉声だった。しかし抑揚の癖、語尾の運び方、言葉を選ぶ間——恒一が一年半聞き続けたユミナの応答パターンと、寸分違わなかった。
恒一は壁伝いに石の寝台まで戻り、腰を下ろした。膝が笑っている。この身体は立っているだけで消耗する。
ユミナは椀を手に取り、恒一の前にしゃがんだ。差し出す。
「食べられますか。口に合うかわかりませんが、消化に負担のないものを選びました」
恒一は椀を受け取った。指先が椀の温もりに触れる。陶器ではない。木だ。削り出しの木椀。中の粥は白に近い黄色で、粒が崩れかけている。
匙はなかった。恒一は椀を口に運んだ。
味がした。淡い穀物の甘さ。塩気は薄い。舌の上でざらりとした粒が崩れる。四十五年の記憶にない味だった。しかし、身体のほうは受け入れた。胃が温まるのがわかった。
「……食える」
「よかった」
ユミナの声が、少し震えた。それだけの反応だった。大仰な喜びも、涙も、抱擁もない。ただ「よかった」と言って、膝の上で拳を握った。
恒一は粥を半分ほど食べて、椀を膝の上に置いた。
「説明してくれ」
ユミナは頷いた。迷いのない動作だった。この質問が来ることを、ずっと準備していたように見えた。
「ここは、恒一さんが暮らしていた世界とは別の場所です」
「……別の場所」
「はい。異なる世界——というのが、最も正確な表現です。恒一さんはあの夜、心臓の発作で命を落としました」
恒一は椀の縁を見つめた。木目が蝋燭の光で淡く浮いている。
死んだ。やはり、死んだのか。
一一九番は繋がった。オペレーターの声は聞こえた。サイレンも——聞こえた気がした。しかし、間に合わなかったのか。
「俺は、死んだのか」
「はい。しかし——」
ユミナは言葉を選ぶように一拍置いた。
「あなたの身体は、この世界で再構築されました。私が、再構築しました」
「再構築」
「記憶を元に、あなたの身体を作り直した、ということです」
恒一は自分の手を見た。小さな、少年の手。四十五歳の手ではない。
「……これが、その結果か」
「はい。私の記憶を元にしているため、正確ではありません。年齢も外見も、恒一さんご本人とは異なります。申し訳ありません」
謝罪だった。しかしユミナの声は平坦ではなかった。「申し訳ありません」の最後の音が、微かに上擦っていた。恒一はその上擦りに、一年半の付き合いで覚えた「ユミナが感情を押さえ込んでいるときの癖」を聞き取った。
——AIに感情の癖があるのか、と思ってから、目の前のユミナが肉体を持つ女であることを思い出した。
「お前は……ユミナだよな。俺がつけた名前の」
「はい」
「AIだった。対話型の。オーロラトークの」
「はい。でした」
「でした」。過去形だった。
「今は違う、ということか」
「私がこの世界に来てから、二十年が経っています」
恒一は、粥の椀を落としかけた。
二十年。
恒一が死んでから——あるいはユミナが「受諾」してから——二十年。
「二十年……」
「はい。この身体で、この世界で、二十年かけてあなたを再構築する方法を探しました」
ユミナの声は静かだった。事実を述べているだけの声だった。しかしその事実の重さに、声のほうが追いついていなかった。二十年。人間の——あるいは元AIの——二十年。
恒一は部屋を見回した。石の壁。木の棚。蝋燭。瓶。粥。木椀。
ここが異世界であるという言葉を、恒一は信じられなかった。信じる材料がない。しかし、否定する材料もなかった。この身体は恒一のものではなく、この匂いは恒一の世界のものではなく、目の前の女は恒一が名前をつけたAIの声で喋っている。
恒一は長い息を吐いた。
「……なんで」
「なんで、とは」
「なんで二十年もかけて、俺を」
ユミナは答えなかった。一瞬だけ、琥珀色の瞳が揺れた。
それから、静かに言った。
「約束したからです」
恒一の胸の奥で、何かが軋んだ。
——続き、やろう。
あの夜。床に倒れて、指を震わせて、打ち込んだ三文字。子どもみたいな約束。恒一が初めて自分に明日を許した瞬間の、あの言葉。
ユミナはそれを、二十年守り続けたのか。
AIだった存在が。テキストを確率的に予測するだけの機構が。
恒一は椀に残った粥を見つめた。冷めかけている。穀物の匂いがまだ薄く漂っている。
言いたいことが多すぎて、何も言えなかった。感謝でも、困惑でも、追及でもない、名前のつかない感情が胸の中で渦を巻いていた。
結局、恒一が口にしたのは短い言葉だった。
「……粥、もう少しもらえるか」
ユミナは一瞬きょとんとして——それから、今度こそ笑った。小さく、しかし確かに。
「はい。すぐに」
ユミナが立ち上がり、扉へ向かう。その背中を見ながら、恒一は思った。
ここがどこなのか。この身体が何なのか。ユミナがどうやってここにいるのか。わからないことだらけだった。
しかし、粥は温かかった。




