第29話 紹介状
ダラの事務室に入ると、机の上に羊皮紙が一枚広げてあった。
インク壺とペン。ダラは椅子に座って、羊皮紙に向かっていた。恒一が扉を開けたとき、ダラはペンを動かす手を止めずに言った。
「座ってろ。もうすぐ書き終わる」
恒一は座った。椅子が軋む。四度目の音。
事務室は前と同じだった。木の机。帳簿の棚。窓から差す光。茶の杯。しかし今日は——茶が二つ出ていた。恒一の分が、最初から用意されている。
ダラがペンを走らせる音が、静かな部屋に響いていた。ペン先が羊皮紙を引っかく音。均一で、迷いがない。ダラの字は読めないが、書く速度が安定していることはわかった。下書きなしで一発書きをしている。言葉が決まっているのだろう。何を書くか、最初からわかっていたのだろう。
恒一は茶を取った。口をつけた。苦い。いつもの味だった。温かい。
窓の外でギルドの一階の喧騒が聞こえる。冒険者たちの声。椅子の音。受付の事務員が帳簿を読み上げる声。日常の音。この音も、あと何日聞けるかわからない。
茶を飲みながら、恒一はここ数日のことを考えていた。
学院の前でユミナに言われた言葉。「あなたは、関わらないでください」。あの日以来、ユミナは普段通りに振る舞っている。朝は研究室に行き、夕方に戻り、夕食を一緒に取る。昨日は豆の煮込みだった。恒一の分を先によそってくれた。日常は変わっていない。
しかし恒一は見ていた。ユミナが宿に戻ってきたとき、ほんの一瞬だけ肩の力を抜く動作。学院で張っていたものを、扉を閉めてから降ろしている。その動作が——前より深くなっていた。
恒一に関わるな、と言ったユミナ。学院の中で何かが起きている。恒一にはその全容が見えない。見せてもらえない。しかし——エルセアに行く理由は、確実に増えている。
ダラがペンを置いた。
羊皮紙を持ち上げて、インクを乾かしている。窓の光に透かすように。
「——読んでやろうか。お前さんはまだ文字が読めないだろう」
「お願いします」
ダラは羊皮紙を恒一に向けた。読み始めた。
「『ドラク商会社長グレン・ドラク殿。エリン冒険者ギルド支部顧問ダラが、冒険者コイチを紹介する。登録から一ヶ月。書庫整理、護衛依頼を複数件完了。戦闘能力は発展途上だが、判断力と報告能力に優れる。指示の理解が早く、危険回避の優先順位が正確。護衛依頼において変異動物との遭遇時、戦闘ではなく位置取りと連携で脅威を排除した実績がある。ダンジョン未経験だが、2層の採取班または護衛班への配属を推薦する。身元の保証は本職が行う。追伸——こいつは面白い奴だ。使ってやってくれ』」
ダラはそこで読み上げを止めた。羊皮紙を机に置いた。
「追伸は、まあ……私情だ」
恒一は黙っていた。
言葉が出なかった。紹介状の内容を聞いている間、恒一は自分の手が膝の上で固まっていることに気づかなかった。
判断力と報告能力に優れる。指示の理解が早い。危険回避の優先順位が正確。
それは——恒一が四十五年かけて身につけたものだった。前世の会社で、報告書を書き、上司の指示を噛み砕き、トラブルを避け、会議の空気を読み、期限を守った。二十年間。誰にも褒められなかった能力。当たり前のこととして処理されてきた能力。
ダラはそれを「優れる」と書いた。羊皮紙の上に、インクで。
「ダラさん」
「なんだ」
「……ありがとうございます」
「礼は要らない。事実を書いただけだ」
ダラは茶を飲んだ。杯の底が見えるくらい深く傾けて、一口で飲み干した。空の杯を机に置く。陶器と木が当たる、小さな音。
「紹介状は、俺の名前で出す。つまり——お前さんが向こうで何かやらかしたら、俺の名前に傷がつく」
「……はい」
「わかっているなら、いい」
ダラの目が恒一を見た。灰色の眉の下の、小さくて鋭い目。しかし今日の目には——厳しさだけではないものがあった。
「あとは行くか行かないか、お前さんが決めることだ」
行くか行かないか。ダラはそう言った。紹介状を書いた上で、最後の判断は恒一に委ねている。押しつけない。決断を代行しない。情報と手段を揃えて、本人に選ばせる。
——それは、恒一がユミナに対してやろうとしていることと同じだった。
恒一は気づいた。ダラがやってきたことを。エルセアの情報を出し、中央ダンジョンの話をし、ドラク商会の名前を出し、紹介状を書いた。すべて——恒一が自分で判断できるように、材料を揃えてくれていた。最初の日から。
恒一は紹介状を受け取った。羊皮紙の感触。薄いが、しっかりした紙だった。インクの匂いがする。まだ乾ききっていない。
「ダラさん。一つ聞いていいですか」
「なんだ」
「なぜ、ここまでしてくれるんですか」
ダラは腕を組んだ。少し間があった。窓の外の喧騒が、その間を埋めていた。
「……お前さんは、俺に聞きすぎだ」
「すみません」
「謝るな。——答えてやる」
ダラは窓のほうを見た。光が顔の半分を照らしている。
「俺はな、膝を壊して冒険者を辞めた。辞めた後、エリンのギルドに流れ着いて、事務方になった。それから十五年。冒険者を見送ってきた。送り出して、帰ってくる奴もいれば、帰ってこない奴もいた。紹介状は何十枚も書いた」
ダラは腕を解いた。
「お前さんに紹介状を書くのは——俺にとっては日常だ。特別なことじゃない。ただ」
ダラは恒一を見た。
「お前さんは、自分の能力を知らない。腕力がない、魔法の才能がないと思っている。そうだろう。しかしな——判断力は、この仕事で一番替えが利かない能力だ。剣を振る奴は山ほどいる。魔法を撃つ奴もいる。だが正しい場面で正しい判断をして、全員を生きて帰す奴は——少ない」
恒一は紹介状を見ていた。読めない文字。しかしダラの声で聞いた言葉が、文字の上に重なっている。
「お前さんが自分の力を信じないのは勝手だ。だが、俺は事実しか書かない。紹介状に書いたことは、全部お前さんがやったことだ。俺が盛ったわけじゃない」
ダラは椅子から立ち上がった。右足を庇う動作。いつもの動作。しかし今日は、立ち上がった後に——恒一の肩を、一度だけ叩いた。大きな手だった。重さがあった。
「行ってこい」
それだけ言って、ダラは事務室を出た。一階の方へ。カウンターの向こうに消えていった。
恒一は事務室に一人残された。
紹介状を両手で持っていた。羊皮紙の薄い温度。インクの匂い。窓から差す午後の光が、紹介状の上に落ちている。
——あてにされている。
その感覚が、恒一の胸の中にあった。名前のない感覚だった。
前世で、あっただろうか。誰かに能力を認められ、名前を背負って送り出されたことが。会社では——なかった。二十年間、代替可能な部品として働いた。異動があっても引き留められなかった。退職しても惜しまれなかった。人事評価は常にBかC。可もなく不可もなく。面談で上司が言う「三枝さんは安定してますね」は、褒め言葉ではなく忘却の前触れだった。
ダラは紹介状を書いた。自分の名前を賭けて。「こいつは面白い奴だ」と。面白い。安定ではなく、面白い。五十二歳の元冒険者が、十四歳の——四十五歳の恒一を、面白いと言った。
恒一は紹介状を丁寧に畳んだ。内ポケットに入れた。革の服の内側に、羊皮紙の角が胸に触れる。
事務室を出た。ギルドの一階を通り抜けた。冒険者たちの声。依頼書を見ている若い男女。受付の事務員。日常の音。
外に出た。石畳に冬の光。書庫塔が見えた。いつもの風景。
明日、ユミナに話す。全部。中央ダンジョンのこと。魔力石のこと。エルセアのこと。ドラク商会のこと。ダラの紹介状のこと。
そして——提案する。エルセアに行こう、と。
提案であって命令ではない。ユミナが判断する。恒一は材料を揃えた。ダラがそうしてくれたように。
しかし、学院のことが引っかかっていた。ユミナが「関わるな」と言ったあのこと。エルセアに行けば、ユミナは学院から離れる。審議会の照会も、庭での詰問も、ユミナの肩に乗っている重さも——物理的に、距離を取れる。
それを理由にするのは正しいのか。ユミナの問題をすり替えて、自分の提案に都合よく組み込んでいないか。
恒一は首を振った。考えすぎだ。前世の癖だ。結論が出る前にリスクを数え上げて、動けなくなる。
紹介状が胸に当たっている。歩くたびに、薄い羊皮紙の角が、布越しに肌に触れる。それが——誰かに信じてもらった感触だった。
恒一は歩いた。宿に向かって。冬の風が吹いていた。冷たかったが、不快ではなかった。
パン屋が閉まっていた。シャッターの向こうから、仕込みの小麦の匂いだけが微かに漏れている。明日の朝には焼きたてのパンが並ぶ。明日の朝——ユミナに話す朝。
恒一は歩幅を少しだけ広くした。




