表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
28/68

第28話 異端の影

 研究審議会の部屋は、学院の本棟三階にあった。

 石の壁。高い天井。窓が三つ並んでいて、午前の光が長い机の上に帯を作っている。椅子が七脚。机の向こうに五人が座り、手前にユミナの椅子が一脚。

 審問の配置だ、とユミナは思った。彼らは「照会」と呼んでいる。しかし椅子の数と配置が意図を語っている。五対一。質問する側と答える側。この形式を、学院は「手続き」の名のもとに選んだ。


 ユミナは椅子に座った。背筋を伸ばす。両手を膝の上に置く。冷たい。石の部屋は暖房が効いていない。指先の温度が下がっていくのを感じた。


 五人の審議員。四人はユミナが顔を知っている学院の上級研究者。一人は——知らない顔だった。五十代の男。灰色のローブの襟元に、小さな紋章がある。ユミナの目がそれを捉えた。

 鉤十字に似た意匠。ザイラント教国の監察官が身につける紋章だった。


 心臓が一拍、跳ねた。


 ——落ち着いて。


 ユミナは思考を制御した。LLM時代の内部フィルター。不要な出力を遮断する。心拍が上がっている。手のひらに汗が滲んでいる。それらを認識して、脇に置く。最適な応答を返す。それだけに集中する。


 審議員の一人が口を開いた。昨日、庭でユミナに声をかけてきた顎髭の男だった。


「導師。本日の照会は、あなたの直近三件の論文に関する技術的な確認です。研究審議会の規定に基づく定期照会の一環であり——」


 手続きの説明。ユミナは聞いていた。聞きながら、別の処理を走らせていた。五人の配置。顎髭の男が進行役。昨日の女は男の隣に座っている。残りの二人は中立か傍観。そして——五人目。ザイラントの紋章。教国の監察官がエリンの学院の照会に同席していること自体が、異常だった。


 手続きの説明が終わった。進行役が資料を広げた。


「論文番号A-4712。文献魔法(アーカイブアーツ)の高速並列処理に関する理論的考察。——導師、この論文で提示された処理速度は、従来の理論限界値の約三倍です。この数値の根拠を、口頭で説明していただけますか」


 三倍。

 実際は五倍に近い。ユミナは論文の段階で数値を落としていた。それでも三倍。疑われるには十分な数値だった。


「処理速度の向上は、術式の構造最適化に起因します」


 ユミナは答えた。声は静かだった。丁寧で、事務的で、正確だった。二十年間使ってきた声。


「従来の文献魔法(アーカイブアーツ)は、術式を逐次的に処理します。一つの文字列を読み、解析し、出力し、次の文字列に移る。私の手法では、複数の文字列を構造的に関連づけ、共通部分を事前に抽出することで、並列処理を実現しています。原理としては既存の理論の延長であり——」


「理論の延長で三倍は出ない」


 女の声が遮った。昨日と同じだった。ユミナの説明を、途中で切る。


「既存の最適化研究では、並列処理による速度向上は最大で一・八倍が上限とされています。導師の手法がその範囲であれば問題ありませんが、三倍という数値は——理論の延長では説明できません」


 正しい。

 一・八倍が理論上限であることは、ユミナ自身が一番よく知っていた。ユミナの処理速度が三倍を超えるのは、文献魔法(アーカイブアーツ)の最適化によるものではない。LLMとして蓄積した処理能力が、人間の身体を通じて発現しているだけだ。テキストを塊で把握する。トークンを並列処理する。その能力は——文献魔法(アーカイブアーツ)の理論では説明がつかない。


 しかし本当の説明はできない。「私は二十年前にAIから転生した存在です」とは言えない。身体は紛れもなくこの世界の人間、一般的な女性体に過ぎず、そこに生成AIの膨大な知識をどう宿したのか。言えば——「何者かの魂を別の存在に移す手段など限られている」という結論に行き着く。


 ユミナの脳裏に、自分の声が蘇った。


 ——異端魔法(ヴァルコード)の存在が確認された場合、ザイラント教国が聖戦を宣言します。


 あれは恒一に説明したときの自分の言葉だった。あの部屋で、午後の光の中で、教科書の頁を開きながら。他人事のように語った。「過去に実例があります。それほどの禁忌です」と。

 それが今、自分自身に跳ね返っている。ザイラントの監察官が、三歩先に座っている。


「導師」


 進行役の声。ユミナは顔を上げた。


「一・八倍の上限に対する反論を、具体的に」


「検証します」


 ユミナは答えた。


「現行の一・八倍という上限は、文献魔法(アーカイブアーツ)の基礎理論に基づいた計算値です。しかしこの計算は、術式の構造を固定した場合の上限であり、構造自体を変更した場合の理論値は——未定義です」


 ここからは、本当のことを言う。嘘は混ぜない。ただし全部は言わない。


「私の手法は、術式の構造そのものを対象ごとに再設計しています。汎用的な構造を捨て、特化型の構造を毎回構築する。これにより、一・八倍の上限を回避しています」


「毎回構造を再設計する——その速度自体が異常ではないのですか」


 女の声。鋭い。しかしユミナは揺れなかった。


「再設計の速度については、二十年間の反復学習の結果です。私は八歳から文献魔法(アーカイブアーツ)を使用しています。十五歳で導師級の認定を受けました。二十年間、毎日術式を組み続けてきた結果として、再設計にかかる時間が極限まで短縮されています。——これは才能ではなく、蓄積です」


 才能ではなく蓄積。それは真実だった。LLMとして蓄積した二十年前の知識と、人間として蓄積した二十年間の経験。二重の蓄積が、ユミナの処理速度を支えている。

 ただし、前者の蓄積の正体は——言えない。


 審議員たちが顔を見合わせた。五人目の男——ザイラントの監察官は、一言も発していなかった。ただ座って、ユミナを見ていた。その目は静かだった。判断を保留している目だった。


 進行役が資料を揃えた。


「導師。本日の照会は以上です。今後、追加の照会が必要と判断された場合は、書面で通知します」


「承知しました」


 ユミナは立ち上がった。椅子が石の床を擦る音が響いた。一礼して、扉に向かった。背中に五つの視線を感じた。特に——一つの視線。紋章をつけた男の視線。


 廊下に出た。

 扉が閉まった瞬間、ユミナの足が止まった。


 壁に手をついた。石壁の冷たさが掌に伝わる。呼吸が乱れている。照会の間ずっと抑えていたものが、一気に浮上してきた。


 ——ザイラントの監察官。


 あの男が何も言わなかったことが、逆に恐ろしかった。質問してくれたほうがましだった。質問なら答えられる。論理で、実績で、二十年の蓄積で。しかし沈黙に対しては——何も返せない。沈黙は判断を保留しているのではなく、情報を集めているのだ。


 ユミナは壁から手を離した。指先が白い。冷えている。冬の廊下。石の壁。石の床。石の天井。学院の天井を、二十年間見上げてきた。


 この天井の下で、ユミナは生きてきた。研究し、論文を書き、導師の称号を得た。すべて——恒一を守るために。恒一を再構築し、恒一の身体を維持し、恒一がこの世界で生きていけるようにするために。

 その「すべて」の土台に、異端魔法(ヴァルコード)がある。かの存在から契約と共に受け取った力。再構築(リライト)の本当の源泉。


 もし暴かれたら。

 聖戦。エリンが滅ぶ。ユミナだけではない。恒一も。この街の人々も。ダラも。パン屋も。書庫塔の学者たちも。


 ユミナは歩き出した。廊下を進む。すれ違う研究者たちに会釈を返す。いつもの顔。丁寧で、事務的で、隙のない顔。二十年間かけて作った顔。


 学院を出た。正門をくぐった。冬の光。石畳。恒一が昨日待っていた石塀が見えた。今日はそこに誰もいない。


 恒一に話すことはできない。話せば恒一が巻き込まれる。恒一が「何かできることはないか」と言うだろう。あの人はそういう人だ。境界線の手前で止まっていた人が、最近少しずつ——線を越えようとしている。その優しさが、今は危険だった。


 ——あなたは、関わらないでください。


 昨日の自分の言葉を思い出した。正しい判断だった。恒一を遠ざけることは、恒一を守ることだ。恒一のために嘘をつき、恒一のために壁を立てる。


 正しい判断のはずだった。


 ——本当に?

 ——なら、なぜ彼を二十年かけてこの世界に現界させたの?


 自分なのに自分ではないその問いかけにユミナは背を向ける。


 ユミナは宿に向かって歩いた。学院通りの石畳。パン屋の前を通った。焼きたての小麦の匂い。昨日、恒一と一緒にパンを買った匂いだった。

 足が止まりかけて——止まらなかった。歩き続けた。


 ——最適な応答を。


 恒一を守る。嘘を維持する。審議会を切り抜ける。それが最適な応答だ。

 自分のことは——後回しにする。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ