第27話 学院の棘
その日は、ユミナに用があった。
魔力感知の精度について聞きたいことがあった。昨日の草原での練習で、方向はわかるが距離の判別がつかないことに気づいた。術式の使い方の問題なのか、恒一の適性の限界なのか。ユミナに確認すれば一分で答えが出る。
午後、ユミナの研究室に向かった。
学院の敷地には入れない。恒一は学院の関係者ではないし、冒険者の身分で学院に出入りする理由もない。いつもは宿で会うか、書庫街で待ち合わせる。しかし今日はユミナが学院で遅くなると朝言っていた。論文の提出期限が近いらしい。
恒一は学院の正門の脇にある石塀に寄りかかって待った。冬の午後。陽は低く、石塀の影が足元に伸びている。門からは学院の庭が見えた。石畳の道が奥に続き、両側に書庫と講義棟が並んでいる。白い石の建物群。窓に灯りが点いている。
待った。
門を出入りする人間を見ていた。学生、研究者、事務の人間。ローブの色が立場を示しているらしい。白は学生。灰は研究員。黒は導師級。ユミナのローブは黒だった。
門から出てくる人間の何人かが、恒一を見た。石塀に寄りかかった少年。「導師の弟子」と気づく者もいたが、声をかけてくる者はいなかった。恒一もこちらから声をかけなかった。
石塀は冷たかった。冬の石は体温を吸う。背中から冷えが染みてくる。恒一は腕を組んで、息を白く吐いた。
待ちながら、昨日のことを考えていた。草原で走った感覚。灯火の不安定な光。魔力感知で感じた、空気の中の微かなざわつき。エルセアのダンジョンに行くなら、あの精度では足りない。ユミナに聞けば、練習の方向性がわかる。消耗させない範囲で——質問だけ。
三十分ほど待った。
門の奥から、声が聞こえた。
最初は普通の会話だと思った。学院の中では常に誰かが議論をしている。魔法理論の論争は日常だと、ユミナが前に言っていた。
しかし声の調子が変わった。一方が高くなり、もう一方が——ユミナの声だった——低く、静かなままだった。
恒一は門の中に目を向けた。
庭の石畳の上に、三人の人影が見えた。二人がローブを着ている。灰色のローブ。研究員だ。もう一人が——ユミナだった。黒いローブ。長い白銀の髪が午後の光を受けている。
二人の研究員がユミナの前に立っていた。一人は四十代くらいの男。痩せていて、顎髭がある。もう一人は三十代くらいの女。腕を組んでいる。
二人の態度は——詰問に近かった。
風が恒一のほうに吹いている。断片的に、声が届いた。
「——提出された論文の処理速度に関して、研究審議会から照会が——」
男の声。事務的だが、底に硬いものがある。
「——通常の文献魔法の理論値を大幅に超えている。導師の魔力量では、この処理速度は説明がつかない——」
「処理速度と魔力量は線形の関係にありません」
ユミナの声。静かだった。冷静だった。しかし恒一には——その静かさが、鋼を張っている音に聞こえた。
「術式の最適化によって、少ない魔力で高い処理能力を——」
「最適化にも理論限界がある」
女の声が遮った。
「あなたの処理速度は、最適化の範囲を超えている。研究審議会の見解です。この速度を実現するためには、通常の文献魔法とは異なる、何らかの——」
女は言葉を切った。言い淀んだのではない。意図的な間だった。その間に、言わなかった言葉が透けていた。
異端魔法。
誰もその言葉を口にしなかった。しかし空気の中に、その言葉の形がある。恒一には——わかった。前世の会社で何度も見た光景だった。会議室で、誰も口にしないが全員が知っている一語。それが場を支配している。
ユミナは動かなかった。
黒いローブの裾が風に揺れた。白銀の髪が顔にかかる。ユミナは髪を払わなかった。
「研究審議会の照会に対しては、書面で回答します。術式の詳細と理論的根拠を提出します。——それで、よろしいですか」
ユミナの声は静かなままだった。しかし最後の一文に、壁があった。これ以上この場では話さない、という壁。恒一が知っている壁。「心配しないでください」と同じ素材でできた壁だった。
男が何か言おうとした。女が男の腕に触れて止めた。二人は顔を見合わせ、頷き、踵を返した。ユミナの前を離れていく。去り際に女が振り返り、ユミナの背中をもう一度見た。その目に浮かんでいたのは敵意ではなかった。警戒だった。理解できないものに対する、冷たい警戒。
ユミナは一人で庭に立っていた。三秒、四秒。恒一はその背中を見ていた。ユミナの肩が——微かに下がった。力が抜けたのではない。張っていたものが、ほんの一瞬だけ揺らいだ。
恒一は石塀を離れた。門に向かって歩き出していた。考えるより先に、足が動いていた。
ユミナが振り返った。恒一を見た。門の外から入ってこようとしている恒一を。
ユミナの表情が変わった。研究員たちに向けていた静かな顔から——恒一に向ける顔に切り替わった。しかしその切り替えの一瞬に、何かが見えた。恐怖だった。恒一に対する恐怖ではない。恒一がここにいることへの——恐怖。
聞かれた、と思ったのだろう。
ユミナが歩いてきた。門を出た。恒一の前に立った。
「恒一さん」
「ユミナ」
「聞いていましたか」
「……一部は」
ユミナは目を伏せた。一拍。顔を上げたとき、表情は整っていた。いつもの顔。丁寧で、事務的で、隙のない顔。
「学院の内部的なやり取りです。研究の査定に関する手続きの一環で、珍しいことではありません」
嘘ではないだろう。しかし全部でもない。あの空気は「手続き」の空気ではなかった。
「ユミナ。あの人たちが言っていたのは——」
「恒一さん」
ユミナの声が、静かに遮った。
「あなたは、関わらないでください」
恒一の足が止まった。
声の調子は穏やかだった。丁寧だった。しかしその穏やかさの中に——鉄の芯があった。お願いではなかった。宣告だった。
「学院の中のことです。私の研究に対する疑問は、私が論文と実績で答えます。恒一さんが介入する必要はありませんし——介入すれば、状況が悪化します」
恒一は口を開きかけた。言いたいことがあった。「異端の疑いをかけられているのか」と聞きたかった。「何か手伝えることはないか」と言いたかった。しかし——ユミナの目が、それを止めた。
ユミナの目は冷静だった。冷静すぎた。この目を恒一は知っていた。「心配しないでください」のときと同じ目。自分の問題に恒一を巻き込むまい、という目。
壁だった。
恒一の境界線とは違う。ユミナの壁。恒一が越えようとした瞬間に——ユミナの側から閉じた壁。
「……わかった」
恒一はそう言った。言うしかなかった。
ユミナは小さく頭を下げた。
「待たせてしまってすみません。帰りましょう」
二人は学院通りを歩いた。石畳に冬の夕陽が差している。影が長い。二人分の影が、石畳の上を並んで進んでいる。
恒一はユミナの横を歩きながら、魔力感知のことを聞こうとした。聞けなかった。今この話をすれば、ユミナは答えてくれるだろう。丁寧に、正確に。しかし——その正確さの裏に、さっきの恐怖が貼りついている。それを無視して日常の会話をすることが、恒一にはできなかった。
黙って歩いた。パン屋の前を通った。焼きたての匂い。甘い匂い。ユミナはその匂いに少しだけ顔を向けた。
「今日の夕食、パンを買っていきましょうか」
「……ああ。そうしよう」
ユミナがパン屋に入った。恒一は外で待った。
通りの向こうに書庫塔が見えた。壁面の文字列が夕陽に光っている。学院の建物群が、その背後に並んでいる。白い石壁。
あの中で、ユミナは二十年間戦ってきた。才能で道を切り拓き、疑惑を論理で退け、孤立しながら研究を続けてきた。恒一が来る前から、ずっと。
恒一には——今の自分には、その戦いに踏み込む資格がなかった。学院のことを知らない。魔法の理論を理解していない。介入すれば、ユミナの言う通り状況が悪化するだけだ。
しかし——「関わらないでください」という言葉は、恒一の胸の中に刺さったまま抜けなかった。
ユミナがパンを抱えて出てきた。温かい紙包み。小麦の香りがする。
「行きましょう」
「ああ」
二人は歩いた。影が長くなっていく。冬の夕暮れは早い。
恒一は思った。関わるなと言われた。わかった、と答えた。しかし——わかっていない。わかったふりをしただけだ。
エルセアに行く理由が、一つ増えた。ユミナの消耗だけではない。ユミナをこの街から——この壁の中から、連れ出す。それも理由になる。
恒一はその考えを、口にはしなかった。




