第26話 ダラの助言
翌日、ダラは事務室にいた。
扉を叩くと、いつもの声が返ってきた。入ると、茶の湯気と書類の束。ダラは椅子に深く座って、帳簿に何か書き込んでいた。ペンを止めずに恒一を見た。
「昨日は不在だったんですね」
「ギルド本部に顔を出してた。月例の報告がある。——で、来たか」
ダラはペンを置いた。まるで恒一が来ることを知っていたような口ぶりだった。
恒一は座った。椅子が軋む。この音に、もう三度目だ。
「エルセアのことで、もう少し聞きたいことがあります」
「冒険会社か」
「はい」
ダラは茶を一口飲んだ。杯を机に置く音。静かな事務室の中で、その音だけが響いた。
「お前さん、二階の書架に行ったな」
恒一は驚いた。ダラは不在だったはずだ。
「受付に聞いた。『あの少年が朝から二階にこもってた』って。——調べたんだろう。冒険会社の制度。求人案内」
「……はい」
「いい癖だ。人に聞く前に自分で調べる。——で、調べた上で聞きに来た。何が知りたい」
恒一は一つ一つ聞いた。
冒険会社に入るための手順。個人で応募できるのか。紹介があると何が変わるのか。未経験者は受け入れられるのか。
ダラは淡々と答えた。
個人応募はできる。ただしターレ港に着いてからの手続きが煩雑で、身元の保証がなければ門前払いになる会社も多い。紹介状があれば、保証人がいるのと同じだ。手続きが簡略化される。未経験者は——受け入れる会社と受け入れない会社がある。上層の採取班なら未経験でも問題ない。
「ドラク商会。知ってますか」
ダラの灰色の眉が動いた。
「求人案内で見たか」
「はい。2〜4層。採取班、護衛班、記録係。基本給月額金貨三枚」
「——ドラク商会は、俺の知り合いがやってる」
やはりそうだった。
「グレン・ドラク。俺が冒険者だった頃の同業だ。膝を壊す前、ターレ港で二年一緒に潜った。俺が引退した後、あいつは残って会社を興した。堅実な男だ。派手なことはしない。社員を大事にする。中小だが、ターレ港では評判がいい」
ダラの声に、普段にはない温度があった。知り合いの話をするときの、穏やかな声。恒一はその声の変化を聞きながら、ダラにもかつての仲間がいたのだ、と思った。膝を壊して引退した後も繋がっている相手。手紙が来る相手。
「グレンの会社は2層から4層だが、3層までは安全管理がしっかりしてる。新人は2層から始めて、半年で3層に上がる。4層は経験者だけだ。——お前さんが入るなら、まず2層の採取班か護衛班だろうな」
「2層は、どういう場所なんですか」
「薄暗い。天井が高い。鍾乳洞のような地形で、壁に魔力石が生えてる。変異動物は小型が多い。鼠に似た奴と、甲殻のある虫。危険度はエリン近郊の護衛依頼と大差ない。——ただし」
ダラの目が細くなった。
「地下だ。逃げ場が限られる。判断を間違えたら、地上のように走って距離を取れない。壁と天井に囲まれた中で、退路を確保しながら動く。——地上とは頭の使い方が違う」
恒一は頷いた。閉所での戦闘。前世にその経験はない。この世界でも、書庫塔の地下で一度ゴーレムに遭遇しただけだ。あのときは逃げた。逃げられる構造だったから逃げられた。ダンジョンではそうはいかない。
「お前さんがエルセアに行くなら、紹介状を書いてやれる。グレンへの紹介だ」
恒一は黙った。紹介状。ダラが、自分のために書く。
「お前さんみたいな判断ができる奴は、ダンジョンで重宝される」
ダラは恒一を見た。灰色の目が、いつもの観察眼で恒一を見ている。
「護衛依頼のときの話は聞いてる。変異動物を倒さずに追い払った。位置取りで調査隊を守って、ユミナの術式と連携した。——あれは、腕力じゃなくて頭の仕事だ。ダンジョンでは腕力だけの奴から先に死ぬ。判断力で生き残る奴が、一番長く続く」
「……買いかぶりです」
「事実を言ってるだけだ」
ダラは椅子の背に体重を預けた。木が軋む。
「紹介状は明日にでも書ける。あとはお前さんが決めることだ」
ギルドを出た。
午後だった。空は薄く曇っている。風は昨日ほど冷たくない。石畳の上に、冬の淡い光が広がっている。
恒一は宿に向かわなかった。
エリンの東門から外に出た。街道を少し歩き、道の脇の草原に入った。枯れ草が膝の高さまで伸びている。冬枯れの草の匂い。乾いた匂い。護衛依頼のときに歩いた道と、同じ匂いがした。
恒一は立ち止まった。
周囲に人はいない。遠くにエリンの城壁が見える。書庫塔の先端が壁の上に突き出ている。
右手を開いた。閉じた。
拳を握る。力を入れる。十四歳の身体の拳は小さい。しかし握りの中に、確かな硬さがある。再構築で作られた身体——ユミナの記憶の中の「恒一の身体」に、生成AIの知識が混じっている身体。
この身体に何ができるか。恒一は確認し始めた。
足を踏み出した。走った。全力ではない。七割の速度で、草原の中を走る。足が地面を蹴る。膝が衝撃を吸収する。体幹が安定している。この身体は——速い。十四歳の少年としては異常なほど速い。ハルシネーションが身体に刻んだ運動能力。恒一が意識して使えるものと、身体が勝手に発動するものがある。
走る。止まる。方向転換。右に。左に。足裏の感覚で地面の硬さを読む。枯れ草で滑る箇所と、土が締まっている箇所。——この判断を、身体が自動で行っている。恒一の意識は、身体がどう動いたかを後から追っている。
止まった。息が上がっている。白い息が冬の空気に溶ける。
護衛依頼のとき、身体の自動判断を意志で止めた。あの変異動物との間合いで、飛び込もうとする衝動を抑え、位置取りを選んだ。あれが——恒一にできる戦い方の原型だった。
身体の速度と反応を土台にして、恒一の意志で状況を判断する。力で押すのではなく、選択肢を限定して、最小限の動きで結果を出す。
しかし、それだけでは足りない。
恒一は右手を前に伸ばした。指を開く。意識を集中させた。
ユミナに教わった灯火。術式の起動は——指先に魔力を集めること。この身体には文献魔法の適性がある。ユミナがそう言った。
指先に、小さな光が灯った。白い。蝋燭より弱い光。数秒で消えた。
まだ不安定だった。持続時間が短い。暗所で足元を照らせる程度。戦闘中に使うには遅い。
もう一つ。魔力感知。恒一は目を閉じた。
周囲の空気の中にある魔力の流れを感じ取る。ユミナが言うには、「空気の中に微かな電流が流れているようなもの」だと。恒一は——何となく、わかる。皮膚の表面がざわつく感覚。方向と距離は曖昧だが、何かがいるかいないかは判別できる。ゴーレムのような術式構造体なら、より強い反応がある。
ダンジョンでは、壁の向こうの気配を察知できるかどうかが生死を分ける。ダラの話を聞く限り、そういう世界だ。
目を開けた。
整理した。
できること——身体の速度と反応。基礎的な灯火と魔力感知。状況判断。位置取り。ユミナとの連携。
足りないもの——灯火の持続時間と安定性。魔力感知の精度。身体の自動判断と自分の意志を統合する技術。ダンジョン内の空間認識。暗所での行動経験。
リストにすると、足りないものの方が多い。
しかし——ダラは言った。「判断力で生き残る奴が、一番長く続く」。恒一に腕力はない。魔法の才能もない。しかし判断力は——四十五年の人生で、それだけは鍛えてきた。
恒一は草原に立ったまま、呼吸を整えた。冬の空気が肺に入る。冷たい。身体が温まっている。汗が首筋を伝う。
ユミナには言わない。自分の戦闘力を確認していることを。ユミナが知れば心配する。「危険です」と言うだろう。恒一が無理をしていると思うだろう。
違う。無理ではない。確認だ。自分に何ができて、何ができないかを知っておくこと。足りないものは、エルセアに着くまでの二週間で——できる範囲で補う。灯火の練習は一人でもできる。魔力感知は歩きながら使える。身体の動きは、走ることで少しずつ感覚を掴める。
ユミナに頼むのは最小限にする。術式の質問だけ。消耗させない範囲で。
恒一はエリンの方へ歩き出した。城壁が近づいてくる。東門の上に旗が揺れている。
明日、ダラに紹介状を頼む。それからユミナに話す。
中央ダンジョンの魔力石のこと。エルセアの冒険会社のこと。ドラク商会のこと。ダラの紹介状のこと。全部揃えて——提案する。
石畳を踏んだ。門をくぐった。エリンの街の音が戻ってきた。人の声。荷車の車輪の音。どこかで金属を叩く音。鍛冶屋の仕事だろう。金属と炭の匂いが路地の奥から漂ってくる。
宿への道を歩いた。見慣れた石畳。書庫塔の影が長く伸びている。冬の午後の光は低い。
ギルドに来て三週間。この街に来て四週間。短い時間だった。しかしこの四週間で恒一は——冒険者になった。依頼を受けた。報告書を書いた。変異動物を追い払った。灯火を覚えた。ダラと茶を飲んだ。
この街を離れることになる。
恒一はその思いを——まだ、飲み込んだ。




