第25話 もう一つの冒険制度
ギルドの二階に、書架がある。
書架と呼ぶには小さい。壁の一面に棚が三段、そこに革表紙の冊子と巻物がいくつか並んでいるだけだった。学院の書庫塔に比べれば本棚の切れ端のようなものだが、冒険者にとって必要な情報——各地の依頼傾向、報酬相場、街道の治安情報——はここに集まっている。
恒一は朝から二階にいた。
窓は小さい。すりガラスのように曇った窓から、冬の弱い光が斜めに差している。階下からは冒険者たちの声が聞こえる。靴音と、木の椅子が床を擦る音。時おり笑い声。ギルドの一階は朝から賑やかだった。
二階は誰もいない。埃と革と古い紙の匂い。恒一は棚の前に立って、冊子を一つずつ抜き出していた。
エルセア。
昨日ダラから聞いた名前が、頭から離れなかった。
冊子の一つに、大陸各地の冒険制度の比較が載っていた。ギルドの事務方が作成したものらしく、書体は均一で読みやすい。恒一はそれを机に広げた。
——冒険者ギルド。個人登録制。加盟国の都市に支部を持つ互助組合。依頼は掲示板から自由に選択。報酬は完全成果払い。保険制度あり、ただし掛け金は自己負担。
これがエリンの制度だった。恒一が登録し、ダラのもとで依頼をこなしてきた枠組み。自由で、自己責任で、失敗すれば収入がない。
その隣の欄に、別の制度が記されていた。
——エルセア冒険会社制度。国の認可を受けた法人が冒険者を社員として雇用する。担当階層の探索権は会社単位で競売にて取得。社員には基本給が支給される。探索計画、報告書の提出、担当階層以外の探索禁止。
恒一は読みながら、自分の口元が歪むのを感じた。
基本給。報告書。担当階層の制限。
前世で四十五年かけて覚えた言葉ばかりだった。
冊子をさらに読み進めた。エルセアの冒険会社には等級がある。大手五社と中小合わせて数十社。大手は社員数百名規模、深層の探索権を持ち、国家事業にも参画する。中小は上層から中層を担当し、素材採取が主な事業。
会社間の競争がある。探索権の競売は年二回。前年の実績と探索計画書を提出し、国の審査を通った会社だけが入札できる。探索権を失えば、会社は立ち行かなくなる。
——これは、入札と予算と期末報告の世界だ。
恒一は冊子から目を上げた。窓の曇りガラスを見た。光が白く滲んでいる。
前世の記憶が、水面に浮かぶ泡のように次々と上がってきた。
四月の辞令。部署異動。新しい上司。年度末の予算消化。取引先の名刺交換。会議室の蛍光灯。コピー機のインクの匂い。昼休みのコンビニ弁当。終電のホーム。——二十年以上繰り返した生活の質感が、異世界のギルドの二階で蘇る。
不思議な気分だった。
嫌だったはずだ。満員電車も蛍光灯も書類の山も。しかし今ここで冒険会社の制度を読んでいると、懐かしさとは違う何かが胸の底にある。
組織に属するということ。役割を与えられること。報酬が読めること。自由はないが——枠がある。
エリンのギルドは自由だった。自分で依頼を選び、自分で動き、自分で稼ぐ。四十五歳の恒一にはその自由が心地よかった。前世で与えられなかった自由。
しかし自由には限界もあった。
恒一は冊子を閉じた。革表紙の感触。指先に埃の乾いた粒が触れる。
限界。恒一の限界ではない。ユミナの消耗に対して、エリンのギルドで稼げる金額の限界だった。
金貨十枚。エリンの市場価格での中央ダンジョン産魔力石。恒一の月収が金貨二枚に届くかどうか。五ヶ月分の稼ぎで原石一つ。その五ヶ月をユミナの身体が持つのか。
数字を並べると答えが出る。足りない。
恒一は別の冊子を取った。エルセアの冒険会社の求人案内が載っている。毎月ギルド経由で各地に配布されるものらしく、日付は二ヶ月前だった。
中小の会社が並んでいた。社名、担当階層、募集職種、待遇。
——ドラク商会。担当階層: 2〜4層。募集: 採取班、護衛班、記録係。基本給: 月額金貨三枚。成果報酬: 採取量に応じて加算。宿舎提供。
月額金貨三枚。成果報酬は別。宿舎あり。
恒一の目がその数字に止まった。エリンのギルドで月に金貨二枚。エルセアの冒険会社で月に三枚プラス成果報酬。単純計算で一・五倍以上。しかも現地で魔力石を買えば価格は三分の一か四分の一——。
計算。前世の癖。数字を並べて比較して、判断材料を揃える。
恒一は求人案内を読み続けた。ドラク商会の名前には見覚えがあった。ダラが昨日言っていた——「昔の仲間が何人か、向こうで会社をやってる」。
ダラの仲間の会社。それがドラク商会なのかは、まだわからない。しかしダラがエルセアに二年いて、今もそこから手紙が届くという事実。ダラの繋がりが、エルセアにはある。
階下で椅子の音がした。冒険者が席を立つ音。靴が床を鳴らす。扉が開いて、冬の冷たい空気が二階にまで微かに届いた。首筋がわずかに冷える。
恒一は冊子を棚に戻した。
情報は揃いつつある。中央ダンジョン。魔力石。エルセアの冒険会社制度。移動に十日から二週間。費用は馬車賃と食費。現地での収入見込み。
足りないのは——決断だった。
恒一は階段を降りた。一階のギルドは活気がある。掲示板の前に冒険者が三人集まって、依頼書を見比べている。受付の奥で事務員が帳簿を捲っている。日常の音。
ダラの小部屋は閉まっていた。今日は不在らしい。
ギルドを出た。
石畳に冬の光。書庫塔が遠くに見えた。いつもの風景。冬の風が正面から吹いてくる。鼻の奥がつんと痛む。
歩きながら考えた。
冒険会社に入ること。それは——前世でいうところの転職に近い。フリーランスから正社員への転向。自由を手放して組織に入る。
前世では逆だった。正社員の枠の中で二十年働いて、何も変わらなくて、変わらないまま倒れた。あの日——コンビニの前で胸を押さえて膝をついたとき、最後に見たのは蛍光灯だった。会社の蛍光灯ではなく、コンビニの蛍光灯。それでも同じ白い光だった。
今度は自分から枠に入ろうとしている。しかも——誰かのために。
恒一は足を止めなかった。
宿に戻ると、ユミナは部屋にいた。
机に向かっている。分厚い書物を開き、羊皮紙に何かを書き写していた。文献魔法の研究だろう。ユミナはエリンの学院に籍を置いている。導師級の研究者として、定期的に論文を提出する義務がある。
恒一が扉を開けると、ユミナは顔を上げた。
「おかえりなさい。ギルドですか」
「ああ。依頼を見てきた」
嘘ではない。依頼も確認はした。しかし時間の大半は二階の書架にいた。そのことは言わなかった。
ユミナの顔を見た。昨日より——少しだけ顔色が良い。唇にわずかに血の色がある。鼻血の痕はない。今日は落ち着いている日なのだろう。
「お昼、まだでしたら下で食べましょうか。パンと豆の煮込みがあるそうです」
「ああ、食べよう」
ユミナが書物を閉じた。しおりを挟む手つきが丁寧だった。立ち上がる動作に、ぎこちなさはない。しかし恒一は——見ていた。立ち上がる瞬間、ユミナの左手が一瞬だけ机の縁を掴んだ。支えが必要な動作。昨日までならそれすら見逃していただろう。
言わない。まだ言わない。
情報が足りない。エルセアの冒険会社に入る具体的な手順。ダラの仲間がどこの会社の誰なのか。紹介があるのとないのとで、何が変わるのか。全部揃えてから——提案する。
提案であって、押しつけではない。ユミナが判断する。恒一は判断材料を揃える。それだけだ。
食堂は一階にある。宿の主人が大鍋から煮込みをよそってくれた。豆と根菜の煮込み。湯気が立つ。匙を口に運ぶと、塩と脂の素朴な味がした。温かい。冬の日の昼食としては十分だった。
ユミナは小さなパンを千切りながら、煮込みに浸して食べていた。量は——多くはない。しかし食べている。昨日より食べている。
恒一は自分の椀に視線を落とした。
ダラにもう一度会う。明日か、明後日。エルセアの冒険会社に入る手順と、ダラの仲間の話を聞く。紹介状が出るなら——それが最善だ。
豆の煮込みを一口、また一口と食べた。温かさが腹の底に落ちていく。
パン屋の前を通ったときの匂いを思い出した。焼きたての小麦。あの匂いが、冷えた空気の中に一筋だけ温かく漂っていた。
——会社か。
二度目のその言葉は、昨日とは響きが違った。苦笑ではなかった。




