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第24話 中央ダンジョン

 翌日、ギルドに行った。

 依頼を選ぶためではなかった。昨日の昼食の後、恒一は一晩考えていた。ユミナの鼻血。手巾の赤い染み。「ただ——」と言いかけてやめた声。時間をかければ回復する、とユミナは言った。しかしその前に別の何かがあった。時間だけでは足りない何かが。

 恒一にわかるのは、自分が魔法の専門家ではないということだった。再構築(リライト)の消耗がどういう仕組みで起きているのか、どうすれば軽減できるのか、恒一には判断する知識がない。ユミナに聞いても「大丈夫です」としか返ってこない。

 だから恒一は、別の場所で情報を探すことにした。


 ギルドの事務室。前と同じ小部屋だった。木の机と椅子と帳簿の棚。窓から差す午前の光。ダラは机の向こうに座っていた。書類の束と杯。茶の湯気が細く立っている。

 ダラは恒一を見て、杯を掲げた。


「今日は依頼じゃなさそうだな」


「わかりますか」


「顔が違う。仕事を取りに来る顔じゃない。何か聞きたいことがある顔だ」


 恒一は座った。椅子が軋む音。この音にも慣れた。


「ダラさん。冒険者をやっていた頃、ダンジョンに潜ったことは」


「あるぞ。エリンにはまともなダンジョンがないから、他の土地でだがな」


 ダラは茶を一口飲んだ。


「どこのダンジョンだ。エリンの外に出ようって話か」


「いえ。まだそこまでは。——ダンジョンで採れる素材について知りたいんです。特に魔力石」


 ダラの灰色の眉が、僅かに持ち上がった。


「魔力石、か」


 ダラは杯を机に置いた。陶器が木に当たる小さな音。


「お前さんが魔力石に興味を持つ理由は——まあ、聞かなくても見当はつくがな」


 恒一は何も言わなかった。ダラも追及しなかった。この距離感が、ダラという人間だった。


「魔力石の話をするなら、一つ避けて通れない場所がある」


 ダラは棚から地図を出した。大陸の南部が描かれた古い羊皮紙。折り目に沿って茶色い染みがある。何度も広げられた地図だった。

 ダラの指が、沿岸部の一点を示した。


「エルセア王国。ターレ港。——中央ダンジョンがある」


「中央ダンジョン」


「この大陸で最大のダンジョンだ。1層から8層までが実務層。魔力石、変異動物の素材、薬用菌、鉱石——地下に丸ごと一つの経済圏がある。ターレ港はその出入り口だ」


 ダラの声は事実を並べるときの声だった。報告書を読み上げるように淡々としている。しかし地図を示す指先には、かつてその場所を知っていた人間の手触りがあった。


「俺が冒険者だった頃、ターレ港に二年いた。膝を壊す前だ。中央ダンジョンの3層まで潜った。——あれは、地上とは別の世界だったな」


「別の世界」


「言葉の通りだ。空気が違う。地上の空気は乾いているが、ダンジョンの空気は重い。湿っているのとも違う。魔力を含んだ空気が肌に触る感覚がある。深く潜るほど、それが濃くなる」


 恒一は黙って聞いていた。ダラが自分の冒険者時代のことを具体的に語るのは珍しい。膝の話をしてくれたとき以来だった。


「魔力石は、その空気が結晶化したものだと思えばいい。ダンジョンの壁面に生える。層が深いほど純度が高い。——で、お前さんが知りたいのは、たぶんこっちの話だろう」


 ダラは恒一を見た。


「中央ダンジョン産の魔力石は、この大陸で一番濃い。他のダンジョンの石とは桁が違う。文献魔法(アーカイブアーツ)使いの消耗にも効くという話だ。石を砕いて溶液にしたものを飲むか、原石を身につけて魔力の自然回復を促すか——やり方はいくつかある」


 恒一の手が、膝の上で止まった。

 文献魔法(アーカイブアーツ)使いの消耗に効く。

 その言葉が、昨日のユミナの顔に重なった。血の気のない白い顔。手巾の赤い染み。「時間をかければ回復します」——その前にあった「ただ」。


 ユミナが飲み込んだ言葉は、これだったのか。

 時間だけでは足りない。しかし別の手段がある。魔力石のような外部からの補助があれば——。


「ダラさん。その魔力石は、エリンでは手に入らないんですか」


「入ることは入る。流通品がある。ただし高い。中央ダンジョン産の原石は、エリンの市場価格で金貨十枚以上だ。粉末の溶液でも金貨三枚。——お前さんの稼ぎでは厳しいな」


 金貨十枚。恒一の一ヶ月の収入が金貨二枚に届くかどうかという状況で、十枚。計算するまでもない。


「現地で買えば——」


「安くなる。当然だ。産地だからな。エリン価格の三分の一か四分の一。それでも安い買い物じゃないが、手が届かない額じゃなくなる」


 ダラは地図の上に指を滑らせた。エリンからターレ港までの道筋を辿っている。


「街道で十日から二週間。馬車が出ている。船を使えばもう少し早いが、この時期は風が安定しない」


 恒一は地図を見ていた。羊皮紙の上のターレ港。インクで描かれた小さな点。その点の地下に、大陸最大のダンジョンがある。


「エルセアの冒険制度は、エリンとは違う」


 ダラの声が、少し変わった。情報提供から、忠告に近い調子になっている。


「ギルドの自由登録制じゃない。向こうは冒険会社制度だ。国の認可を受けた法人が、社員として冒険者を雇う。ダンジョンの探索権は会社単位で競売にかけられる。個人じゃ潜れない」


「会社」


 恒一は思わず声に出した。会社。前世で二十年以上勤めた組織形態の名前が、異世界の冒険制度の中に現れた。


「そうだ。基本給が出る代わりに、会社の指示に従う。担当階層以外の探索は禁止。報告書も会社に提出。——エリンのギルドとは空気が違う」


「……会社か」


 恒一の口から、苦笑に近い息が漏れた。四十五年の人生で、会社という言葉に良い記憶はほとんどない。満員電車と蛍光灯とコピー機の匂い。しかし——悪い記憶ばかりでもなかった。組織に所属する安心感というものが、確かにあった。報酬が読める。役割が明確。自由はないが、枠がある。


「お前さんの顔、面白いな。会社と聞いて嫌そうな顔をしたと思ったら、考え込んでる」


「前の仕事を思い出しただけです」


「また前の仕事か」


 ダラが笑った。大きな笑いではない。目尻に皺が寄る程度の、静かな笑い。


「——俺は、お前さんに何をしろとは言わない」


 ダラの声が落ち着いた。


「ただ、情報は出す。エルセアには中央ダンジョンがある。魔力石がある。冒険会社がある。お前さんがそれをどう使うかは、お前さんが決めることだ」


 恒一は頷いた。


「ダラさん。一つ聞いていいですか」


「なんだ」


「エルセアのこと、なぜそんなに詳しいんですか。二年いたから、だけじゃないでしょう」


 ダラは灰色の眉を動かした。少しだけ間があった。


「……昔の仲間が何人か、向こうで会社をやってる。たまに手紙が来る。——それだけだ」


 それだけではないことは、恒一にもわかった。しかし踏み込まなかった。ダラの境界線だった。


「ありがとうございます。考えます」


「ああ。考えろ。——ついでに依頼も見ていくか? 護衛が一件出てる」


「見ます」


 恒一は立ち上がった。ダラも立ち上がった。右足を庇う動作。いつもの動作。



 ギルドを出た。

 午後の光が石畳を照らしている。書庫塔が遠くに見える。壁面の文字列が光っていた。冬の風が冷たい。首筋に当たる風の硬さが、季節の深まりを教えている。


 恒一は歩きながら考えていた。


 中央ダンジョン。魔力石。エルセア。冒険会社。

 情報を並べた。前世の癖だ。情報を並べて、関連を探して、判断する。


 ユミナの消耗は、時間だけでは回復しない——あるいは、回復が極端に遅い。ユミナ自身がそれを知っている。「ただ」の後に続くはずだった言葉は、おそらく魔力石のことだった。あるいは、それに類する外部からの魔力補助。

 なぜ言わなかったのか。

 金がないからだ。エリンの市場価格で金貨十枚。恒一の稼ぎでは到底届かない。言えば恒一が無理をする。ユミナはそれを避けた。「心配しないでください」——あの言葉は、自分の問題に恒一を巻き込みたくないという壁だった。


 恒一は足を止めなかった。歩き続けた。


 壁だ、と思った。ユミナの「心配しないでください」は壁だった。しかし——恒一にも壁がある。四十五年間引いてきた境界線。ダラに指摘された線。

 ユミナは壁を立てて恒一を遠ざけ、恒一は線を引いてユミナに踏み込まない。二つの壁が向き合っている。その間に——昨日、「心配してる」という言葉だけが、かろうじて通った。


 恒一は宿の方角へ歩いた。今日はまだユミナに何も言わない。情報が足りない。エルセアの冒険会社のこと。魔力石の効果の詳細。移動にかかる費用と時間。全部調べてから——提案する。

 提案。そう、提案だ。命令でも懇願でもない。「こういう選択肢がある」と提示する。ユミナが判断する。恒一はその判断材料を揃える。


 それが——四十五歳のサラリーマンにできることだった。


 冬の風が吹いた。書庫塔の光が、午後の空に溶けている。


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